理学療法士の地域の中での役割とは

地域に根ざした活動とは?

理学療法士は基本的動作能力に対してアプローチし、作業療法士は手段的生活動作に対してアプローチするという役割の順序めいたものが我々にはあります。つまり、筋力や動作などの動きの基礎を担当し、作業療法士は就労や家事を想定しての生活動作〔アクティビティー〕を担当のするという役割分担です。それが同時進行のこともあれば、急性期は基本的動作能力を中心としたアプローチで、回復期から在宅にかけての期で生活動作を強化していくというphaseに分けることもできます。
退院や生活への環境づくりが視野に入ってきた時点で、福祉用具や家屋改修などの身体と道具をつなぐデバイスを工夫するのが、作業療法士となります。ただしデバイスも手すりなどの基本的動作能力に直結するようなものは、理学療法士にアドバーテージがあるかもしれません。

このように理学療法士と作業療法士の役割を完全にphase分けにはできませんし、クロスしてきている状況下において、理学療法士そのものが生活や地域という新しいオプションを持たなければならなくなった…というのが実情だと思います。

つまり海外においてフィジオは機能に特化した専門家であるという定義になります。フランスでは理学療法士のことをキネステセラピストつまり運動機能療法士のような訳になるのです。その言葉からは明確に何をする専門家であるかは明確に定義されており、時代は変わるともほの原則に則って施策を進めることになります。

日本では特に国から求められている役割は高齢化社会における社会保障費の高騰、専門性への社会への浸透が追いつかなかったことにより、国への歩調を合わしてすり寄っていくことを余儀なくされるのです。ダイレクトに臨床現場にて起こっていることではなく、国の施策を常にアンテナを張り続けながらの方針転換は、若いセラピストのまだまだ理学療法が何者であるかわからない状況下にて、これからのキャリアとスキルアップに何年もかかる行程のなかで、その職能意識や政治意識に目覚めるのは容易ではないといえます。つまり中央での動きが、どんどん変わることで、当然その過程を全て追いきれなくなり、いつの間にか全く認識外のところに行ってしまっている可能性があるのです。地域包括というテーマにてヒットする立場のセラピストはどれだけいるか?教職や研究機関やスポーツ現場や小児など、各々の分野にて地域包括に結びつけることができるとは思いますが、敢えてそこに結びつける必然性を高めなければなりません。

つまり、在宅や地域に帰すという言葉が独り歩きをしてしまい、その具体的な役割については曖昧になっているのです。その結果、作業療法士と理学療法士の役割はますますクロスすることになり差別化ができなくなってくるのです。特に生活や在宅や地域になると作業療法士分野に理学療法士が進出している印象かもしれません。


地域への参加というのは、額面通りに受け止めると、集いの場所へ参加するなど、外へ出て行くということになります。そこには、役割や生き甲斐を持って生きていくということが根底にありますので、その人なりに地域の中での生活するいう形は様々でいいのです。

急性期だろうと回復期であろうと、地域であろうと、理学療法は結局は筋力強化などの運動を従来通りやっておけばいいんでしょ?という結論になりがちです。おそらくこれは古いタイプの理学療法であり、実際には若い理学療法士さんたちは回復期や一般病棟において、明らかに私が理学療法士になった頃とは違う、寝かせたっきりの治療技術偏重のスタイルとは違っています。質に対する危惧される声は聞かれますが、これはしっかりとやっている人がクローズアップされればいいことであり、意外に良くないところばかりに焦点が当たっている可能性は高いです。若い人の質は下がっている!という思い込みから先ずは脱却するべきです。少なくとも私の周りにいる理学療法士は、皆本当に良くやっているし、逆に見習う点が多々あり感心させられることが多いのです。

また気をつけなければならないのは基準を患者さんや利用者さんの要望に沿ってサービスを提供するという一見当たり前に聞こえること前提が、ともすれば医療従事者としとの専門の根幹から外れていませんか?ということです。

要望があるからとは、ニーズとなりそのニーズは理学療法士の専門性から新たな価値観や生活感を醸成させることにもあります。つまりこんな考え方やライフスタイルを変えることで、もっと過ごしやすくなりますよ。全てに共通する考え方であり、もしかしなくても世の中の原理原則となって根ざしている理念でもあります。教育的なアプローチや、応用行動分析学という分野は、ニーズの捉え方にバラダイムシフトを起こし、その後の人生に違いを生み出します。それは決して心地よいものではない、受け入れと適応することが求められます。つまり、主体的に能動的に取り組み目指していくことになります。専門性が主体的に何かをすることを促すというのは、ともすれば処方箋をもとに特効薬を欲しいと思う患者心理と逆行しており、そうすると患者の要望がマッサージであれば、それに応えるという展開もある意味無くはないとなります。つまり、ストーリーとプロセスがあり、その中でのある時は相手を尊重し、要望に敢えて答えることで、その後の本来の目的と理念に導いていく布石とすることもあります。そうすると散歩やマッサージも単なる一場面を切り取っての良し悪しを論ずるのは、ナンセンスとなります。何をするかしないかで是非を問われてしまうと、具体的に何をするのかをしなければいけないかを示さなければならなくなります。評価をしてその後に何をするのか?運動指導、動作指導、動作介助指導、直接的に治療となるべき施術は、果たしてどのようか位置付けになるのか?つまり目的が痛みをとるというこどあるならば、それは徒手療法であり、楽になるということであればマッサージも入るだろう。満足度となると寝ててもやってもらえるマッサージに行き着いてしまうのです。 しかしながら、それはマッサージそのものを知らないが故に、要望のままにやってしまうことになるのです。そこにこだわりと専門性があるならば、他の手段を用いることへの誘いをかけることができるはずです。つまり本来何をするべき役割と、やるべき使命があるのか?を問うことで、あらゆる方法か目的のための手段となり、必ず目的に帰結することになるのです。 おそらく理学療法士として、国に求められていることが在宅へ帰すということだとしても、専門性として在宅へ帰す専門家ではない。一つの掲げた目標が全ての理学療法士に降りかかってくると、これは最早何をすることが本文なのかは分からなくなってしまいます。 つまりは、在宅に返す、地域にかえす、街づくりや地域づくりも含めて、それは理学療法士としての機能的なイメージが必ず付いてくることが必要なのです。その都度変わってしまうことが問題なのです。あくまで一部門として取り組むこと、その他はしっかりと軸足を置いて取り組むこと。それに限ります。

スポンサーサイト

コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0