専門家という殻を抜けた先に・・・

Category: 人生訓
すでに2017年も始動し、お正月気分も抜けてきた頃ですね。

個人的には

一つ殻を破っての一年になりそうです。

イノベーションとは特別なものではなくて、素の自分であることから見えていくる発想ということになります。

生まれたままの純粋さをそのままに持てば持つほど、適応が難しく感じることもある時代ですが、

結果的に素の自分を自然に出していける人がこの複雑な時代を超えていけるのかもしれません。

理学療法士としての自負はありつつも、その感覚が常に医療という病院という狭い世界にいるからという見方をされることもあります。

病院のなかだけの世界でと言われても、日本全国にそれこそ世界中に多くの病院があるわけで、そしてなおかつそこにいるスタッフが沢山いるわけで、それを称して病院だけのなかで通じる世界ということを耳にすることが少なからずあったように思います。

しかしながら、言葉ではなんとなくわかったつもりでも、実際には実感することはないというか、自分がその狭い世界のなかでの常識にとらわれて世間知らずというレッテルを貼られる対象になるとは思ったことはありません。

状況としては病院という特殊である世界であることは間違いないかもしれませんが、社会においてもしっかりと適応して、そして尚且つ患者さんや利用者さんと接する仕事であることからも、世間や人と直に交流する機会が多いと言えます。

それをもってしても狭い世界という表現は、そうだよね確かに・・・と相槌を打つことはあっても話の流れに乗っているだけというのが実際のところといっていいでしょう。

しかしながら、医療とは先生と呼ばれる世界であり、この無意識のなかでの関係性はじわじわと侵食してきます。

つまり、自分たちはそう思っていなくても、いつのまにか染まってしまうということです。

そして自分たちがやりたいことをやろうとする・・・そのやりたいことが世間に役にたつと錯覚してしまうのです。

確かに普段の臨床のなかでの感想として、このようなサービスがこのような制度が、このような仕組みがあるといいなと思うことはあります。また自分の関わることで、いわゆる患者が良くなるということも経験します。

だからも自分のやっていることは価値があり、世間に通用していると・・・

この辺りから勘違いが起きてきます。決して世間に受け入れられていると思っているその実態が、その人でなくてもいいのです。病院という対象そのものが信用であり、そこでの従事者は既にある種の呪文が唱えられる魔術師のようなところがあるのです。

大リーグで通用する選手とそうでない選手、サッカーのヨーロッパリーグにて通用する選手とそうでない選手、

全ては実力ありきの世界ですが、やはり国内で超一流でも海外では使われないだろうという選手がいます。

つまり世界基準や世界標準というのは自分の殻から飛び出した時にどうなのか?といったことです。

病院という枠組みを超えた時に、自分とはなんなのか?その辺りがわかるまでに、おそらく世間に出ていく中で

越えていかなければならないハードルなのかもしれません。

このハードルを越える機会が、挫折や人生のピンチや逆風が吹いている時なのでしょう。

自分という有史以来700万年という歴史の中で人類は脈々と受け継がれた系譜があり、わずか一人の人気は生きれて100年あまり・・ましてや20数歳、30数歳、40数歳、それが50歳だろうと60歳だろうと、人によって様々です。

一人の人間が経験できる量は限られており、その中でのわずかな経験や見聞きしたことから価値観が作られ、そして自分の考え方としてその時のピークとしての思いが支配します。

春夏秋冬、毎年おなじ季節を経ているにもかかわらず新鮮に感じる自分がいます。

つまり間も無く50回近く季節を経験しているにもかかわず、季節がマンネリすることはありません。今年は寒いねとか、正月暑かったねなど、例年との違いについて挨拶の接頭語のごとく使います。

つまり、人間は続けるということ、特に気持ちや感情やその時の気分など、継続することが最も難しいといえます。

何か一つでもこだわって継続しているものがあると、それが支えになりますよね。

私は必ずおなじ美容院でおなじ美容師さんにカットしてもらっています。

これは別に珍しいことでもなんでもないようで、女性なら当然そうしているようですね。

最近では男性でもそうかもしれません・・

私にって見れば珍しいことで、駅を乗り継いでわざわざ予約をしていくのですから、おそらく3年間ぐらいまでは近くのふらっと立ち寄ってカットしてもらっていました。その時のタイミングでカットすることが運命だからというぐらいに思っていました。よって特に希望はありません、全体的に短くお願いしますと伝えていました。しかしながら、おなじ注文であったとしても人が違うと毎回違う髪型になってくるものです。
私が通っている美容院の美容師さんはまずは、いつも同じ雰囲気と空気を有しています。そこがいいんですよね。
さりげなく自然にぶれない、また口数が少なく、全く会話をしないで終わることもあります。また一切私のことを深く聞いてくることがありません。バーのマスターのように淡々とカクテルを作って出してくれるような、カウンターでいろいろな会話がされていても、まるで一つのオブジェのように、一輪の花のごとくそこにいるのです。お客さんもなんの気兼ねもせずに話せるそんな場所。帰ってくる場所はいつも安定して変わらなく受け入れてくれる場所なんだと思います。

そのためにはいつ行っても変わらない自分でいることが、大切な要素と言えます。

もちろん変わらないということと成長しないということとは違いますので、ころころと移り気でぶれているということの対局にある変わらないです。

話が逸れましたが、今の日本においてイノベーションが求められているのは、お家芸である技術や物作りでさえも、日本の良さをそのままに、いかに世界仕様に売り出していくかといった視点が不可欠となっています。

国内や身内であれば、顔見知りや先輩後輩などの関係性にて、特別な力が働いて話が通ることもあります。しかしながら、全くの繋がりがほとんどないなかで、一から新たな関係性を構築していくために必要な素養があるのです。

一つにはコミュニケーションということになります。

幼少より特別扱いされてきた選手や個人においては、世界にでたときにそれは全くもって無しになります。

日本において特別扱いされるという風潮があるなかで、イノベーションにおける戦略は世界共通の原理が働きます。

よく市民感覚といいますが、専門家の有識者でなけらばならないことも多々有りますが、もう一方でかならずパブリックコメントやアンケート、などのリサーチを組み合わせます。時として会議室の密室のテーブルで来まる出来事は、往々にして場の空気に支配されることが多々有り、その流れはなかなか覆すのが難しいものです。

専門家と言えどもgeneralistではなくspecialistであって、いくら深く掘り下げたとしてもそれはある視点からしか見ることができないのです。すべてに精通するには人一人の時間では足りない、だから時に多くの意見を取り入れることが求められるのです。どうしても個人の意見だけだと、これは絶対に考えない受け入れられないということがでてきます。それを他人目線の目でみて意見を集約する。しかしながらさの意見を取り入れるかどうかは、また誰かが判断しなければならないわけで、そうするとやはり何かしらのバイアスがかかってしまうのです。またその時の発言力の強い誰かのカラーがかならず出てしまうわけで、よって他者からみたときにどうしてあんな運営をしているんだろう・・といようなプロスポーツにおいても論評がでがちです。誰が見てもうまくいっていないということであっても、当事者からしたら経緯があってそれなりの事情があるので、外からはわからないことがあります。しかしながら、致し方ないという理由があったとしても、結果としてでてきていることがマイナスであれば、それは当事者だけではすでに解決不可能ということになり、外部の有識者などに委託して判断してもらうということになります。企業が破綻し再生させるときにも、JALの事例では稲盛氏など外から適任者を招き断行します。また近年ではバスケット協会の分裂により国際試合が禁止になったときにも、収拾がつかずに川淵氏がまとめあげました。

大きな大企業であっても、逆に大きな大企業であるからこそ、逆に変わることの難しさや、慣習が染み付いているのかもしれません。これが個人で事業をやっている場合においては、事業主そのものがすべて完結させなければならなくなります。小さな小回りの効くメリットもありながら、そこは逆に難しさがあります。つまり個人で一人何役も、主観的でありながら客観性とそして周りの意見や状況を見定めて判断しなければならないからです。なかなか一人の人間が俯瞰して物事を総合的に時流を読んで判断することの難しさは、想像に難くありません。

私の場合には今でも非常勤で病院に勤めていますが、20年近くの比較的大きな病院にいたのでその癖というか考え方が抜けきれないでいました。私自身がどちらかというと染まりやすい、順応することのスタンスをとってきたことにもよります。自分の考え方というよりも、その環境にもたれかかって支えてもらっていたからです。外からみると一つのことを貫き通しているように見えるようですが、必ずしもすべてがそうとも言えないわけです。確かに最後の最後の部分においても、自分の最終的にすべてを取り去った後に残る、核のようなもの魂ともいうべき、つまり生まれてくる前から決まっているその人の性のようなものが基準になります。しかしながら、社会生活は国によって土地によってからゆる週間から価値観が違うわけで、たまたまの環境によって規定されるものです。ということは核となるべき自分自身に、幾重にも衣を羽織りながら成長していくわけです。そのなかで当然素の自分とは全く違う価値観も受け入れたり、学校など義務として定められているものは通わなければなりません。生まれる前から遺伝子レベルで生活週間が決まってあるものではないわけで、不適応を起こすこともあるわけです。

鈍感力や時に天然と言われる人が、協調性がないということの意味にも捉えられることがありますが、それはこの変化の激しい時代において、素の自分がどんどん変われるわけがないのです。素は変わりませんので、その変わらない素を残しつつ、薄まらないように尚且つ、世の中の変化に合わせていかなければならない。しかし合わせたとしても反対の考え方もあるわけで、その判断が必ずしも正解とは限りません。イノベーションとは、本来の素が社会のルールのなかで、流れにも後押しされながら出てくることになります。当然、多くの大衆は社会の一員として特に日本は協調性を求められてきます。個と集団のバランスがサッカーにおいても語られることが多く、現代サッカーにおいてはポリバレント(polyvalent)「多価」やコレクティブ(collective)「集合的な」、ディシプリン(discipline)「規律」、インテンシティ(intensity)「強度」などが用いられることがあります。モダンフットボールにおいては、もはや一人の力でどうとかではなく、個人の力があることが前提ではありながら、多くの戦術的理解という決まりごとを遂行することが必要となってきます。

それは結果というか明らかな勝ち負けでジャッジされ、そしてサポーターやあらゆる評論家やメディアが論じ、そしてW杯という常に世界の頂点を目指しての、あらゆる産業界が結集しての取り組みが当たり前の世界だからこその自己評価がしやすいといえます。それでも中国リーグの高額な移籍金によるニュースなどを見るにつけ、多くの変化と様々な要素がからみあってのフットボールとなっています。

長年の病院で染み付いた思考がここ10年でようやく融合してきて、それでいて今度は専門家というところからの良い意味で離れること、つまり自立、本来「素としての自分」からみて、自分の居る場を本当の意味での外から見る目の養成、ここ数ヶ月の照合期間でした。社会のニーズは全く違う視点にて外部からでしか見れない、見えないことも多々あり、その実現化には自分のではなく、世間の、社会の、世界の、「こうあってほしい」という人の心の揺らぎを潜在的な深い思いを、具現化するための現代における方法論にまで落とし込めるための人であったり、機会であったり、タイミングであったりがあるのです。
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