「筋を通す」ということ

Category: 人生訓
東日本大震災から6年

 思えばおの未曾有の大災害において、あまりにもの非現実的な状況において、自分のどこかでスイッチが入りました。そして、その非常事態としてのモードは二年間は続いたと思います。そのモードから抜けてきたときに、いわゆる普通に考えられるようになってきます。一般的には、落ち着いて冷静になったということです。その熱い行動は、後々は大半はネガティブな評価や非難が聞こえてくることもあります。つまり、その直後に動くということにおいては、あまりもリスクがあるからです。しかしながらその直後、本当に多くの人が立ち上がりました。結果オーライではありませんが、すべての人が自粛してしまったら、それはそれで今度は行政がなにをしているんだと矛先が向いてしまうかもしれません。また、被災地では多かれ少なかれ支援の混乱や弊害もあったことでしょう。何故か後からはそのマイナス部分のみがクローズアップされることが多々有ります。後から検証するといくらでも不備は出てくるものです。世の中のコメンテーターは、なにかしら問題点を指摘しなければ、ニーズがなくなってしまいますから、それはそれで自分のポジションというような全く違った力が働いてしまうことも否めません。現代は瞬間瞬間にて取り上げられ、そしてそれが一気に拡散してしまう世の中です。
 発災直後に行動に移したことにおいて、それはあらゆる状況を鑑みての活動ではなく、まったなしの行き当たりばったりの要素があるからです。しかしながら、正しい情報さえも届かないあの状況において、入ってくる情報と現実の相違は明らかであり、つまりのところその場面やときによって100箇所あれば100通りの現実があり、そして1分後には状況が動いている状況において、それは平時の体制におけるやり方に習おうとすればするほど、窮屈になっていく実際があります。誰も経験したことのないその現実は、その瞬間の判断は二度と戻ってこないわけであり、そしてろれは誰がやっても正解というものはないのです。そこには社会一般のヒエラルキーは通用せず、本当の意味での人間力、素の野生の本能による感覚を研ぎ澄ませたものだけが、その場がなんたるかをつかむことができるのです。私は被災地にて、インフラや町並みはもちろんのこと、文化や人の日常さえも失ったその荒涼とした風景のなかに、人の感情と気持ちがその場を変えていくことを肌で感じました。思うことで人の気持ちや感情が支配するということです。つまり空気は流れており、本当につかみどころのないことを考えると、生き物のように蠢いているのです。
 何も無くなったところでは、指示待ちはタブーです。何も起きなければ良かったねとなりますが、何か想定外のことがおこることにおいては縦割りの縛りと、義務に縛られては自分の命がなくなります。釜石の奇跡と呼ばれた津波てんでんこ「3S」⑴率先して逃げろ ⑵想定にとらわれるな ⑶最善を尽くせ この三つのSとなります。
 お年寄りや動けない人がいたらどうするか?見捨てれなくて何人もの人が飲まれてしまいました。ここではどうしろとははっきりとは言えません。一生背負っていくことになったとしても、どうするべきかはこの3Sから判断するしかありません。例えば、自分が避難する準備のために誰かを待たせるのではなく、すぐに後で追いかけるから先に避難しろ!と伝えるのも、遅れる自分の巻き添えにさせない一つの方法です。実際に避難された方からはリアルな話をお聞きしました。綺麗事では、どうしようもない現実があるということなのです。後で常識に当てはめてそのときの良し悪しをつけようとするのは、非日常的な心理状態においては無理があるのです。後からどうしたら・・というのはあまりにも難しく、それはその瞬間に日常の縛りから解放されることが不可欠となるのです。つまり、幾多の災害を経験したが故に、それが活きることもあれば、固定観念となってしまうこともあるのです。戦場を取材するカメラマンが、注意に注意を重ねて危険であることは誰よりも知っていたとしても、その万が一の一回に遭遇することもあるのです。それを称して、自己責任だという論調はよくきくことですが、その状況とその立場にたったときに自分だったらどうしただろうか?ということを想像することこそが、共通の土俵に立って物事を建設的に話し合える場ができるのです。
 
心技体という言葉があるのですが、臨床においては技術と自らの身体の感覚などは日常の臨床や研鑽において高められます。しかしながら心というのは全くもってどのように鍛えるべきか難しいところで。じぶんに足りないのは覚悟や責任感なのか?つまり心の部分だろうと・・・使命や宿命や天命など・・・医療従事者とは生き死にということろ命に関わるということこそが、原点でありその根源を真正面から向き合うことこそが強い心を醸成するのであろう。

東日本大震災において、必然的に命に向き合うことになり、自分自身の何かが変わっていくかのようでした。

人生において既に半世紀を生きていく中で、ゴールを見据えた人生について考えなければいけない状況となってきました。確かに経験と年齢は仕事や社会の役割という点において、キャリアの集大成として結実させる時期となります。自ずと役割と任務が与えられ、使命を帯びてきます。未成年の時期における、まだ何者でもない悶々として積乱雲のなかにいるような心情から、20代のただがむしゃらに手当たり次第に当たって砕けのような自分探しの若さですね、若さとは自分は何者であるかということの漠然とした不安と居場所を探し求める、魂の慟哭ともいうべき衝動なのです。だから若さとは、時には若気の至りということが言われ、それは世の中が温かい目で見守らなければいけないのです。しかしながら、最近はその若気の至りでさえもダメだというような空気が支配しているかのようです。

こうあるべきだと・・

そのこうあるべきだは、ネット上での賛否の中間をとったような、当たり障りのない落とし所です。

それは時にチャレンジや思い切ったというよりも、堅実で確実なという方向性となります。

当たり障りなく、それでいて献身的で熱心で、さらにはじっくりと取り組み手順を踏んで進んでいける人材が良しとされているようです。

最近90歳以上の人生の大先輩から学ばせていただくことが多々有ります。

90歳以上といいますと概ね大正生まれとなり、終戦を成人にて迎えている、最も多感な時期にそして大人として迎えている最後の世代と言えます。あと10年も立てて生き証人として語れる人は、ほとんどいなくなることは待ちがいありません。そういった意味において、直にお聞きできるのは最後のチャンスと言えます。本日もある方のご紹介で、国政に大きく関わられていたご老人の女性にお会いして、薫陶を受けさせていただきました。

一言で言えば「筋が通っている」ということです。
パワーバランスやマネーゲームのような、いわゆるテクニカルな部分がものすごく進歩している現代において、より合理的な法則的に動くことのロジックが進化しています。つまりAIのように人工知能に代表されるコンピュ−ターによる確率論によって、その場その場の刺激に繰り返しを延々とゲームか、パチンコのように打ち続けなければ不安になってしまうような価値観です。
 またその方は昔でいう不良の多くの少年少女の面倒を見ていたこともあり、いわゆる更生させるということにおいてこれも持論と矜持があります。「生まれてきた時には真っ白なわけで、そのあとに色をつけるのは大人」生まれてきた時に罪はない・・・つまりはそのように育てたのは親だということです」「近頃の若いものは・・」というフレーズはいつの時代も延々と繰り返されたことであり、今現代が特別若い人が問題というわけではないでずです。しかしながらいつの時代においても、そのような昔の方が良かったというような風潮があることは、歴史は繰り返しているとうことに他なりません。しかしながら、この90歳以上の方々は確かに戦時中に成人として迎えたという、子供のときとは又違った感情があるはずです。またさらにその上の人々がその戦時中の時代を動かしていたわけですので、既にその明治生まれの人はほとんど生存されていないことを考えると、大正生まれの人である90歳以上と昭和生まれである80歳以上においては、もしかしたら世代間における違いはあるかもしれません。100歳近い人はさらに年齢は終戦日は30歳に近くなるわけですので、さらに社会人としてメインに立っています。
 
私は現在、有料老人ホームなどに関わっていることもあり、矍鑠とした90歳代後半の人たちと接する機会に恵まれています。その人たちから学ぶべきこと人生感は多いです。

子供達と老人というのは、人生において誰もが通ってきた、そして未来の自分です。しかしながら、どこかで子供達ということと、老人問題を考えるときにどこかで我々とは別の次元で考えてしまうところがあります。将来、いついつまでも元気に活躍できればいいですが、それは希望ではあっても平均的な現実においては、それは叶わないと思った方が間違いないでしょう。

子供達には平等で守ってあげないとという気持ちはわかりますが、社会に出たら厳しいぞ・・・といきなり海外に出ると全く違った世界の競争原理が働いています。今の若い人はという論調は、本当に活躍しているとこは見ないで、負の部分のみを見て揶揄しているのです。
世界的に活躍しているスポーツ選手は昔より今の方が圧倒的に多いです。
もちろん昔は昔で凄かったと思いますが、世界基準は確かに今でしょう。
既成概念に囚われないマインドが必要なのでしょう。
しかしながら、これがあらゆる全ての仕事で当てはめるかというと、また全く違うモードが必要です。
献身的に我慢と辛抱という、今の時代には死語ではないかと感じるその概念です。

高齢者に対しても、あたかもそれは医療と介護の対象者という、なんとなしてあげなければいけない対象になってしまっていて、根本的に自立している大人であるという、そして尊敬すべきリスペクトがなくなってしまっています。

高齢者こそ世の中を作ってきた功労者として「堂々とすべきであり、いばっていていい」
「若い人に邪魔にならないように」そんなフレーズが高齢者から普通に出てくることが多々ありますが、それは高齢者なりの経験と考えがあってこそのだと思いますが、それが過度な遠慮となり、結果的に若者にとってそれが当たり前のスタンスとなり若者の動きやすいリズムとテンポが主流となり、そのリズムとテンポは当然ながら心身機能の低下する高齢者にとって、合わなくなってしまいます。社会のリズムとテンポに合わないということは適応できないということになり、自ずと波長が合わなくなってしまい、そして結果的にさらに高齢者が社会に出て来にくくなります。

動ける世代ばかりのための社会となり思考となることで、結果的に日本そのものはどんない制度やシステムを作ろうと、自らのシステムに合わせてもらうという、合わせなくてはいけないという社会を作り上げてしまうのです。

これが海外では障害者が街に社会に溶け込んでいるように感じるのと、東京では浮いて見えてしまう、もしくは誰も省みなくなってしまうことにつながっています。よくみると杖をついて歩いている高齢者は少なくなりませんが、それは馴染んでいるようには見えません。
良い意味で堂々としていてもらって、そのリスペクトをもって我々は常に感謝の念を持ち続けること

「もらうこと」ことばかり考える社会になってしまうことによる、打算的で計算的な社会思考
「役割を果たすこと」「しっかりと役たつこと」、自分基準の時間や労力に対しての全て権利を主張し貰うことばかりを考えるのではなく、成果と結果に対する対価であること、
それが全てを決まりの中、制度を縦に要求ばかりすること、このような働き方が横行してくると、不満と不平と自分のためにだけの思考となって、もらうことばかりを考えてしまい、おかしくなってしまいます。
もちろん雇用主が逆にこのような考え方になってしまうと、ブラックと呼ばれようになります。

どちらもありますので、どちらに偏った制度であったとしても、結局は雇用主と被雇用者どちらかが助長することになってしまうため、制度を事あるごとに縦にとって権利を主張ばかりすることは、自らの可能性や能力を発揮できる場を失うことになります。

若い人の価値観とは欲や心地よいことということ快適さばかりを追求し、そして社会もメディアもそれを提供しようとばかりするので、いつのまにか思いやり、慈しむという地域包括の最も大切な精神がおざなりになってしまい、制度の不備ばかりを指摘し目につき、そこに専門家たる人があくまでも社会のためというより、その人の自己実現のための機会として表現する材料となってしまっているのです。よってその場だけの自己アピールとインパクトばかりに焦点が当たってしまい、じっくりと時間をかけて積み上げていくという文化や歴史を醸成する時間ができない刹那的な世の中になってしまうのです。

そのような社会は、自分が中心であり、社会問題に対する考える余地がメモリーがなくなってしまい、超高齢化社会における、一億層活躍社会の実現が自己の実現のためのという理念にすり替わってしまうのです。

なんでもメディアも報道の仕方によって、支持されやすい、イメージとして誘導しやすい話題やフレーズがあります。言葉尻やネティブな反応がされやすいということは、話題になりやすいということでもあり関心を引くことができればいいという風潮になり、「筋を通す」という「失ってはいけない、忘れ去られてしまう、注目されなくなってしまう」そんないい精神や伝統を改めて発掘することが、注目すること、その日本を支えてきた貴重な矜持は、90代の高齢者からしか学べないことがあるのでは?と思うわけです。なぜならば戦後を真っしぐらに支えてきた功労者であり、歯を食いしばって頑張ってきた世代でもあるからです。まもなくあと10年もすればその世代から直接学べる機会は激減し、貴重なその精神はますます薄れていってしまいます。世界でも驚くほどの活躍をしているスポーツ選手においては、その日本の伝統というか精神の結晶であって、その反面、自己中心というその場その場のあくまで自分中心、恩恵はもらって当然というなかで、「貰う欲」ポピュリズムの結晶が「今どきの」という表現につながることにもなっているのです。「役割を果たし、次代につなげることのタイミングにおいては今もっている経験や対価を惜しみなく投資する」そこには労力=即自己判断としての誇張された過剰な対価、「入れ食い」ではない果たすべき役割の延長線上に自己実現があり、本当の意味での人生の意味がわかるのかもしれません。「入れ食い」は食べても食べても満足することはありません。
 昨日お会いした、人生の薫陶を与えてくれたお婆さんは、若い世代が日常的に出入りしその話を聞きに寄っていきます。そんな90歳代を迎えた人生はもしかしたら、後世につながっていく、世代格差や分断ではなく、引き継いでいくということを体現化されているお方だと感じました。その本日は「筋を通す」という「伝える」という精神なのです。
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