運動連鎖道場♪京都スタート

7/20水曜日コースとして運動連鎖道場in京都がスタートしました。京都での道場は二回目で2年連続となります。新幹線から地下鉄を乗り継いで西院(さいいん)という駅が会場の最寄りとなります。
参加者は6名で少人数となりましたが、一人一人の思いや疑問などの心情が伝わりやすく、言葉一つとってもその、理解と馴染みやすさに差があります。参加者の皆さんは何か理学療法士として転換期にしたい!すでに研鑽しているものに上積みしたい!今いる患者さんが良くならない!なんとかしたい!なと立場も急性期から回復期、整骨院を営んでいる方など立場も背景も様々な参加者です。
言葉とは記号であり、その中に内包する意味と直結してこないと理解にいたりません。当たり前の言葉や単語も業界や組織などが違うと、途端にそのニュアンスは違ってきます。
最初の第一回のテーマは運動連鎖概論と足の運動連鎖です。運動連鎖アプローチ®️の特徴であるパルペーションテクニックをどのように習得してもらうか?そのためには効果判定やパフォーマンステストなどの定量性のある視点とどのように結びつけていくか?この辺りがメインとなってきます。
❶運動連鎖アプローチ®︎の基本単位
運動連鎖アプローチのベースとなっている背景としては他動的に動かした時の質があります。重たい!軽い!抜ける!抵抗がある!最初は特別なことではなく当たり前に主観的に感じる感覚です。関節の他動運動という誰もがやっている基本的なリハビリです。その中からどれだけ多くの情報を引き出せるかということから始まります。何かズシッとした重さを感じるときには例えば体幹などの中枢部の安定性に課題があります。つまり他動運動であっても円滑に動きが見られるときには、すでに関節運動学的にも理にかなった誘導がされているということです。つまり他動運動におけるリラックスとは奪略しているとはいえ脳内では能動的な運動と同じくシナプスの営みがあり、その動きが近くできているということにおいて、肢位に応じた筋緊張に調節されているということなのです。よって時に患者の体がセラピスト仕様になることも多々あり、セラピストが変わると微妙なタイミングや受け応えにズレが生じることがあるのです。
他動的な運動にこそ運動連鎖の真髄が隠されているのです。
❷運動連鎖の基本原理
⒈心が変われば身体が変わる。
⒉価値観が変われば身体も変わる。
心が変われば…身体が変わるというのはよく聞く言葉です。これは信じるものは救われる!やや揶揄する言葉としてのニュアンスが漂いますが、実は大切な真理が含まれています。端的な例としては患者と治療者の間に信頼関係がなければ、どんな治療も効果が出ないということです。薬や手術など病理に対して取り除いたり、生化学的な反応にて、薬理学的な反応にて起きうる現象は絶対です。そのあとの治療計画については、やはり信頼関係がなければ折角の初期対応が良くても、本当の意味での治療にはならないかもしれません。命に関わる治療においては対症療法が全てということもあります。人を見ないかもしれないが、病気を見ることの専門家が必要なことは間違いありません。この刹那的な医学の側面にリハビリの専門家である理学療法士が陥ってはいけない、勘違いしてはいけない側面なのです。理学療法そのものが治療家として治す!即時的に良い反応が得られても、その後に全くの右肩上がりで何事もなく良くなる例なんて、ほとんど無いでしょう。自らの何らかの痛みや不調が、簡単に完治しなさそうなことを見ても、他人になった途端に魔法をきかせて夢物語が生まれるわけではありません。
私が以前、非常勤で勤めていた某病院は認知運動療法のメッカでした。関節運動学的なアプローチはしない代わりに、知覚と運動そして認知の側面を、とことん突き詰めていきます。その結果身体イメージ能力が飛躍的な伸びていきます。つまりお膳立てはできている状況であり、いつでもそこに正しい運動刺激を入れると、たちまちに運動連鎖が全身に波及されるのです。私が非常勤にて見ていると、まー良くなること。普段見ている患者さん以上に反応が良好であり、学習能力が、ハンパないのです。湯水のように吸い込んでいく身体といいましょうか。確かに普段入れない運動学的なアプローチをすることで、潜在的な能力を引き出したとも言えますが、すでにその潜在能力を備蓄するためのアプローチが日々されていたということなのです。よって私からするとこんなにも容易に結果の出る患者はいなかった…というのが事実なのです。
心が変わればと言うのは、何も患者さんの前向きな心情といことだけではなく、身体イメージ能力が変わることを意味しているのです。また、納得するということにいて疑問が解決され、モヤモヤが晴れることでその治療に邁進することもできます。納得とは治療に対してというだけでなく、その機能障害のメカニズムにおける何故痛くなったのか?この症状の原因は何なのか?そのために皆は診察を受けて、検査を受けるのです。原因を知りたいがために診察と検査を受けて、そこに至ったプロセスなどを見返すきっかけになるのです。つまりはお任せ的なお医者さま!という完全なる上下関係のもとでの相対ではなく、ともに治癒に向けて頑張るという側面も必要です。
対等!かと言われると、これが必ずしも対等であれば上手く運ぶわけではなく、治療者と患者がリスペクトの意も含みながらの受け入れるという姿勢は不可欠です。
権力に抑えられてしまうことは、意に反した方向に行きがちですので、そこは過去の経緯も含めて反省の立場に立ちますが、対等意識が強すぎる!これも、全くもって勘違いも甚だしいということになります。経験とキャリアと、その道のスペシャリストとしての意見に耳を傾ける姿勢を基本とし、しかしながら完全な人間にはいないわけですので、その一つを切り取って貶める行為は、結局何も建設的な発展には結びつきません。
この世の中は時として、誰にでもチャンスはあるという平等の前提には立っているものの、そこには純然たる格差はあるわけで、その格差は同じ土俵での時には金星は上げられても、順位として三役、横綱になれるわけではないのです。横綱も不甲斐ない負け方をすることもあります。それをもって、それ見たことかと攻撃するのは、本当に見苦しいばかりです。一つ勝って俺はすごいんだーといつまでも引っ張ってみても、結局は番付を上げるためには正当な成績が必要なのです。結局は、完全に格上に対しては、どうあがいても直ぐには追い越せないため、出し抜いて八百長をけしかけなけるような手段を選ばない手に出てしまう輩もいます。当然、実力に見合わないハリボテをつなぎ合わせ、着ぐるみを着ているわけですから、ハリボテを外されそうになったり、着ぐるみの綻びが出そうになると、猛然と防御反応を露呈します。ハリボテには柱も留め金も今にも壊れそうなのですから、自信がないわけです。
価値観が変われば身体が変わると言うのは、情報によって価値観や知識が変わることで、身体における反応も変わってくるのです。つまりはこれだけの情報社会!医学も身体機能に対する造詣も深くなっています。経験則の治療であっても、科学的に証明されることでホッとしたり、価値が上がることは多々あります。反面逆のパターンもあるわけで、また科学の上に新しい治療法が生まれることは間違いありません。AIの世界を見るにつけ、そして遺伝子治療やES細胞による治療を見るにつけ、根本的な解決による身体の変化は目を見張るものがあります。ロボットやハイテク機器をいかに使いこなせるかが、新しい理学療法士には求められてくることでしょう。デバイスやハブとしてどのタイミングでさじ加減で最初に導入するかという役割を人間が担うことになります。ロボットやAIはトライ&エラーを繰り返すわけで、その過程においてまで試用するわけにはいかないからです。そうすると多様性と視点の幅を身につけるための経験が必要となり、それは場数を踏む必要があるのです。最近はロジカルな思考にてコンピューターのCPUなどの情報処理のシステムを、そのまま人間に当てはめたようなコメンテーターが若手の論客として登場する場面が増えてきたように思います。共通しているのは既存のモードとは違う、世代間における明らかな差別化が出来るタイプです。メディアにおいてもオネエ系があれだけテレビに出ているのは、既存との違いによる希少性があるからです。ロジカルな思考には冗長性やわびさびなどの含みは入りません。抑揚も感情も極力ない方がスペックとしてはロジカルシンキングが出来ます。ただしそこには夢やロマンが感じられない一種アンドロイドのような冷たさを感じます。しかしながら、それは既存のものとの差別化であり、居場所なのです。彼らこそ受け入れられたそのキャラクターを演じていくことのジレンマはあるかもしれません。感情をどれだけ排除できるかが、生き残りのためには必須なのですが、やがてそれはさらにロジカルで尚且つ限りなく感情とも思える所作をロジカルに感じさせないような仕組みを持ったロボットに取って代わられることになるでしょう。
価値観が変わればと言うのは、例え年を取っても背中が丸くなりたくない!という方は多いです。系統発生と個体発生から考えても猿から始まりまた猿の姿勢に戻ることが自然の摂理ですが、見た目や時代の変遷のなかで人には欲があるわけで、そのあらゆる欲求が価値観を醸成し、姿勢そのものの見た目の良さ!が全ての世代に浸透しつつあります。むしろ若い人の方が姿勢の悪さがファッションかのようになっていて、個性として根付いてしまっているかのようです。しかしながら骨の変形や変性までも内在した姿勢変化はさすが望まないでしょうから、若いという中における精神的な心理的な揺らぎがそこには内在しているのでしょう。いずれにせよ価値観はその時代により違いがあり、時に世代間においてギャップを生みます。ジェネレーションギャップという言葉知っていても、自分がそこに陥っていることを自覚できる人はほぼいないのです。自らが頭が固くなっているとか、受け入れなくなっている、古くなっている、などと思いたくもないですし、思えないからです。自分は自分の考えによって判断して動いているのであって、洗脳されているわけでもコントロールされているわけでも烏合の衆かのように画一的ではない個であると思いたがるからです。またそれは立場によって見える景色が違うということもあります。
立場という場の違いにより、それは世代間ではない線引きが出来てしまいます。経験則のとは聞く見るだけではなく経験するということの必要性があり、その場の支配している空気を会得するということなのです。自分が常に主語となる人は、常に空気を支配しようとすることで周りを自分のペースに引きずりこみ膠着させていきます。その場が自分の思い通りになればなんでもいいわけですから、その場しのぎの過激な言動によって凌いでいくことになります。つまり、実力がないことを演じて勢いで持って行こうとするわけですので、真の空気をまとうリーダーとして不可欠な素養はありません。人はそこまで過激に押し通されると大半は押し込まれます。しかしながら民意がじわじわと押し返し、やがて気が付いた時には思いもよらないほどに包囲網が敷かれて、退散せざるを得なくなります。すでに気が付いた時には修復不可能であり、周りも絶対的に妥協しない戦線を貼ることになります。見た目はそれほど危険ではない普通の人たちが一度蜂起すると、それは国家を転覆させるほどの力になります。失脚・退散とはこのようなメカニズムにて起こるのです。一見、失脚したとしても反省するほどの思考を持ち合わせていないわけで、また都合よく解釈して別の環境でもっとうまくコントロールしようと暗躍することになります。社会的に抹殺されて真面目て気がつくというよりも逃げ場がなくなるのですが、そこまで一社会において組織において追い込みませんので、結局は脳は都合よく解釈することになるのです。

道場においての質問と要望は、やはり実技をより多くやってほしいということです。論理や理論よりも実技によって何かを体験したいという要望の多さは、この情報過多の時代において体験をベースとして擦り合わせていくための経験値を落とし込むための時間と熟成するための余裕がないからでしょう。つまりは体験不足を研修会にて補う必要があるのです、情報不足の一昔前であれば日々の感じることの考えることのシステムが発達しますが、現代においては情報は得るものではなく流すものです。捨てていく作業がメインであり、そのことをじっくりと吟味してから削除するというよな余裕はありません。

初回は特に足の内在筋に対して促通する実技をメインに入れましたが、実際に他動的に動かすことが大きく身体イメージを変容させ明らかな実感として顕在化するその体験は衝撃的であったようです。頭で考えると他動的な運動をベースとした促通は筋収縮という観点からは、量という点では物足りないものです。絶対量に比例して筋活動は増加しそして促通されるとされているからです。しかしながら固有の内在筋などは小さな短関節筋ですのでタオルギャザーなどの運動による、マスとしてまとまった筋収縮では相対的な関係性において固有の筋肉は際立たないのです。ということでさらに内在筋の実技を中心にこれからもススエていきたいと思います。


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