子供の発達に思う

先天性と後天性

私は小児の専門でもないし、発達学について深く修めたわけではないので詳細については清書に譲るとして、私自身が感じる子供の情操について私見を述べたいと思います。

成長発育といえば、スキャモンの曲線がでてきます。
私の手元にも専門書が横にありますが、これを熟読するとどうもその物差しでみてしまうような、もう少しいうとその専門書に書いていることをそのまま解説するだけになりそうですので、あまり見ないことにしましょう。この記事を書いてから、確認の意味も込めてサラッと必要箇所だけ見るのが私のやり方です。
 つまりは勉強すれば新しい知見や発見はありますが、あたかもそれが自分の功績かのように語るのは考えものですね。

こう書いてあったよ…ではなく、実感と実践を元にリアルな真実を掴むことで、初めて人に語ることが許されるのです。

学習障害という定義が広く知られるようになって久しいですが、実は養護学級の対象ではなくても実際には各々の発達を見ていくと微妙に差分が見られます。

私も子育てをしていく中で、明らかに心身の発達の仕方に前後があることがわかります。つまり身体の発達、神経系の発達、情操面の発達など、その発達の仕方はそれぞれが一斉に横並びではなく、遅延していたり部門により差が出るのです。

その発達過程を乳児から学童、そして中高と観察していると、時にその発達過程の遅れのように見える特性が、個性や才能につながることがあるのです。特に感性あたりはかなりの影響があるのではと思えることがあります。


もちろん後天的な環境因子は大きいです。元々は田舎育ちで田舎から出てきた身ですので、東京は明らかにあらゆる面で進んでいます。情報もしかり、スポーツ、文化、教育、レジャーなどなど。もちろん5人に1人は貧困だと言われている現実もあるようですが、なかなか表からは見えにくい側面もあるのかもしれません。

東京にいると海外からの帰国子女やハーフ、海外旅行などの頻度などなど、羽田空港や成田空港が近いこともあるでしょうが、その生活スタイルは田舎とは雲泥の差です。

私が小学生の頃は、歯医者の娘が夏休みごとにハワイなどの旅行に行って、作文の発表時にただ、聞いているというだけでした。周りにはそんな人は歯医者の娘だけでした。最近では海外旅行も誰もが普通になってますので、さすがに昔のようなことはないと思いますが…

お受験は当たり前の東京にあって、私の育った町では、受験するのは限られた数人のみ。遠い話でしたね。塾なとも行ったことがなく、いや、そろばんに三ヶ月行きました。

まず、受験の意味がわからない。一郡一町、7つのローカル小学校、一中学校、一高校しかない、私立なんでありません。高校受験?エスカレーター式じゃないの?

話が過ぎましたが、兄弟、友達、親の職業、経済状況、あらゆる要因が加味されてきますが、その子供の持って生まれたキャラクター、このキャラクターとは心身のあらゆる成長発達過程の表象となります。

この先天的とも言われる、三つ子の魂百までは、その後の環境因子と絡み合って相性となってきます。相性が悪ければ、その個性は伸びを抑制され、相性がよければ、理解が得られる環境であれば、その個性はマイナスではなく個性として伸びてきます。

最近ではその個性が天才とも評され、普通の教育環境では馴染めないため、特別に才能を伸ばす教育プロジェクトが発動しています。その応募数がすごかったとのこと。世界の天才が幼少時は劣等生のレッテルを貼られていたという逸話は多岐に渡ります。

その個性とは、実は成長発達過程のdelayディレイであったりするのだと思います。
そのディレイは、リハビリ的に考えると、弱いところは強い部分にて代用できるわけで、往々にして使わないで覆い尽くされてしまうことがあります。特に筋力低下や廃用に陥った筋肉については、そのことがよく見られます。つまりは、成長発達においてもdelayした要素は、いつしか個性となって適応していくことになります。この適応とは成長発達がといついてくるということもありますが、そのdelayしているがゆえに出来る体験と経験があります。その時に上手くいかなったり、逆に褒められたりすることで、その個性がキャラクターとなって社会にはめ込まれていきます。

またその後の自らの体験と経験にて、知識として学ぶことになり、大脳皮質にて解釈し直すことになります。それがいい意味で解釈され直して納得できればいいのですが、単に押し込められただけの、いわゆる抑圧になると社会に適応したとはいえなくなります。この適応も時代と社会のあり方に左右されてくるわけで、今現在必要とされるキャラクターなどは、まさに運命であったりタイミングであったりするのです。

時の人!というのは星の下に生まれた人なのでしょうね。

成長発達のなかのキャラクターは、時に才能とも言えますが、それが時に変わった人であったり、人とは違う、と表されます。それは今の基準にて純粋にすごい!というような偏差値、記憶力、東大を頂点とした価値観の普遍化となります。今でもその効力は絶大で、京大卒の田中投手はそれだけで大きな話題となります。

社会に適応しするということは、上手く馴染めるということでもあり、それは角が立たない、スマートな生き方とも言えます。しかしながら、高卒の実業団やプロスポーツ選手と大卒のスポーツ選手では、独特の泥臭さは大卒にはないものの、しかしながら限りなく潜在的な可能性や爆発力を感じるのは高卒の選手であったりします。
その後の環境因子により、選択肢を与えられすぎるとかえってハングリー精神が欠けたり、追い込まれるからこそ、その他の目が開いていないからこそ邁進出来るというメリットがあるのです。

ただ高卒の選手が時として、悪さをして話題になったりと成熟という点では個性が立ちすぎて、その使い方がわからなくて、居場所がわからなくて暴走することもあります。

いずれにせよ、幼少時の才能と呼ばれる個性は、時として発達障害に見られることも多々あり、優等生=才能ではないことは確かです。ただ教養は必要で、どこかで野生のじゃじゃ馬は躾を受けなくては乗りこなせません。しかしながら、乗りこなせるようになった時には、ものすごい力を発揮することになります。その力の発揮は気まぐれで、人を選び自分本位であることもあるため、なかなか安定しないことも確かです。

人を評したり評価するのは、いわゆる個性派ではなく常識派の人たちであることが多く、日本ではよく協調性が重視されすぎるため、個性が育ちにくいとも言われています。そこが日本の良いところでもあり、グローバル化においては遅れをとっているところでもあります。
その個性はよほどの結果を残さなければ認めてもらえないことが大半であり、しかしながらそのスターダムに上がったとしても、その後のマネージメント能力が備わってなければ、流転の人生に陥ってしまうこともあります。
個性を自由に発揮させる環境とステージを与え、その使い方を指南するマネージメント出来る人がいなくてはいけないのです。その、マネージメント出来る人はプロモーターであったり、オーナーであったりするわけで、その指南役の人がメンターとし老師のような人格者であればいいのですが、利に資した人であれば利用されることになります。

やはり、そういった意味でいつもフラットに変わらず付き合ってくれるファミリーが、大切なのでしょう。そこか皆で乗っかってきたら、当人はたまったものではないでしょう。安らぎの場はないとなります。

つまり成長発達においても、家族のありのままを受け入れる空気が大切なのです。

その受け入れも溺愛ではなく、突出した部分は受け止め、引っ込んでいるところは寄り添いサポートする。つまり凹凸に対して、付かず離れず、そして時にリアルタイムに指摘すること。それは行きすぎたり、その個性や特性にて、あたかも常識かのように振舞い増長し出したらバシッと叩くことが必要です。

その増長を野放しにすると、それはろくなことがありません。自分の「思うんすよね~」が世の中の基準として思い込む。周りは、そこに対して賛同も否定もしないわけで、そのままスルーしていくと、その人はそれが当たり前として通っているんだと勘違いします。
そう思うのは勝手ですが、それが人も同じように思っているわけではないことを、どこかで心身に対して楔を打たなければなりません。そういったタイプは、自分が中心となってやりたい放題やらせてくれる仲間内ではのびのびなのですが、都合の悪い上司や上の人の前では途端にしゃべれなくなってしまいます。それは自分の価値でしかしゃべれないので、相手を受け入れる、意図を汲み取ることができないからです。つまり物事の受け入れて自分の価値観となぞらえて消化する力がトレーニングされていないからなのです。  子供は身をもって知ることで、考える機会となります。じっくりと話すことでわかるという風潮が王道となっていますが、体罰という反例による無難な着地点です。本来は成長発達のなかで情操面も凹凸があるわけで、そのなかで心身のどこにアクセスすればタイムリーに響くかは、一律の方法では語れないのです。識者も何を言えば社会に一番受け入れられて仕事になるかを知っているので、そこはだんだんと意図と演出も入ってきます。  いずれにせよ子供の頃にこの過程を踏まなければ、おそらく大人になってからでは、誰も言ってくれなくなります。なぜならそれは社会人として、常識だからです。

発達障害のカテゴライズは、その線引きが難しいです。誰もが個性があり、人と違っていればそれは外れている?となるからです。世の中はルールにて出来上がっており、長い歴史の中で培われた権利でもあります。その長い歴史の上に出来上がったルールは、さらに少数派ともいえるあらゆるカテゴリーの人たちをクローズアップさせることになり、さらに多様性のあるジャンルの人たちがいることがわかります。それは成長発達における凹凸のバリエーションとも比例しているのだと思われます。

delayなのかそれとも亢進していて、正常発達している他の要素が追いついてこないのか?そのどちらも個性といるのだと思われます。秀才は凸タイプなのかもしれませんし、逆に他の要素が凹なのかもしれません。自律神経と同じですね。

どのような表象であっても、ポジティブであれば自然なありのままの剥き出しの個性が見えるわけで、それはその人そのものなのです。そこを潰してしまっては、その人らしさが伸ばせなくなります。反面、ネガティヴなエナジーが見える時は、個性が逆の方向に使われているわけで、その個性がエナジックであるがゆえに、周りを引き連れて引き込んでいくことになります。つまりカリスマ性の原理です。
ボジティブのネガティヴ、それが都合よく使われているのか、純粋にありのままの自分として、表現できているのか?それが時代や環境において、どのような修正がアレンジが変容させればいいのか?

使いやすい方法にて使うことは子供にとって当たり前であり、使いにくい面倒なことは子供は選択しません。伸び伸びの育つ中で、成功体験とさらに何かをするときに、自ら課題に対して立ち向かおうとする意欲につながればいいですね。与えるのは型にはまった環境ではなく、自ら選択できる選択肢を用意することなのです。

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