技術を高める方法「型」

「型」

伝統的な武道や伝統芸能には「型」というものがある。時として型破りと型にはまらないということが、とりもなおさず破天荒な主人公の持ち味としてセッティングされることが多い。つまり型にはまったキャラクターは漫画の主人公になりにくく、型にはまっていない天真爛漫さや、野性のようなタイプが持て囃される傾向にあるのだ。
型にはまるというと、堅苦しいというイメージもあり、何故にどちらかというとネガテイブな印象があるのだろうか?
型にはまったというのは、自由にできないというイメージなのかもしれません。
しかしながら型とは基本ともとれるわけで、基本でできていなければ、応用がきかないということもあります。ただし天才と呼ばれる人は独学で学び、そして他人が行き着いたことがない境地に登ることがあります。
天才と呼ばれる人には、真似ではなく個性であることは間違いありません。アメリカのアーティトやエンターティナーは個性あるのみです。世間を騒がせることさえも、一つの商法としてなりなっています。日本であれば人に迷惑をかけてはいけないという教えがありますが、最近は炎上商法だとかやらせなどのフレーズを度々耳にしますので、時代も変わってきたということなのでしょう。表現は古いですがアメリカンドリームというと、開拓者が一攫千金を狙って、たどり着いた移民によって合衆国ができたことを考えると、最初からいかに成り上がるか!という欲で全てが成り立っています。有名になり乗し上がっていくという表現がこれほど似合う国もありません。全ては消費され、人でさえもしゃぶり尽くされてしまいます。型という意味合いの言葉は欧米にはあるのでしょうか?

技術の習得には型を覚える、ということが一つの近道です。しかしながらこの型とは、人それぞれの体型や特徴がり、細かいところまで当てはまるわけではありません。しかしながら原理原則は、行き着くところは同じです。

ここに技術の上達のための原則を列記していきます。

技術習得その1「型を学ぶ」
 これは形を真似するということだけではなく、その原理原則を知るということでもあります。本来目的とするところ、そこに行き着いた歴史と変選を知ること。単にできあがったフォーマットだけを学ぶだけだと、説得力がありません。そこには膨大は経験と研究の成果が詰め込まれています。形だけを踏襲するのであれば、それは作業になってしまいます。そこに創造と発展を望むのであれば、何故そうするのか?という何故が必要です。では型とはそもそも何なのか?特に治療として理学療法としての型とは何なのか?職業別の特徴について私見を述べていきたい。
 日本においては、理学療法士の技術における型はありません。こうしなければいけないというフォーマットがないのです。無いというより好まれないということです。評価をしてアプローチについては、個々に組み立てていきます。その結果、何か一つの形となってまとまったかというと、その逆で、個人個人が毎度新たに何かを考えて、良かれと思う、その時のその人なりの感性に委ねられています。それは代々引き継がれることなく、その人が直近に勉強したことを試しながら、積み上げていく作業を繰り返すので、全くもって100人いれば100通りの現在進行形になります。確かに、その人の個性はでてはくるものの、普遍的な型にはなりせん。結果的に、ある一つの流派や方法に傾倒することにもつながり、団体として職能集団としての対外的な強みにならないばかりか科学としての体をなさないのです。挙げ句の果てに、自分たちの狭い世界にて優位性や良し悪しを論じる有様で、世間や患者は置き去りです。この自分の我々の勝手な価値観を形成し、患者に押し付けることを繰り返してきました。その結果、外からは理解できない、理解してもらおうとしない体質がてきてしまいました。一つの方法にて、
全ての疾患や病態に適応ということにはならないのです。あらゆる何とか法と呼ばれるている類のものは、方法論が先行して肝心の患者先行の考え方ではないのです。最低限文献や知見を読み込んで、そこに経験則との比較検討できる冷静で客観的な視座こそが専門家であり、求められる思考なのです。我々の都合と論理により構成されてしまい、真の医学として基本の本当に何が有効なのかという検証デーテーの蓄積がないのです。研究論文の読み方にも問題があります。基礎研究を自分たちの治療理論の裏付けとして貼り付けて、治療方法の正当性を論じるロジックは、昔から繰り返してきた思考ですが、一見理にかなっているようで、本当に臨床における効果が証明されたわけではありません。本当に効果があるかどうかというクロス研究などによる証明こそが、必要なのだと感じます。個別の事例でびっくりするほど良くなるということは確かにありますが、それがエビデンスというわけではありません。スポーツ選手の場合にはシングルケースがそのまま世間に知れ渡り、知名度をえることにもなるので、手っ取り早くアピール効果は抜群で、現場にて活躍しているトレーナーにとっては最高のエビデンス?手法になっています。 そこには商法の論理が息づいており、本当の意味での科学やエビデンスではないのです。
結論として理学療法士には、思考における型が無いということなのです。なんとか法をメインでやっているということにおいても、方法論は一緒でも型がありません。
私もようやく今になってこのような思考に行き着いたわけで、本来は学校教育の中でされるべき視点なのです。本当に教育とは大切であり、我々は今現在の思考に、何ら問題があるとは足りないとは思えないという恐ろしさを感じます。都合よくエビデンスも文献も情報も、自己流にて解釈して引用してしまうのです。

型とは人に伝わらないといけないのです!伝えるための熱い思いが必要なのです。
 理学療法における型とは「考えるということ」になります。しかしながら頭の中は誰も覗けません。考え方を聞いてはじめてわかることです。ということは外から見てもわからないということなのです。また考えているといことは迷っているということでもあり、自分の形ができあがるまでには膨大な時間が必要です。その間にもどんどん患者が過ぎていいきます。つまり考えるということは大切なのですが、その「自分の考えた」という内容は他人とほぼ一致することはありません。全く別のことを考えたとしても、それがいい悪いは一概には言えません。いいと思うことは本当かどうか検証すること!それによってこそ証明されるのです。つまり医療従事者とは検証するという思考と教養があることなのです。決して「腕がいい」というだけなら整体でいいのです。もちろん腕がいいに決まっていますが、それだけの価値観であれば、歴史が現在においても物語っているように、このSNSの便利な時代に各々が正当性を語り、そして「そう思う」ということが自分ルールとなってしまい、脳はそれが世界のルールだと思い込ませるのです。これは科学ではありません。そう思うということだけで、手術や投薬をされてはたまりません。そう思うということのみで決定されてきたとしたら、現代医学はここまで発展しなかったでしょう。思うだけであれば本当に効果があるかどうか、全くもってわからず、治療成果としても蓄積されないため、毎度一から積み上げていくことになってしまうからです。そして同じ情報をもってしても、全く解釈が違ってもPKになってしまいがちです。学会や論文の必要性は、その思い込みや思うということの気まぐれを公の目でみることで、様々な視点にて自分一人の価値観では絶対に思いつかない見方に気づかせてくれるのです。三権分立があるのは、それぞれが独立性を持って判断できるような仕組みにしていなければ、結局はその時の誰かも思いでのみ動いてしまうことの危険性を歴史的に証明してるからです。どんなにその時には正しい判断をしたとしても、何閏年も延々と正しく判断できるわけではありません。時には間違うこともあるでしょう。現代は、少しの間違いでも見つけたらそこを突いて叩き落そうとする風潮があります。少しでも出てくる人間に対しては、面白くないと思う人は必ずいるわけで、何をやっても結局は何かしらの非難や違う意見ががあるということです。
 「考える型」においてもあまりも個人個人の自由度が高く、またどのような手順にて医学を積み上げていくかということの教育を受けていなければ、迷いがひたすら先行してしまいます。アプトプットとして見える身体運動としての形は、考える型タイプからは見えてきません。この考える型とは学者や研究者タイプであり、それであれば膨大な文献や論文を読破しての解説者や有識者としての立場になります。
考えるときには自分が主体となるので、相手は対象になります。その時は頭を使っているので、身体の使い方までは意識が向きません。つまり理学療法士は考えて、リスクを洗い出すことを主とするため、やってはいけないことが主眼となります。何をするかではなく、評価によって何をしてはいけないかを考えるのです。頭の中で考えて対象に対して施術するため、対象がどのようになるかを観察しながらモニタリングしながら、施術者の呼吸にて進んでいきます。この辺りが周りから見ると、考えて取り組んでいるつもりが、何をやっているかわからない。手元でちまちまと揉んでいるようにしか見えない…となるのです。整体でもないマッサージでもない、自分のその時の知識や経験から考えたアプローチとなります。このロジックにて誰もが共通の同じようなアプローチになるかというと、これがならないのです。理学療法士は評価において、ある程度同じ視点にて共通の言語にて話ができますが、アプローチになるとそれぞれの技術や興味が違うためか、ガラッと変わってしまうのです。個人の中でも一定しないことが多々あります。またその時の瞬間に考えてするアプローチにおいて、その後の展開においてストーリーがなかったりします。玫瑰考えてやっているのですが、段階付けなどの評価バッテリーに応じた積み上げです。興味と自らの好む知識と記述などは、気持ちの問題なのでそのときにやりたいことなどがされてしまいます。やるべきことや、やらなければいけないことではなく、なりたいことが優先されてしまうのは、人であれば自らをコントロールすることはできません。よってエビデンスやクリニカルパスなどの、誰がやってもある一定のプロトコールにてできるないようでなければ、個人によってその時の閃きによってガラッと変わってしまうのです。対策としては機械を使ったり、器具を使ったりというアイテムを用いることで、少しでもバラツキを抑えることができます。つまりアプローチツールは、決まっている方がブレが少ないのです。
インストラクターやトレーナーは、まさにルーチンが決まっているので、その中での工夫と自由度はあるものの、何を提供するのかは対外的にはわかりやすいのです。そしてインストラクターやトレーナーの強みは、主体はクライアントにあるのです。アプローチツールを提供すること、その反応を確かめながらですが、リズムとテンポが良く進行するため、セラピスト自らが主体ではなく、クライアントこそが主体となるのです。自分はあくまで、媒介するコンテンツであり、対象の動きや様子に集中して、やるべきツールは迷いなく順番にやり通すのです。ボディワークでもトレーニングでも60分まだんなく動いても、あっという間に終わります。そこに考えることや興味がメインに来る理学療法士は、どうしても思考は途中で疲れて止まったり停滞してしまうのです。自分の体を道具としてつかえるトレーナーは、気持ちや体に対してもダイレクトに入射して来るので、響くのです。考えることに集中してする理学療法士は、世間話も多くなりますが、これはアタマを使って説明しながらということもあり、また考えているときに黙って集中しているのときは、患者さんもほとんど動きがないこともあります。じっくりと考えながらなので、その時のクライアントは何をされているかわかりません。そこが自己満足に陥りやすい状況になるのです。クライアントの動きやすさや、心地よさというファーストな考え方よりも、自分がどう考えるかに視点があるからです。人間はダブルスタンダードを同時に起動させることは難しいです。よってルーチンやフォーマットがあり、そこに集中できることで、そのツールを如何に上手くできるように工夫するか、心技体すべてに集中して自分は媒介となって機能する。ある意味、ロボットのように合理的な動きを連続していくことに、安定した効果であるアウトカムが得られるのです。誰がやってもある程度は同じことを同じ効果が出せるということに、理学療法士は嫌がる気質があります。それは医療やエビデンスよりも、個人のアイデンティティを主軸においているからです。コンプレックスだったり、欲であったりと、感情が優先され、さらに基準となるエビデンスに基づいたフォーマットの刷新、さらにフォーマットを遂行するための技術的な「型」もある程度はルーチン化しなければならないのです。

技術習得その2
 やりたいことではなく、世間の欲していることを優先し、そこに自分の役割があるかどうかを判断する技術と知識を活かすためには、いや活かされるためには、活かしてもらうためには、何が望まれているかを優先して考えることです。かつて私も自分の力を試したい、誇示したいと思ったこともあったと思います。力はあるけれど、知識もあり勉強もしているけれど、なかなかチャンスに恵まれない・・・と感じる人は、実はあまりにも自分中心に考えている時期であり、本当は十分にチャンスは与えられているものなのです。あらゆるタイミングにて活かしてもらうためにの準備を怠らないことです。

技術習得その3 自分に入れ込みすぎないまた難しい表現ですが、自分に入れ込みすぎるということの背景には、自分の感情や気持ちが優先されてしまうため、素の情報を受け取りにくくなります。全ての事象についても言えることなのですが、入れ込むことで小さなことでも浮き沈みや一喜一憂することになってしまいます。あまりにもデリケートになってしまうと、非常に周りに気を使わせてしまう存在になってしまい、いつのまにか周りの雰囲気を悪くしてしまいます。おもーい空気を作り出す人などは、このパターンです。もちろん自分では気がついていません。自分に期待しすぎず、かといって遠慮しても仕方ありません。どのような場面でも平常心で臨むためのこころの持ちようとなります。

技術習得その4 横着しない
頭で考えて体まで気が回らないといったことを冒頭で述べましたが、考えることと身体を有効に使うことはまた別の次元になります。つまり自分の身体が楽に無理なく使うということも真理ですが、患者やクライアントに対して有効な入射角にて身体操作ができるということは別問題になります。つまり自分の身体を最大限に使い切ることでした、できない効果があり、頭で考えてというだけでは到底追いつかない作用があるのです。そういった意味においても、身体操作に関しては高いパフォーマンスが求められることがあります。しかしながら年をとってはとてもできないことでもありますが、身体の使い方として道具として自分のパーツを生かすことで、年を取っても味のある雰囲気をだすことができるでしょう。いつのまにか自分の身体を使わないように横着していないかどうかを考えてみましょう。理学療法士は高齢者を対象とすることもおおく、リスクが高い人も多いです。そういった意味においても常に考えることが要求されがゆえに、身体操作が甘くなってしまうのです。日本のダンサーは優秀な人も多いですが、メリハリがないように感じることも多いのは、梃子としての身体の使い方よりも、細分化した細胞レベルともいうべき細やかさにて神経を行き渡らせているからです。この細やかさがダンサーとして、フィギアなどで生かされることもあれば、マラソンのようにいまひとつ力強さに欠けることにつながることもあるのです。野球においてもホームランバッターとして日本選手でも130mや150m飛ばせる人もいますが、それでいてもパワーは外国選手に敵わないように思えてしまうので、まさにこの身体操作における梃子として使えるかどうかにかかってくるのです。
パワーとは単位時間あたりの力であり、瞬間的なエネルギー量です。バッターではバックスクリーンに打ち込んだり、スタンドの上段まで飛ばす選手は日本にもいますが、それでもパワーでは叶わないとされています。結果的にスタンドインすればホームランであり、パワー云々ではないように思いますが、見るものを圧倒するのがパワーなのです。何がどう違うかを具体的に表現すると、節の数の違いです。欧米は節の数が少なく、日本人は節の数が多くなります。数が多いので真っ直ぐに直列に並べて、目的とする運動方向にダイレクトに作用させるためには相当の肢節のコントロールが必要です。しかしながら節が少なければ、コントロールをそれほどしなくても簡単に力を伝えることができます。パワーはホームランと打点には跳ね返ってきますが、打率も助っ人外国人がタイトルをとることを考えると、器用な日本人だからバットコントロールが上手いという論理は成り立たなくなります。目的に対して最も最短距離にてバットを最速で当てることができれば、ボールは芯に当たり前に飛ぶということになります。ガツンというイメージの外国選手と、山田哲人選手のように実に見事に、肢節を加速させながらジャストタイミングにてインパクトする。力任せに振ったのではダメで、あくまで伸張反射を利用してその連続性によって末端にまで加速をマックスにさせる。
まさに当てに行くのではなく、連続性のなかで振り抜くことができれば、そのためにはフォームが固まってしまっていては返って遠心力がつかなくなり、また全身の力をバットに伝えられなくなります。筒香選手は真面目に極めようとするからこそ、柔軟性がなく固まっているイメージが、中田選手は振り回している印象です。全身を解放して全ての繊維をフル活動させ、絶妙な角度によって肢節の加速度を組み合わせることが求められるのです。
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