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「身体包括ケアー」東洋医学の視点と理学療法

東洋医学と解剖運動学
東洋医学において
表裏
陰陽
補瀉
本治療法
といった考え方がある。
西洋医学における解剖学では、
・主動作筋/拮抗筋
・腹側/背側
・内側/外側
・頭側/尾側
・末梢/中枢
・遠位/近位
・表層/深層
・laterality:左右差
ボディワークでは
・contrast:対比
・opposite:反対側
・two way:双方向
・up & over:上に越えて
以上のような言葉にて表現されている。
それぞれの立場によって、強調されるフォーカスや概念が違っており、これが哲学や理念、原理原則といったベースとなります。確かに東洋医学と西洋医学そしてボディワークなどは出所が違いますが、独自の文化や価値観の中で醸成されてきたものです。そこには必ず真理があり、目指すべきところは健康ではあるものの、登り方が違う場合もあります。しかしながら、解剖としての身体も、エネルギーとしての身体も、意識としての身体も、切り離されたものではありません。西洋医学の原理原則ともなったデカルトの心身二元論から、東洋医学的な哲学である心身一如という、分離されたものではないという身体感への転換が緩やかに起きています。今では、いつの間にか当たり前の身体感となりました。このようにいつの間にか当たり前の価値観となって浸透しているものは、イノベーションというほどのインパクトはありませんが、その時代に生まれ育った世代は、以前とは違った価値観が植え付けられてくるので、いわゆる世代格差へとつながってきます。
また東洋医学においては虚に対して施術することで、実を解くといった治療がよくあります。もちろん実に対して施術することで、解くということもありますが、これはどちらがというよりどちらの道筋もあるということです。
理学療法で言えば、凝っている部位ではなく、使っていない部位に対して促通するといった手はずです。
これは言うは易しで、実際には愁訴は凝りや硬さにあるわけで、気がついていない未使用部位は脳に認知として上がってきていません。ここで気をつけなければならないことは、筋膜リリースという手段を手に入れたが故に、その本来あるべき虚に対してアプローチするという選択肢を消してしまうということです。
 現に解剖学的な身体表現に基づいて身体を観ることで、使用頻度の高い筋肉は硬さや短縮していますが、ダイレクトにリリースしたり解すよりも、相拮抗する筋肉を上手く漸増的に収縮を促すことで、憑き物が取れたように一気に周辺がいい開放されることがあります。まるで施錠が解けたかのように、劇的な変化を見る事があります。これこそ評価の出来ることによる、理学療法ならではの専門性なのです。
筋膜理論が隆盛するが故のピットフォール(Pitt Fall:落とし穴)
硬さや滑走障害のある部位は、ついリリースしたくなってしまいます。
もちろんエコー下においては明らかな癒着や滑走障害が認められたとしても、機能障害学においては、筋膜の滑走性が必ずしもイコールではない可能性があります。リリースした部位は変化して良くなったけれど、愁訴を解決するための道筋としては本流ではないということです。
このようにいつの時代でも、何かトピックスとして出てくると必ずその方法オンリーで病態を語ろうとする風潮が出てきます。これは致し方ないことなのですが、一度大きく針が振れることで、揺り戻しが起きるのです。そのスパンが約3年といったところでしょうか。筋膜をうまく使いこなし、さらには機能障害の成り立ちの一機序として落とし込めるかどうかにかかってきます。理学療法においてエコーにて評価できるようになってくると、画像診断=治療部位と確実でもあるし説得力にもなります。そのため結果はぼんやりしていても、王道としてのルーチンや流れは確立できます。
診断的な視点ができることによって、エビデンスへの意識がより高まるなど、大きな流れとしては好転するかもしれません。
ただ実際に病院の中でのセラピストといった立場は守られますが、いざ地域目線や患者目線や市民目線になった時には、懸念もあります。組織の中での地位や権能といった発展や身分保障は将来に渡って、職能集団として将来は見通せるようになります。しかしながら、理学療法の専門性はという中身の熟成という核は追求しなければなりません、地位と立場を確保することと、実際に理学療法士としてのカラーを打ち出すということの両輪が不可欠なのです。
高齢者は特に廃用といった視点が不可欠であり、凝りや硬さをリリースすることが理学療法士の担うべき役割ではありません。トリガーポイントも理学療法一択ではありませんので、それだけを専門性として誇示することも意味がありません。筋膜リリースも徒手療法の一つとして、東洋医学的には「実」に対してのアプローチとなりますので、虚に対して如何に考えられるかがポイントです。診断名として廃用症候群がつけば、それは活動量の低下という根本的なマイナスからのプラスマイナスゼロへの基線に戻す考え方になりますので、全体的に元気になってもらうという考え方になり目指すは滋養強壮となります。このようなケースは医療と介護現場にて発展していっている部門であり、あらゆる社会資源などの環境からの視点が不可欠となります。今現在は、このカテゴリーに対して焦点が向いている時期であり、官民一体となっての取り組みがされていますね。社会のあり方に対してどうあるべきか?このような論点にて考えれるようになったことは、一つの進歩でもあります。もう一方でこの社会のあり方は、国全体としての課題ですので理学療法士はその一翼を担う存在としての、陣地獲りの様相を呈しています。陣地を確保した後に問われるのは、自分自身です。ターゲットや目標など敵が周りにいる時には視野はそちらに向きますが、収束した後には自らのあり方が問われてくるのです。
そうすると実際の臨床においては、あるテクニックや方法論で自らの存在価値を示そうとすることの限界が出てきます。
つまり実に対するアプローチばかりでは、虚に対する視点が抜けてしまい、我々でなくても実に対するアプローチができる職種はわんさかいるのです。技術よりも評価を強調されることが多々ありますが、その評価もアプローチの効果と適応が分かっていることで初めてできるのです。選択肢としての治療方法が少なければ、例えば何かしらの診断が下ったとしても手がありません。つまり、理学療法においてあらゆる病態に対する臨床思考の背景にある、レイヤー別の適応をどのように評価するべきかというevaluationが必要なのです。方法論がベースにある評価です。評価ありきの、その先は手を示しませんというのが我々の業界の辿ってきた流れなのです。その評価をしてあとは理学療法をする、言葉としてはそうですが理学療法の中身が具体的に示されていない。
入院の病院においては生活動作一択状態ですが、理学療法とは物理療法と運動療法を併用しながら治療をすることの本来の姿を忘れてはいけません。自立支援も自助互助も、理解しておかければ確かに患者を抱え込んでしまった然るべきタイミングで社会とのつながりを絶ってしまう可能性があります。それはケアマネのようなマネージメントとしての専門家がいて、その役割として分業できればいいわけです。リハビリ的な視点でのマネージメントが十分でないということで、現在はセラピストが社会にあり方を説いています。一般教養として必要ですが、何度も強調しているように医療ですので、治療しなければならないのです。治す、治る、その表現によって考え方はまちまちですが、医学が再生治療などどんどん最先端を示しているように、理学療法であってもそれは同じことなのです。治療学としての最新のテクノロジーを導入しつつも、MEではないのでその扱いができるということだけでは動かす操縦士ですので、どのタイミングでもっとどのようなものが付帯すればいいのかといった、先頭を切って提案できるような存在にならなければなりません。
先に解剖学やボディワークにおけるキーワードを並べましたが、大枠としてどう考えるかといったことは方法論や限局したレイヤーではなく、当たり前に存在していてどのような考え方であったとしても、原理原則として当たり前の事象に帰結させることなのです。
理学療法にも虚実や補瀉といった本治療法という視点に照らし合わせてみて、治療戦略のスキルを磨いていくことが理想なのです。
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