活動と参加を極める!

生活不活発病への予防は生活を活発にすることにある 活動と参加はなぜにこれほどリハビリにおいて強調されているのだろうか?障害モデルがICIDHからICFに変わっただけで人の病気や障害がなくなるわけではなく、なぜなら病気の根治は人類有史以来の闘いの歴史でもあるからだ。ICFは以下のように説明されている。「ICF」とは、International Classification of Functioning, Disability and Health(国際生活機 能分類)の略で、WHO(世界保健機関)で1980 年に制定された「ICIDH(International Classification of Impairments, Disabilities and Handicaps・国際障害分類)」の改訂版です。 「ICF」は 2001 年に制定され、正式名称は「生活機能・障害・健康の国際分類」といいます。病院には受診のための多くの患者が来院しており、投薬や手術など先端医療が必要な重篤な疾病を有する人たちが集まってくる。しかしながら、こんなにも病気の人がいるんだと思わされる病院というところは、いわゆる日本全国から集まってくるところであり、世間一般を見渡せば実は少数であり街を歩いてもなかなか出くわすことがない。つまり街を歩いている人は、病院にて入院するような状態ではないわけで当然日常生活を送っているなかでは病気の人に出会う確率は低くなる。家族や知り合いが病気になって身近に感じることはあっても、私は少なくともリハビリの大学に入るまでは脳卒中でさえも一度もお目にかかったことがなかった。よって知識ゼロ、見たこともゼロだったのである。病院の患者さんに日々接する職業であれば、これほどまでに病院で困っている人がいることがわかるが、当然普通のサラリーマンやOLをしていたならば知るよしもない。テレビやメディアにて病気のことを盛んに報道しているので、目にすることは多くなっていることは確かだろう。つまりは理学療法士は病院にいれば、よく知られている存在であり当たり前のポジションを確保しているが、巷では理学療法士が相も変わらずよく知られていない、何をする職業かも知られていないというのが事実なのだ。つまり病院とは本当に普通に暮らしていれば出会うことがない、知ることもない病気の人たちが集まる場所なのだ。コンサートなどでもアリーナやドームがいっぱいになっているのを見るにつけ、ファンがこんなにいるんだ・・と感嘆してします。全国にはこれほどまでにファンがいることが不思議でならないこともある。どうしてどのようなファンとして長きにわたり応援し続けられる人たちが、周りには一人としていないのに集めるとドームを埋めてしまう。集まる入り口は病院であり、その集まった人たちは診断を受けて入院治療やリハビリを受けることになる。つまり説得力のある場所や施設や人に紹介されて、勧められることによってリハビリに患者としてくるのである。その時点ですでに気持ちも患者として受ける準備が整っており、導入が終わっている段階なのである。データや統計が実感として湧かない理由はなぜだろうか?認知症500万人時代と言われていますが、周りにそれほど多くの認知症の人がいるとは実感できるだろうか?新聞やテレビであれだけ報道されているからそうなんだと思うだけです。私はバブルもリーマンショックも現在の株価の上昇にも、アベノミクスも何も実感がありません。恩恵も損失も受けた経験がないからです。当然、その認識がないのは当たり前です。実感がないものは認識することも意識をすることもできません。ただ当事者はいつも関わっている日常なので当然認識が高まります。自分は理学療法士なので、理学療法士が知られていないという実感は一般の人たちと話をすると「知らない人がまだまだいるんだ」と思わされることがあります。ただこれほどまでに理学療法士が増えて病院のなかにリハビリがあり、老犬やデイサービス、訪問リハビリなど全国津々浦々に広がっているように思えるわけです。よってかなり広まってきているであろうことは思うのですが、知られていないというふうには本当の意味で実感する機会はないのです。病院にいて患者さんがいて、診察から診断名がついてリハビリにオーダーが出れば、それはすでに先生です。自動的にどんどんリハビリ対象の患者さんが送られてきて、自動的に担当してみることになる。まさに受動的です。本当に必要な人を必要なタイミングで我々が判断をして、来てもらっているわけではないからです。確かに看板で来てもらい、その中のサービスなり治療が良くなくては継続して来ることはない。そのサービスや治療内容が良ければ患者さんには喜ばれ、リピートしてくれることになります。その中で客を呼べる人は、箱から離れて自らの看板を立てかけるのでしょう。その治療やサービスの評判は、元々の箱にて得られたものであり、ある意味その評判が命綱になります。口コミが結局は大切だということは、この情報化社会だからこそ、何を信じていいのかわからないからです。よって全くの知らないところから、ホームベージやチラシのみで来院しようと考えるのは、余程の思いや事情があるかしかありません。それかその人が対外的にも有名人であったりとカリスマ要素になります。しかしながら大概はそのようないきなり知名度もあるわけではなく、となると誇大か誇張するしかなくなります。自らの肩書きをことさら大きく見せるしかなくなります。入り口ですから、人よりも目立たなければ仕方がないのは確かです。一貫性と継続性治療というのは一発で良くなることはありません。直ぐに痛みが引くなどいうのは余程の軽いひとです。お試しに体験として来るぐらいのレベルのひとであって、深刻な重篤な症状にて来るひとで即効で良くなることはありません。既にボジションが約束された職業理学療法士は病院においては既にボジションが約束された職業です。つまりレギュラーが確約された中でのスタートたのです。レギュラーが確約されているというのは、ありがたいことです。つまり何があっても先発で出れるという前提だからです。そして確約されているということは、降ろすことは前提としていないということであり、また働いてもらわないと病院や施設にとっても困るという優位な立場でもあるのです。我々が働かないとコストが取れませんよと。そうすると、ある程度の振る舞いは許されることになります。つまりは出ることの条件をクリアしなければ出れないというわけではないからです。サッカーて言えば、監督の要求や要望に沿わなければレギュラーを外されることはままあります。もちろん直談判してお互いの相違を埋め合わせる努力も必要でしょう。日本代表になれば、候補となる選手は山ほどおり、絶対レギュラーとされる選手は僅かになります。レギュラーが固定化されていこともありますので、その場合は出ることが前提になって、規律や献身性が損なわれることになるとチームは形骸化します。今思えばブラジルのW杯は、選手の声や主張が随分前面にでるチームでした。自分たちのサッカー!W杯優勝を目指す!個の力!それは全て本田選手の発する自分の中での自己実現の表象になります。結果が伴いませんでしたが、1人のカリスマに牽引されるメンタリティーではなく、海外では時に喧嘩してんのか!と思えるほどに意見をぶつけ合うその中で、お互いがフラットになり融合しあうことになります。棘を丸めて合わせるのか、棘をこすり合わせて削りながら合わせるのか!その違いかもしれません。そこにはレギュラーであったとしても競争がうまれなければ、必ずチームは形骸化します。規律と献身性!そして使ってもらえる、登用してもらえるためにして自らが変化をすることが時に求められます。既に公的に認められていればメッシのように全権を渡されて、メッシのためのチーム作りをすることもできます。しかしながらW杯で準優勝はしたものの、輝けたか?と言われればもう少しできたのでは?という感想です。バルサのような輝きはアルゼンチンでは見られないというのが、専らの評であり、それは自国のナショナルチームになるとメッシは超がつく別格になってしまうからなのではないでしょうか。日本にもしメッシがいたら、これはチームメイトも間違いなくメッシに迷惑をかけないように…と思ってしまうかもしれません。結果的にそれは、メッシ自身の献身性や自己犠牲というようなメンタリティーから生まれる、新しい発想や動きが引き出されなかったのではないでしょうか。ボジションが既に与えられているという立場は、ともすれば自らの判断が全てになりがちです。ましてや理学療法士は治療となるとマンツーマンの個人プレーになります。つまりはレギュラーを確約されていると、好き放題プレーをしてしまうということです。エゴイストの集まりになります。患者は弱い立場にあることも多く、先生と呼ばれるその立場はいまだに健在です。やるべきことよりも、やりたいことを優先してしまうが故に、理学療法全体としての一貫性がなくなります。エビデンスやプロトコール、クリティカルパスなどの概念が提唱されるのは、その自由裁量への歯止めと科学としての発展にあります。各種勉強会が各々の持論にて展開されることは仕方がありませんが、全体を統合する体系を作り上げなければ、基準と指標かできません。自由に自分をやりたいようにできるということが、最大の魅力であり、決められてルーチンを提供することは面白くないと思ってしまうかもしれません。そうすると、やらなけれ戊ならないことや、やるべきことより、やりないことが際立ち、結果的に自らのやりたいことと相容れない方法は除外する、排除することにつながります。そうすると狭い世界でいいだ悪いだのという論法が展開されます。高齢化社会において、機能低下の要因が生活不活性であることが言われています。病態としては廃用症候群と何ら変わりはないのですが、単なる運動不足という筋肉単位の解剖の問題ではなく、その人の生活が背景にあるということです。書いてしまえば何てことはないことです。あっそうか!と思えばいいことだからです。つまり特別に知識や技術を高めるための努力や労力に比べて、概念や理念は知っているかどうかだからです。しかしながら、この概念や観点こそが、人生にとって大きな羅針盤となることをどれだけの人が気がつくか?そこに価値があると思えるかどうか?そこに着眼点があるかどうか?往々にして世の中をリードしている発想は、言われてみれば当たり前のことばかりなのです。この当たり前のことを本当に価値あるものと思えて、尚且つ信念を持って歩めるか!そこに全てはかかってきます。既に既成概念の中で、まかり通っている方法論をなぞっている人達をよく見かけますが、それは既に過去なのです。未来は自らが新たなステージに引き上げるものであって、引き上がってから乗り込むのでは、既に大きな差がついているのです。時代は動いています。過去の発想と行動パターンをなぞらえるその思考は、消えていく運命にあることは過去のあらゆる事例を見ると明らかなのです。しかしながら自分のこととなると、これが不思議なことに見えないのです。自分はそうではないと思ってしまうからです。細胞レベルや組織レベルから、より人間のメカニズム、社会生活を営む人間としてのダイナミズムを考えると、この活動と参加という考え方は、何も高齢者だけでなくスポーツや健康増進など、あらゆる分野に広く当てはめて考えることの習慣をつけていかなければならないのです。この癖をつけることで、新たなステージが見てくるのです。そしてその人達がある一定の域に達した時は、時代をリードする新人類となるのです。まさな自分があの時信じて最先端だと自負していたことが、ある時時代に合わなくなってくるその感覚に襲われるとは露とも思わなかった。そんな時代に突入しています。結局、なんのためにやっているのか?個人でやることは最も自分の考え方を表象できるステージではありますが、一方で社会に視野を広げ、社会に真の意味で入っていくことの一歩を意識から変えていきましょう。具体的にどうすればいいのか?答えは既に目の前に何度も通っていることです。特別なことを俺がやってやろう!と意気込みもある意味大切なのですが、現実的に本当にそれは希望的観測ではないかということを、自問自答してみましょう。
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