運動連鎖道場in京都の幕開けぜよ!

運動連鎖道場in京都 ‘プロローグ’ 第一回報告




6月11日京都での運動連鎖道場がスタートしました。関西では初開催となる待望の道場です。私自身も関西出身で関西で開催することは、凱旋帰国のような気持ちがあります。関西の空気はどことなく懐かしさと香しさを呼びもどしてくれます。緑のミストと草木の芽吹く独特の匂いでしょうか。そこに自分自身の原点を思い出させてくれるのです。

京都での運動連鎖道場生は18名。名古屋から広島まで、主に関西圏からの参加者が集っています。関西弁が懐かしいですね。イントネーションが関西弁というのは、身体に染み付いた波長とシクロして心地よさとなってきます。

初めての道場参加で各人が緊張するなかでのスタートで、自己紹介にて主に回復期から療養病棟、地域包括ケア病棟など病院に勤務している人が多いようでした。若いセラピストが多く、なんとか臨床のなかでの糸口を見つけたいという切実なる想いにて参加されています。介護予防や訪問、外来、そしてスポーツ現場にて活躍している若い理学療法士さんもいます。それぞれの課題とテーマをもって参加されているということは、同じことをレクチャーしてもそれぞれに捉え方が違います。そして解釈と応用のしかたも違います。運動連鎖アプローチというオリジナルの体系はあるものの、実際に臨床応用にて落とし込む段階においてはテクニックを披露するというスタンスではなく、その人のストーリーのなかのスパイスとしてどのように効かせるかということであり、あくまで人生の一部に一瞬に関わるなかで、どのような一期一会を過ごせるかということなのです。

一言で言えば活動と参加を念頭においたリハビリが推奨されるなかで、身体機能に特化した法則性については、それも治癒のきっかけの一部でしかないのです。その一瞬の時をスペシャルなものにデコレーションするためには、周到な準備とこころ構えが必要です。つまり刹那的に技を披露するというスタンスでは、そこに一番大切な臨床が抜け落ちるのです。良くするイコール変化するという思考は、その一瞬の変化に対する報酬としての快感を享受しているだけで、それは全て治療側のための報酬といえます。そこに自己満足がついて回りますが、実は患者不在の状態です。自ら所有したものを披露するというスタンスは、やがて患者の意向や想い、そして気持ちとの乖離を生き、やがて治療者側の頭のなかで完結していきます。つまり治療者側の頭のなかでは、勝手に良くなっていることになっていてその思い込みと断定的な姿勢が患者にものを言わせなくなります。よってその治療者のなかでは、全て正しくて良くなっているということになります。では理論的に正しくいと思われることが実際には運用されると、うまく回らないのはなぜでしょうか?学者が政治に関わって実際にうまく回らないゆえに、指導者のもとに軍師として専門家で構成される識者が別に設けられ提言をまとめるという作業に振り分けられるのです。大衆の民意を牽引していく能力と、理論的に組み立てていく能力とはまた別なのです。その効果的である方法を機を見て放つためのタイミングは、論理的には測れないからなのです。

理学療法士にとって最も必要なスキルは、クリティカルパスやプロトコールの検証とアップデートを繰り返していける能力となります。技術や知識はその積み上げていく一つの過程にしかすぎません。よってそのテクニックもストーリーのなかのどこに位置して、どのように続いていくのかを明確に理解し伝えることができなければ、ただのマジックに終わるのです。何か見世物を見せられても、その時の高揚感や驚きはあっても時間が経てば消えてなくなってしまう。毎回同じメニューを繰り返し出されても、飽きてしまう。先が見えてしまう。それ以上の発展が見られなくなってしまう。よってスポットにて介入して変化を起こすという役割は、ある意味本当にいいところだけを持っていくためには都合のいい役回りといえます。実際に継続して治療を続けるにあたってのリピートぐらい難しいものはなく、そのためには常に治療者側のあくなきアップデートとともにそのクライアントに対する一貫性と発展性がなくしては成し得ないのです。つまり臨床とは継続性をもって進歩している改善していることへの認識とプレゼンテーションが常に繰り返されることなのです。本当に外科的な処置が必要な疾患であれば、完治と根治というカテゴリーになります。しかしながら慢性疼痛のような一回では消失することが難しい症状の場合には、多角的にアプローチしていくことが必要であり計画性と綿密なプログラムが不可欠です。つまりこのような症状に対しては、特定のなんとか法を提供するといことでは自己満足の域を出ないのです。治療計画が必要なのであって治療方法やテクニックの披露ではないのです。説明も治療の理論的背景ではなく、その人のプロセスに即した実践!です。治療の紹介ではなく、リアル臨床が必要なのです。手段はあくまで手段であり、目的は治療計画であり、積み上げて練り上げていくそのクライアントのためのオリジナルのプログラムでありバイブルなのです。手段が目的となって治療家を飾るためのアクセサリーになっては本末転倒なのです。

京都の道場の第1回目は足部と膝の運動連鎖がテーマです。

ロコモティブシンドローム・運動器不安定症・介護予防・地域包括ケア病棟など、診断名に特化した治療ではなく症候群に対しての予防や生活リハビリという要素が多分に入っています。つまりは、時代の要請がリハビリテーションの形態を変化させ、またマインドをも変化させなければいけない時代となっているのです。そこにはすでにある流派や方法論が主役となる思考ではなく、社会のなかに参加している一人としての役割なのです。そこから治療を逆算して考えてプログラムしていくなかで、その一場面にてテクニックを活用するということなのです。そのより良い社会保障のために、自らの知識と技術を役立てるということなのです。

予防とは何か?症候群に対してどのようなロジカルな思考を当てはめればいいのだろうか?それは普遍的な身体の原理原則となります。それは抗重力下における能力である抗重力能になります。そのためのセンタリングでありバイラテラルとなります。そして姿勢制御であり修正能力であり、自由度と汎用性となります。筋力を量とするならば運動連鎖は質となります。姿勢制御も質的な組み合わせになります。絶対量ではなく質的な組み合わせによって成り立つ構成要素となります。

今回の姿勢制御の評価と質的な解釈は確実に普遍性と原理原則に則っており、理学療法における独自性であることは確信をもっていえます。

真の実力をつけるための旅がここから始まります。それは私自身の進化であり、道場性にとっても新たな旅立ちとなり、その羅針盤になるべく進んでいきます。
道場性のみなさん半年間しっかりとついてきてください!私もその一人一人の思いを胸に答えていきます。
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