マッサージとは何か?

MASSAGEについて再考する



マッサージ(英: massage)は、皮膚に求心的に施術することにより主に静脈系血液循環の改善やリンパ循環の改善を目的にした手技療法である。マッサージは、フランスで生まれた手技療法(仏: massage、マサージュ)を指すが、同様の効果を得られるものとしてタイ式や朝鮮式のマッサージ(안마と呼ばれるものは除く。)も便宜的に「マッサージ」と呼ばれる。
マッサージには静脈・リンパ循環を促進する効果がある。スポーツ・運動時前後には、筋肉緊張をほぐしたりするためにマッサージが用いられる。他にマッサージによる(適度な)刺激などにより、緊張の緩和をもたらし、筋肉痛を和らげる、排便を促す、気分が和らぎ眠りを誘う、等がある。
現在、マッサージは通常医療の場でも(リハビリテーション等々)、代替医療の場でも、様々な健康増進目的で個々人が自分自身に行う形(セルフマッサージ)でも行われている。

名称の如何に関わらずマッサージを業とできる者は、医師以外では「あん摩マッサージ指圧師」の有資格者のみである。

しかし、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律には、「あん摩」や「マッサージ」の行為・方法の定義がされていない為、職業選択の自由もあり「整体」や「カイロプラクティック」「足のツボ療法(リフレクソロジーを含む)」「リラクゼーション」などの看板を掲げ、無資格でマッサージ類似行為をする者が後を絶たず、また、柔道整復師による保険を利用した激安マッサージも問題になっている。

(以上Wikipediaから抜粋)

つまりマッサージは日本では按摩マッサージ指圧師の専門性であり、業として理学療法士はできない。ということになります。業とは繰り返し継続して施術をすることを言うようで、単発的に手段として適宜用いるのは問題ないということになる。この適宜とか継続的でないという定義が曖昧であり、個々によって解釈も捉え方も受け止め方も相違がある。その解釈そのものを規制することはできない。理学療法士法においても、マッサージなどの物理的手段と明記されているように、専門性の一つなのである。これは変えようのない事実であり、今更消すわけにもいかない。この文言がありの入った経緯は何だったのか?是非知りたいと思う。

もし現在マッサージという文言が入っていなかったら?改めて入れるのは不可能だろう。
つまり今の理学療法士において、なんちゃって理学療法や、もみもみリハ!などと揶揄されている現状において、触れてはいけない禁断の?文言になってしまっているかのようです。人は都合の悪いものは避けて通ろうとするものであり、タブーとなってしまっています。
しかしながら、現実を直視しなければ何も解決しません。揉む!というイメージから彷彿とさせるものは、治療ではなくさすっている!ということでしょう。つまり温泉場にて寝転んで揉んでもらっているマッサージ。

しかしながら本来は揉むとマッサージは同義ではなく、マッサージは列記とした治療体系なのです。
法律の中にマッサージの具体的な手技や方法が入っていないがために、マッサージが按摩マッサージ指圧師の専門性であるとはうたっているものの、どのような手技であるかは特に決まっていないということなのです。そして、職業選択の自由という権利により、その職業上、触らざるをえないこともあり、それがマッサージらしき施術を提供することになる。按摩マッサージ指圧師でなくても、すでにその行為そのものが、あらゆる分野に広まってしまい、今更専門性として唱えて違法行為として訴えても取り締まりは不可能な状況といっていいでしょう。

マッサージはフランス発祥にて、立派な手技でありテクニックです。そこに揉むという行為がイコールマッサージと連想させる現状は日本独特だと思われる。

服の上から安易に簡単に揉める、この手軽さと気軽さ!そして誰もが寝転んで揉んでほしいと思うわけですが、それが医療保険を使って病院にてリハビリにてやることか?と言われると、役割が明らかに違うわけです。特に現代はリハビリの役割が、より早く在宅に帰す、それも自立的にコーディネートすることが必要なスキルとして、新たにプラスされているわけです。一昔前までは、良くすればい、結果を出せばいい、と言われ続け、その良くする、結果を出すは、機能特化だったわけです。

スポーツ現場にてトレーナー活動をするにあたってマッサージを必須となります。理学療法士としてはマッサージではない専門性にて提供するということにこだわりたいところですが、現実問題ニーズはかなり高い。マッサージイコールトレーナー活動となっているところも多々あるだろう。医師が選手のマッサージをするかと言われると、それは役割が違うとなる。しかしながら理学療法士がマッサージするぶんには、特に何も言われない。あるとすれば理学療法士自身のこだわりによるプライドだろう。

フィジオがマッサージをするとなると、これは専門性に感じる。つまりは理学療法士のマッサージは病院にて患者に対して、気持ちいいからと延々とやり続けていることによる違和感である。そのことが我々のやるべき本分からは外れているわけで、それはリハビリテーションではない。確かに法律ではマッサージなどの物理療法と定義されており、あくまでメインの前の準備という位置付けになる。

しかしながらスポーツ現場にては、それがメインストリーに出てくる。物理療法そのものが治療であり、疲労回復のコンディショニングであり、明日へのパフォーマンスのための重要な役割となるのです。いわゆる病院では物理療法の必然性はかなり低下しており、あくまでアクティビティありきとなっています。クリニックでは相変わらずワンベットにて、一単位の中で施術するというスタイルかと思いますが、病棟においてはほぼ新たなスタイルを確立していると言えます。

問題は病棟リハビリや訪問において、自由裁量に任されるがゆえに、何をやっているのか人の目が入らなくなっていることです。人間は誰かの眼や監査がなければどうしても気が緩んでしまうもので、自らに厳しく律するのは容易ではありません。
やはり同業者や同業店が並ぶ激戦区の方が、自ずと競争は激しくなり質やサービスも良くなるのは必然です。
その競争の原理が働かない状況にて独占的にやれれば、こんなに美味しい場面はないとなります。駅の構内の中の選択肢のない、そして買わざるを得ない売店の高いサンドイッチですね。

鍼灸師は実はマッサージ師とは別の国家資格であり、あはきの法律では鍼灸師はマッサージをすることは原則的にはよく思われないようです。
我々からするとマッサージは誰でもしているからこそ、安易に同等に見られたくないという、対象になりますが、鍼灸師や柔整の分野ではまた違ってくるのです。
柔整もマッサージを生業とする職業ではありません。よって揉みほぐしとかの看板にて格安マッサージ店を、営んでいて問題になっているようです。マッサージ師では格安マッサージ店を開こうという発想にはならないのです。
それが専門家としてのブライドでありこだわりなのです。この専門家としての矜持を忘れてしまっては、どこまでもグレーを追求していくことになります。
別にいいじゃないかと…誰に迷惑をかけているわけでもないだろうと。

たまに寄るある街で理学療法士の免許を堂々と表に貼って、いわゆる開業している整体院らしきところがあるのですが、昨日、目の前を通ると、貼っていた免許は撤去されていました。さすがにまずいと思ったのでしょう。使えるものはなんでも使おうと!その覚悟と意気込みと気合いは起業するにあたってはわからないではないですが、やはり教育なんでしょうね。個人の個人による解釈にて、開業のノウハウなどをいかにも良さげにそそのかす、勝手にエスカレートして、どんどん基準は甘くなります。やはり監査が効かなくなるのです。最高の法則とは、より客観的に感情に流されやすい脳の特徴を理解して、合理的に目的を達成させるための当たり前のことを当たり前にできるかどうかなのです。この当たり前のことを当たり前にできるかとうか!

失敗から学べることは、やらなければならない当たり前の法則やルール、不文律なのです。人は自らの感情や欲望には勝てません。そこに目的とすることにいかにシンプルに焦点を合わせられるか!にかかってきます。人はどこかで本当に必要なことや、やるべききこと、やらなければならないことから避けるよう無意識に脳が働きます。保守的や身の保身、既得権益、変わって損をすることが多々あるからです。パラダイムシフトは価値観の否定にもなるわけで、それはイコール自分のあり方さえも真正面から向き合わなければならなくなるのです。カメレオンのように、映し鏡かのように溶け込み変わっていくことは難しいものです。だからこそ失敗や追い込まれること!後ろ盾のない逃げ場のない状況にて、覚悟を決めることにより始めて何かを成し得るのです。スポーツ選手は日々勝負という環境にて、その決断を迫られ続けるのです。その気持ちや感情は日々の生活や仕事では得られない、純粋なる向上と分かりやすい結果と、完全なる自己の責任であったりと、人が本来持っている根源的な本質にアクセスできるのです。

理学療法士が、マッサージをしてもマッサージ師から特に何も言われないのは、法律のなかで明文化されているからです。この当たり前のマッサージという行為でさえも、当たり前ではなく与えられた権利なのです。あくまて医師の指示のもとという前提で、継続的ではなくある一場面の手段としてですから…誤解なきよう。その権利を専門家として、どのように使うべきかという視点が大切なのです。つまりは、マッサージの知識と技術をしっかりと勉強していないにもかかわらす、与えられた権利として揉むという行為を言われるがままにサービスとして提供する!このことの意義は?カリキュラムとしての手順を踏まずして、医療として提供することがてきてしまう明らかな欠陥!そのためには本当のマッサージとは何か?それも日本の中で、日本の文化の中で、日本の価値観の中で培われた、日本人のためのテクニックやサービス内容について教育する機会を増やすことが、結果的にマッサージの頻用、イコール質の議論に転嫁されているある意味悪循環を断ち切るターニングポイントになることでしょう。まとめますと、無知による知らないことによる、無邪気さと幼さがマッサージを問題とする風潮と、業界を巻き込む事態になっており、しかしながら収集がつかない、つける方法がない状況となっているのです。具体的な打開策がないままに、問題としてクローズアップされてしまい、しかしながら法律における名文化と、現実に使っている現状における明確な必然性の説明もできず…自分はあたかも関係がないように、とこかで取り繕っている、つまりは、その現実と自分をオーバーラップさせて考えないようにしていしまうのです。
いずれにせよマッサージという文言がなくなればいいという問題ではなく、もしなくなればスポーツ現場にて使うことができにくい状況になります。あはき法に触れることになるからです。マッサージは臨床の場にて日常的になっているはずが、スポーツ現場にてマッサージはできますか?と監督やコーチに問われた時に、はい!と言い切れないこの境遇!しかしながら出来ないとも言えないし、なりたくないというスタンスも正しくはない。やらなくてもいいという立場として理解してもらうためには、膨大な労力と時間が必要となります。やるべき専門性を浸透させることは大切ですが、スポーツの現場にて、マッサージのコンディショニングという大義名分が出てきた時に、そのための技術と使い方は習得しておかなければなりません。また、揉むことしかできないでマッサージとするのは、これは明らかに技術不足と知識不足の何者でもありません。徒手療法。治すための技術として理学療法士がこだわるのは良しとしても、実はかなりの按摩マッサージ指圧、を断片化した技術であったりします。トータルにて全身を網羅し、そして体調を整えるテクニックとして昇華させていきたいものです。ただ現在はマッサージの研修会はものすごい誤解とパッシング、懸念を受けるでしょう。時期が悪いと…ではもっと前にやれば始めていれば良かったのでは?たらればは、今更言っても仕方ありません。ではいつやるのか?今でしょー!と言い切れない、でも喫緊の課題であり、打開策のなさがさらなるドツボにはまってしまう悪循環なのです。
正しく知ること!そらによって始めて使い分けや使い方について論じるステージに立てるのです。
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