魂を込める

命を吹き込む

臨床において―いや全てのプロフェッショナルと呼ばれる根源はスピリッツに他なりません。スポーツにおいても、最後は気持ちと言われています。気持ちとはなんでしょうか?最後まで諦めない。勝利に対する執念。ではその諦めない気持ちや執念はどこからくるのでしょう。サッカーでもボクシングでも幼少時代は貧しかったとよく聞きます。恵まれた環境でなければできないスポーツも多々ありますが、今年全てのタイトルを総嘗めにしたあのさわやかな若大将と称される原監督も幼少の頃は貧しく、いつでもハングリ~精神を忘れることはないようです。ボクシングもチャンピオンになった途端にハングリ~精神が失われ失墜していく選手がいます。最低限の向き不向き、技術や体力に恵まれていなければプロの土俵に立てないことは確かですが、今年のセ・リーグの新人王は昨年の山口選手に続き育成枠の松本選手でした。当然ドラフト上位選手のほうが実績では上の評価のはずです。ただ本当のスーパースターは最初から他とは違う光るものを持っている必要はありそうです。話を戻しますと、人の身体を動かす原動力は、メンタルが不可欠でありハングリ~精神が原動力になっているということです。ハングリ~精神も貧しくてというダイレクトなハングリ~は日本人には環境的に困難な状況で、また世界的にも富裕層は大成しないことになってしまいます。ドバイなどオイルマネーの国々がJリーグなどから高額な移籍金にて引き抜かれています。しかしながら税金もない、電気ガス水道など全て無料の国においては、サッカーで一喜一憂する雰囲気にないようです。自らのチームとして愛着を持ち、チームとともに歩む育ち、そして先祖から脈々とその精神が受け継がれている。そんな環境でこそ選手も闘うスピリッツが燃え上がるのです。現在、NFLでは四年前にハリケーンカトリーヌにて壊滅的な被害を被ったニューオーリンズを本拠地とするチームが無敵の快進撃を続け発のスーパーボール進出に近付いています。壊滅的な被害のなかで街がまず手掛けたことはフットボールのスーパードームの復興でした。開幕まで四か月という僅かな期間のなかで集まった900人たらずの人達でドームを使えるところまで改修したのです。選手もアメフトばかりをするわけにはあかないため、街の復興のために労力として働いたのです。このような経緯を経て試合に駆け付けてくれた観衆の前でプレーする選手は、奮えるような、感動に近いわき出る気持ちが一杯になることでしょう。ハングリ~とはまた種類が違うかもしれませんが、大義名文が個人レベルではなく、人類といったレベルになるのです。もし地球のために闘うというシチュエーションになったとしたら、人類はまた新たなステージに立つことになるでしょう。現在は地球そのものが交通機関やメディアの発達、IT社会化により世界が近いものになりました。今やあまり知らないものが無い時代に突入してきています。勿論まだまだ知らないことはあるのですが、IT社会以前のような感動は無いかも知れません。その瞬間は凄いと感じますが、パビリオンのアトラクションに乗っているのと変わらない感覚と変わらないかもしれません。バーチャルなゲームが沢山でているため、その場で本当にリアルな擬似体験ができてしまいます。ゲーム画面を見るとビックリするぐらい綺麗でファンタスティックな世界が広がっています。しかしあくまでバーチャルリアリティーなので、スイッチを切ったらすぐに感覚は消えてしまいます。またスイッチを入れると簡単に手に入るリアリティーなので、ドンドン刺激が欲しくなり、依存性になってしまいます。
伝統、名門、勝つことが義務づけられた常勝軍団、ブラジルのサッカーのように勝つことだけでは評価されない、一種異様ともいえる熱狂、政治をも巻き込む論争。プレッシャーも相当ですが背負っていく誇りも並大抵ではありません。日本の国技とはまた次元が違うレベルです。このような背景にて必然性が高くなり動力源になることもあります。
 またオリンピックでは日本は純粋に金メダルをとるこということが大義名分になっていますが、海外では生活が保障されたりその後のビジネスに直結するなどの別のモチベーションが存在している場合があります。また時には対日感情であったりすることもあります。これもモチベーションとして存在するものです。
 臨床においてはどうでしょう。日本のリハビリは地位、名誉、権力、お金などなどの世界とは縁遠い珍しい?職種です。出世したいですか?といわれてもピンとこない、お金儲けしたいですか?といわれてもそのようなモードで考えもしたことがない。役席につきたいですか?と問うと大半の人は首を横に振ります。
 知的好奇心と本当に患者さんのためにという気持ち、その根底に家族が障害を有した経験があるななどの強い動機づけが必要です。命や魂という目に見えない、現代の全ての価値観をとっぱらったところの原点に触れる必要があるようです。私自身も20年の臨床生活ですがいまようやくそのこことの意味がわかったように思います。しかしながらよく考えたら入職して一年目の時にはそれができていたのです。あまりにも集中してみるあまり午前中でエネルギーを使いはたしていたり、患者さんのことを三日三晩考えてそして解決策を見出そうとしたり、その時は一年目でありながら必ずといっていいほど結果がでていました。技術や知識では圧倒的に今のほうが優れているはずですが、一年目のあの気持ちに今が勝っているかどうかというと怪しいものです。結果も一年目と比べてどうかというと、もしかして一年目だからこそ良くできた患者さんもいつかもしれません。一年目の時に股関節が痛い患者さんい、考えて考えて四つバイにてPNFをすることを思いつき試して結果が良かったことがありました。そのような発想はおそらく必至に考えたからこそだと思います。何人かのセラピストにきいても、一年目はそれなりに結果がでていたように思う。今と比べてはたしてどちらが結果が効果がでているかといわれると微妙だ!という声がきかれます。原点回帰、つまりリハビリテーションの歴史や理念をもう一度再確認して掲げておくことが最も大切な奥儀なのかもしれません。
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