リハビリにおける東洋医学的思考から実用へ

東洋医学的思考をリハビリとしてどのように考えるべきか?
東洋医学的なパルペーションとは?

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もともとは西洋の医療とは心身二元論に立脚しており、四半世紀前まではリハビリにおいても心身を分けて考えるのが普通でした。
ところが現在は心身の相関について、分けて考えるという考え方はほぼ心理的には淘汰されたといってもいいでしょう。
情報としては心身は切り離して考えられないという視点は理解していても、現実的には病院内での医療行為は変わっていないかもしれません。
少し長くなりますがお付き合いください。

私はリハビリテーションという立場での視点ですが、当初は運動器と脳血管障害については分けて考えるというのが主流でした。
中枢神経と効果器として運動器は全く別物と考えられていたからです。つまり脳血管障害は随意的にはコントロールできなくて、筋力という概念そのものが当てはまらないと考えられていたからです。
時代は変わり、精神分裂病は統合失調症になり、痴呆は認知症に変わり、躁鬱病のなかでもうつ病がクローズアップされるなかで、社会的にも理解が得られるところまできました。
つまり、気持ちの問題ではなく・・・病気として理解することで適切な治療と対処方法が確立されるからです。
話が飛びましたが、運動器においてはストレッチと筋力強化、脳血管に対してはボバース法やファシリテーションテクニックが主流であったものが、そこに脳科学、神経性理学において認知機能が台頭してきたことにあります。今までは中枢神経に対しては無意識下での反応をベースとしたセラピーこそが全てだ!という潮流がありましたが、現在は身体機能の原理原則という観点にて、特に随意性・不随意性という視点から導き出される結論からの脱却がされています。

つまり認知運動療法においては大きなパラダイムシフトが起きたのです。刺激伝導系という視点から感覚・知覚・認知という視点です。脳外科から認知神経科学という、解剖学的な脳から行為としての脳へのトランスファーです。

そしてスポーツの世界では身体イメージという主観的な身体感覚での表現が増え、現代の若い選手達は概ね身体のコントロールという視座を有しています。もちろん一昔前においても、そのような価値観がなくても情報がなくても素晴らしい選手はたくさんいたのですが、精神性を全面に出したスタンスから野球選手もよりアスリートとしての調整力が求められています。ハイブリッドですね!走攻守!

そしてその身体イメージというのが、体性感覚、筋感覚と関係が深く、記憶にもつながってくるのです。つまり身体は情動とセットであり、我々は表情や姿勢を見ただけでもその人の感情を推し量ることができます。

そして皮膚は剥き出しの脳のようなレイヤーであり、スキンシップが赤ちゃんの情操にも大きく影響を及ぼしてきます。つまり医療だけで考えていた身体が、心理学や体育、工学の分野とリンクしてきてそれぞれの観点から人間とは?という解明が進んできたのです。膜系の展開によって筋骨格の運動器が、脳内表象へのアクセスができるようになったのです。


そして皮膚や筋膜はレイヤーとして重なっているので、役割がかなり被ってはきますが、筋膜は運動器としての特性があり、皮膚は外界からのあらゆる刺激に対して反応します。情動とも関係が深いのも特徴で、感覚入力という脳へのダイレクトなツールでもあります。つまり皮膚は物理的な変化を最小限にしながらも、あらゆる感覚のモダリティに対して反応するのです。大切なことは皮膚の一般論ではなく、リハビリにおいてどのように落とし込んでいくか?になります。それも自然に嫌味なくです。

大概そのまま取り込んで使うので、結局その新たな視点や方法がリハビリ現場にて定着することはないのです。

つまり東洋医学においても、そのまま鍼やお灸もやるのでは、これは全くもってリハビリに応用しているというわけではなく、並列に取り入れたというだけになります。別部門として組み合わせるとなると、別に時間を設けるか、時間をそのために調整しなくてはいけなくなります。

最初からそのようなシステムとしてならいいのですが、大概は後から導入しようとします。

そして新しい!という従来とは違った形にて、習ったものしかわからない方法を個人にて取り入れても何も変わらないのです。変えるのなら周りを巻き込まなければいけません。その巻き込みも徒党を組むのではなく、共助を目指してになります。個人のレベルにて止まるのではなく、勉強会レベルに止まるのではなく、新しい文化を歴史に上乗せして変革させていくのです。

パルペーションがいわゆる解剖学的な触察ではなく、テンションというモードが加わりました。筋緊張においては硬い凝っているというモードから、hyperとhypoの見分け、spasticの中枢性と末梢性の違い、廃用と過用、筋性防御と
あらゆるモードのパルペーションに広がってきました。
一方で触診は水モノなので、医学としてのエコーの進歩はいちじるしいものがあります。中の病理がわかるからです。筋の機能障害がわかるという意味ではすごいですね。もちろん中枢性だとか、末梢性だとかはわかりませんが、性状がわかるだけでも大進歩です。

内圧というモードのパルペーションもあります。呼吸や躍動感などになります。そこにはリズム性や質的な判断もありますが、オステオパシーを源流とする、どちらかというと物理的な拍動に周波数を合わせることになります。

そして体調という視点です。季節やバイオリズム、サーカディアンリズムを実際に臨床にて活かすということが、生活という視点においては大切になります。少なくとも在宅において、筋の使い方がメインになることはなく、体の使い方も労働時にはですが、日々の体調を整えるという観点がより大切となってきます。何故ならば、高齢者の場合には、毎日何かしら体調が変化しまたら崩しやすいということがあります。

その体調を背景に、活動や参加もかなりの影響を受けているわけで、いわゆるバイタルのようなものですね。

その体調を見るという意味での触診が東洋医学モードなのです。つまりホメオスターシスや未病を治す!本治療法など、関係なくはないですが、病院の役割や本分を考えると、やはり治療ですよね。遺伝子や移植など明らかに西洋医学でなければ達成できないものは敢然と存在します。一方で予防や自助、互助、共助、公助など直接的な治療ではないですが、前提となる考え方も議論されています。つまり最新の医療機関も、人間が本来あるべく、社会の中での人間という視点も両局に拡がっているのです。

あらゆるものが重なり交差し、そのなかで生まれてくる緩やかな変化が昨今の時流です。化学反応といったスパークするような爆発は、現代においては、より慎重になりつつあります。つまり過激な一過性はあらゆる意見や視点が当たり前になったこの時代においては、容易に炎上の対象となるからです。つまりは力や権力にて、ある一つの方向性に向かうことが難しい時代でもあるのです。

では東洋医学的なパルペーションとは何なのか?東洋医学とか西洋医学とか両極に考える必要ななく、あくまで人間のなかに存在する連続したmodalityなのです。このmodalityは、心理というモードにていかようにも変化するのです。

つまりそのモードに気持ちという周波数にチャンネルに合わせることで真実となるのです。その人から見れば当たり前になるということです。それはその人が思っているだけだろう!というこの思い込みというか、偏った考え方と思われがちな論点はいつの時代でも存在し続けています。つまりは、「我思う故に我あり」という有名なことわざがありますが、まさにこの思うということは意識の同調なのです。そしてそれは全ては真実なのです。

時代の中で、パルペーションも東洋医学的な視点というのは、東洋医学という書籍を読んでその法則を真似るということではなく、自分のなかにある情動や感情の波長を切り替えることで自分のなかから生まれてくるものなのです。

学問として学び応用するのではなく、自らのチャンネルを東洋医学というカラーというか波長に合わせることなのです。

解剖学というモードにて触る時は、まさに王道の理学療法ですね。そして筋緊張というときには、生理学的なモードになりますね。そして内圧というとオステオパシーとなり、昨今の筋膜となると本来はオステオパシーなのですが、現在は理学療法的な筋膜バージョンのモードとなっており、どちらかというと解剖学の延長線になります。もっと解剖学的なのは筋連結ですね。筋連結と筋膜はつながりと媒介ですので、パッケージとして切っても切り離せないものと考えていいのですが、不思議とこの二つの単語は別々の使われ方をしています。筋連結といえば運動を、筋膜といえば徒手療法を彷彿とさせます。

解剖・生理・そして呼吸にバイタル、オステオパシーと触診にて感じれる様々なモードがありますが、ねぎらいや労り、感謝や慈しみ、母親が子供にかえる愛情など、このときの「触る」は診断ではないため触診という言葉は合わないといえます。ヒーリングやといわれるカテゴリー、リラクゼーションともいいますね。この概念もどちらかというと西洋ですので、日本では本来は「癒す」という言葉になりますが、「和」の精神というのでしょうか。日本人の根底にある精神への探求の先に見える意識こそが、元来の東洋医学からみた触診につながってくるのです。よって東洋医学を西洋医学的な教育過程である医学や理学療法と区別して考えるのではなく、自らの原点にたちかって元々持っているものを素直に見つめて見つけて、そして引き出せばいいのです。

もう少し具体的な触診について説明すると、緊張の見方も筋緊張ではなく、いわゆる包括的な緊張となります。腹診という東洋医学では評価方法がありますが、つまりのところお腹を触るということです。この硬さや緊張をみることで体調そのものを判断していくことになります。
そこには知識を通して当てはめていくということではなく、モードが大切なのです。西洋医学的な視点では、筋なら筋、筋膜なら筋膜と一つのレイヤーやmodalityを切り取って合わせることになります。東洋においては包括なのです。
「生」を司っている総和としての表象、それが「気」となります。東洋医学だから全体的というわけではありません。囚われていればそれは、すでに呪縛なのです。拘束なのです。森羅万象全てが生体に何かしらの波長を与えており、その波長を読み取っていくのです。
よって東洋医学を全く別次元で考えているのではなく、「生きている」その価値や意義、そして満足感や充実感といったことが殊更意識されてきている時代なのです。だから東洋医学という一つのシンボルとしてのキーワードを用いることが西洋医学や理学療法そして運動連鎖アプローチにおいても、時代の要請によって融合する機運がきたということなのです。
知識とは思考とはあくまで一つのチャンネルという一つのモードであり、本来、世界は宇宙は全てであり無なのです。
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コメント:1

お返事ありがとうございました。

としゆき
山本先生
丁重なお返事ありがとうございました。

理学療法士の中には東洋医学的なアプローチに関心のある方はたくさんいると思いますが現状では、理学療法の定義に取り入れる事は不可能な状態にあります。

しかし若者のニーズが治療家を目指しているのか?理学療法だけでは不十分だと感じているからなのか?わかりませんがオステオパシーやその他ボディーワークを学んでいる方が多いと思います。
ニーズがあるならば今後、学校教育で多少とも東洋医学を学ぶ場を少しでも作っていただければと思っています。特に慢性の痛み、めまい、頭痛等に関しては理学療法より東洋学的なアプローチが歴史を築いてきたように思います。
個人的には理学療法士は治療家ではなく、リハビリ家だと思っています。

治せる達人は他にたくさんいますし、私も何回かお世話になりました。
2年近くお会いしていませんが今後ともご指導よろしくお願いします。

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