FC2ブログ

理学療法士のスキルについて考える

理学療法士のスキルについて考える
理学療法士のスキルとして、初期の頃の臨床イコール価値という中においては、いわゆるゴッドハンドという存在が最もヒエラルキーのトップに君臨していました。つまり「結果の出せる」ということ変化を出せる、反応を引き出せる、マジックのような即時的な改善が指標となっていました。
もちろん今でも腕があるというのは魅力的ではありますが、最近はそこまで「結果を出す」「結果を出せる」というフレーズを使わなくなりましたね。
使い古された感もありますが、おそらくそんな美味しい話はないということ・・・世の中そんな簡単に良くなったら苦労しない・・・研修会では変化は出るけど実際の臨床ではそうはいかない・・・現実に目が覚めたといった感じですね。
それに他にもあらゆる職種やアプローチが理学療法以外にも山ほど情報として出回っている中で、自分たちが第一に選択されているわけでもなく、実際に理学療法士自身が身体に不調を生じたときに、簡単には治らない現実に直面するからです。人は治せるような気になっているけれど、自分は治せないという現実・・・これは自分が治せるという思い込みではないのか?またその自分が治せるという勘違いが、客観的に見ると患者やクライアントが冷静に見ていて、使い分けをしているという事実。現に理学療法のみを受けて良くなっているわけではなく、マッサージや整体そしてトレーニングを併用している中で理学療法を受けているというカラクリが明らかになると、患者自身も気を使ってセラピストの自尊心に傷がつかないようにしているということなのです。
日本人は優しいので、側から見ると「おいおい」という現状においても言い切っている人には寛容に受け止めて聞く側に回るという習性があるため、自信を持って喋っている人は全て受け入れられていると勘違いしてしまうのです。
つまり医療人に対して患者は弱い立場にあるため、自信を持って喋っている人に対しては基本は受け入れてくれます。もちろん本当に実力がある人もいますので、その自信とエセ自信勘違いということの二種があります。病院を背景にして言い切ると、普通の人は受け入れてくれます。
そこに監査役のひとが入らない理学療法の臨床があったりするのです。そのカラクリが明らかになってきて、単にゴッドハンドということが褒め言葉にならなくなってきました。結局は、大切なのはそこではない!からです。1人の力では結果的に社会やその人さえも変えることはできない…そして良くなった。軽くなったというその場限りのカラクリが見えてしまったいまにおいては、その人そのものだけがクローズアップされるような風潮は時代遅れとなっているからです。つまり情報化社会であらゆる情報が手に入る中で、時に将棋においてはアマチュアがプロを次々と破っていくことも珍しくなくなっている(元奨励会員)のは、ネット将棋の発達による恩恵であると言えます。クローズからオープンになった昨今においては、特に徒手療法の世界においては、形に残らない、商品として製品として出回るわけでもなく、逸話として伝わってくるような世界です。昔の達人が神様かのように神格化されることがありますが、比較対象できない中での基準であった可能性もあります。よって達人や職人というものは、本物と自称があるということです。無形文化財になるような方はこれはまさに生きた国宝ともいうべきです。イチロー選手などは、まさに達人の領域であり、今に生きる伝説のアスリートであります。

もちろん晩年は打てなくなってパフォーマンスの衰えは否めませんでしたが、その生き様といい歩んできた道は万人に感銘を与え、全国民を鼓舞してきた偉人です。

職人の中には料理の達人、伝統芸能の達人、物作りの達人がいますが、理学療法における達人とは何なのでしょうか?
おそらく圧倒的に理学療法における達人とは、故入谷誠先生であることは疑いようの余地がありません。
そのレベルに域に達しているセラピストは、私が知らないだけでいるのかも知れませんが、知っている限りにおいてはいません。生き様そのものが達人であり職人だからです。テクニックや知識がある人は沢山いますが、職人かと言われると伝説になるかと言われると該当しないのです。

では何が足りないのか・・・伝統と職能団体としての経験です。
日本の理学療法はまだ50年余りの歴史しかありません。もちろんその中には日本の気質を受け継いで、職人魂で邁進した先輩方は沢山いました。「日本一の理学療法士になる」と堂々と宣言していた理学療法士もいました。今では考えられないですよね。それぐらいの気概もあったのですが、往々にしてお互いの足の引っ張り合いに終始していたことも事実です。それは新しい分野での地位と権力闘争です。自分がパイオニアだからこそ、領土を自分のものにしようという己の欲が出やすい環境だったのです。理学療法も世界だけではなく社会からも鎖国しているようなものでしたので、自己判断と自己基準にて良し悪しを決めていました。自己判断ですから気分が変われば、気持ちが変われば、何か新しい知識や情報を得たら、全て自分の立身のために利用しようとします。

現在は社会保障の中で翻弄されている若い理学療法士が中心となって現場を支えているわけですが、明らかに昔のPTよりも協調性と客観性と他職種連携のスキルは高いです。つまり在宅復帰やICFましては自立支援などと唱えられてくると、そこに職人の世界とはかけ離れてきます。自尊心を満たすための道具としての理学療法を使えなくなります。逆に言えばそのような思考の理学療法士は、求められていないとも言えるのです。

何れにせよ、国民栄誉賞のような延長戦上にはない、もしくはオリンピック競技の延長線上にないような分野の陥りやすい、逸話や伝説によって神格化されてしまう世界はどんどんカルト化していきます。逆に言えばカルト化させない限りは成り立たないということなのです。これはこれで需要がありますので、延々と続いいていきます。表舞台の最前線には立たなくても、ディナーショーでずっと食べていけるのです。それはそれで需要があるということなのですが、ただのエンターティナーであり医学や科学なのだろうか?そういった疑問が湧き出てきます。医師であればそのような昔の遺産で食べていけるほど甘くはありません。医学は日進月歩であり古い治療方法や技術は明らかに学ぶ意味がありません。最先端の医療と治療方法を常にアップデートすることが医師の義務です。しかしながら、理学療法は何が最先端かさっぱりわかりません。よって、モデルとなる歴史と伝統がないのです。手段として用いることがスタートではあるものの、手段として理学療法を利用することができるわけです。

理学療法は地位と名誉と権力とお金に縁のない職業です。これが人間の根源的な欲求を歪ませて、表向きの大義名分を掲げての、その真意は欲求なのです。手段として用いるためにはビジネスモデルという、医師であっても経営は大切ですが、社会的地位が高いため理学療法士とは欲求のスタート地点が全く違うのです。医師の場合には、既に社会的地位とお金に関しては恵まれているため、あとは権力闘争といったところが焦点になっていきます。それも既に地位と名誉と権力がそれなりにある前提での闘争ですから、過酷と熾烈を極めます。理学療法士の比ではないということです。

今更改めて医学部に入るということの選択肢が無いのであれば、同じ社会的地位につけることはありません。その上でまた違った価値観にて必要とされる存在になるための、独自の取り組みと何より思考が大切となってくるのです。
スポンサーサイト



コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0