下目線の「極意」

上目線ーと言えば印象は良くありませんが、下目線!というのはあまり聞かないフレーズですよね。

認知症のアプローチにて、ユマニチュード(優しさを伝える技術)がテレビなどでも紹介され、日本においてもイブ・ジネストさんの講演会が開催されているようです。テレビにて拝見しただけですが、おおよそ専門家や医療従事者には見えない、慈善活動家?のような雰囲気を醸し出していました。
優しさを伝える技術というのは、私もよくわかりませんが、言葉の意味としてはよくわかります。なんてことはない、ともすれば安っぽい使われ方もしてしまう、耳障りのいい言葉です。

この優しさを伝える技術というのが、利用者さんばかりでなく人間関係やコミュニケーションの取り方にまで効果的であるとのことです。最早、認知症という病態に対しての治療法ではなく、人間の誰しも備わっている根源的なルーツだと言えます。患者中心のということだけでもないようで、ともすれば患者中心の、クライアント中心の、ステークホルダーに対してどうするか?これらの言葉も形骸化してしまっているのかもしれません。

言葉というのはその時代において、模範解答のような常套句があって、まるで面接の時のフォーマットかのようです。

これは誰もが自然に周りの雰囲気や環境によって、自然に習得していくものであって、近頃の若者はとか、草食系だ絶食系だと言っているのも、何も若者の本質が変わったわけではなく、時代の価値観をリードしている大人が無意識に強要しているものなのです。その圧力を子供はモロに受けて育つのです。

そして社会や大人の弱みを、敏感に察知し、子供なりに社会にて生きていく術を身につけていきます。

こうあるべきだと…大人の価値観の中で庇護のもとに育てたい、と願う親の気持ちはよくわかりますが、これだけの情報化社会にて育てている時代は初めてであり、一生懸命さが子供の呼吸を詰まらせてしまうことにもなります。咀嚼する時間と、トライしてエラーを経験する機会が少なく、そのエラーを親が大人がすぐにフォローしてしまいます。

人とは不安こそが最も最大の行動の源であり、また東京という大都会の中での競争意識は並大抵ではありません。周りが新しいこと、最新の情報やアイテムにて動いているその様に煽られていくのです。何もしなくても背中を押される、何かをしなくてはいけないように錯覚させられるのが東京です。
他方においても、既に情報格差はなく、さらに加熱している風でもあります。基準がすぐに情報として入るのと、田舎だとさらに格差がわかりやすいこともあり、出世や進学に対する価値観は東京の比ではありません。多様な生き方ができる東京とは違い、地方においては選択肢は限りなく狭く感じるからです。

さて優しさを伝える技術!とな何なのか?患者中心ともニュアンスが違うとするならば、お客様は神様ですのようなスタンスでもない。医療における心地よい空間は必要ですが、流行っている病院が必ずしもそうかと言われると、やはり治ることが大前提となる。お客様…というスタンスがいいのか?何を言われても平身低頭にて対応しなければならないサービス業は、果たして医療においても同じくあるべきなのか?

医療とは先生と呼ばれる職業であり、そこにはリスペクトが存在する。そのリスペクトが欠けると、意識は同等になり有り難みはかなり下がってしまう。
ようは有り難みの問題なのだ。

コンビニの店員さんは、先生ではなくまたレストランのウェイトレスさんなども先生ではない。待たされるとイライラしたり、そこにクレーマーの付け入る隙がある。マニュアル通りの無味乾燥な応対や接客は、果たしてホスピタリティー?なのかどうか?そこにプライドや誇りを感じるからこそ、その心意気に人は感応するのだろう。

病院勤務のスタンスは、あくまで病院といえ看板に来ているのであって、患者さんは偶然に回ってくることになる。つまりオーダーが出たからこそ、リハビリに回ってる。そこに期限や回数制限などがあり、最終的な判断は医師に任されている。寄りかかって自らの趣向にて見ることができてしまう。
しかしながら、若いセラピストにおいて、本当にその人の問題点を深く掘り下げてあらゆる可能性を探りながら主体的に取り組んでいる感心させられることも多い。ようは自分のスタンスが謎を解明するという、学者的なところがあり、連続性や一貫性、継続性に欠けているということなのだ。人間の身体の法則を解き明かすことに、長けている問うことなのでしょう。しかしながら臨床というのは継続性です。予習と復習とがあって、過程を把握した上での積み上げていくことに他なりません。法則やテクニカルの話題に長けている人たちがSNSや巷では表にでてくるわけですが、実のところ臨床は得意ではないのかもしれません。その場の変化を出すことは好きだということですね。このようにメカニズムを解き明かす人は確かに必用ですが、実際の臨床において貴重なのは責任感と当事者意識、そしてこの下目線なのです。

した目線というのは、へつらうとかおべっかを使うとかではありません。卑屈になることでもありません。媚びることでもないということです。患者中心というのは、確かに聞こえは良いですが実際に人間は本当の意味での客観性は持てません。つまり人の気持ちは本当のところわからないのです。確かに同じような境遇や経験をすることで共感はできますが、ではその経験が無ければどうなのでしょう?想像によって同じような生理的な体験ができるのでしょうか?やはりそれは無理だと言わざるを得ません。どんなにバーチャルな世界にて体験したとしても、それは肉体的な痛みを伴いません。よって実体験のなさは現実との境目がなくなってしまうことを意味するのです。
 人の命の重さは教育によってわかるのであって、生来もって生まれた感覚には個人差があるのかもしれません。凄惨な現場においては、時に感覚が麻痺してしまうということも言われていますので、人の慣れという適応能力の素晴らしさでもあり、ある意味なんでも慣れてしまうということの側面もあるのです。

 相手の立場に立ってというのは、そういった意味において社会経験が無ければなし得ないところがあります。つまりどんなにマニュアルを覚えていても、人生の体験や経験の深さは実体験の量に比例しますので、こればかりは現実の世界での長さに比例するところもあるでしょう。

一方で若いアスリートの目覚ましい活躍は、ベテランだからといって追いつけるものではない領域があることを示しています。特に現代は情報をスルーする力です。鈍感力というのでしょうか?どこまでも無頓着というのでしょうか?本来は目的をを達成するための、やるべきことというのは決まっていて、そこに集中することができれば往々にして達成できる確立が高まるのです。それがその過程において、あまりにも誘惑と情報が交錯することでぼやけてしまうのです。楽で心地の良いものに人は流されていきますので、普通に淡々とその道に邁進することができれば普通に達成されていくべきものなのでしょう。もちろんそこに多くの人たちが集まってくるわけですので、人間関係は感情のほつれなど、想定外のことが多々起きてきます。一喜一憂していたのでは、その流れに翻弄されてしまうわけで、そこに淡々としてスタンスが確立されてくるのかもしれません。

さてユマニチュードですが、介護職の人たちに話を聞くと、それは昔から介護現場にて行われてきた普通のことだと言います。人間関係ですのでそしてその対応ということですので、献身的にその人のことを思って接することと、さほど違いはないはずです。そこに敢て注目してフォーカスを当てるということの視点。そして自覚して強調することの視点。その視点があるかないかの差なのかもしれません。日常的に行っていることを、どのようなキャラクターにてどのように伝えると人に広まっていくのか?そこには多くの経験と失敗の果てに達した境地ではあると思います。しかしながら、聞いてみればそれは特別なことではないように聞こえます。それでも実際に自分と相手との関係について「優しさ」をキーワードに組み立てていくことのテクニカルではない精神性とは何なのか?
 日本の場合には個人という職人が臨機応変に人間味のある多様性をもって接することが常です。しかしながら、昨今の資本主義はどれだけ資本を回すかということと一体ですので、そうなると偏った見方をすることによって、それを強調することによって奥義を常に出しまくるという先方です。つまり必殺技を常に有効に使うために構成するということです。日本の場合においては、臨機応変に必殺技だけでなくバリエーションの多さを身につけようとします。その辺りが、ディズニーとジブリの違いなのかもしれません。単純だからこそ支持も評価もわかりやすい、悪くはないという評価を皆がするディズニー、つまりそこにディズニーランドがセットとしてグッズがセットになって、歌がセットになって、価値の効果を高めていきます。ジブリは複雑です。そのきめ細やかな設定と意味が、時に日本人の心のひだに触れるのですが、その解釈は人の数だけあります。つまり感じること、日本人が本来持っている自然への畏怖や敬意といった精神性に触れるのです。しかしながら昨今の子供達の教育や環境は、その日本人特有のというよりも、合理的でナショナリズムをみにつけて国際人になることを求められています。新たな日本人像のなかにジブリの精神が息づいていくのかどうか?アナとユキはヒットしたら、あっという間に続編ができています。大量生産といいますが、ジブリにはここまでの生産性はないです。大半は監督が苦悩して作り上げるという構図によってできあがるジブリは、替えが効かない1人の偉大な脳に依存しているのです。ところがジブリは最大公約数によって構成されているので、いつでも同じでクオリティーが変わらない。そこはデジタルの技術や市場のマーケティングによって、どんどん補っていきます。1人の監督ではなくて、ディズニーというそのもののブランディングになる作り方は歴史として引き継がれます。しかしながら、ジブリはジブリブランドというよりも監督ブランドになりつつあるので、その辺りの払拭が新たな課題です。宮崎駿監督もその周りの鈴木プロデューサーなどの重鎮も、既に年を取りすぎているのです。ある一部の人の拠り所は、結果的に時に気まぐれや好みにて左右されます。

つまりは、後継者はいないというのが現実です。ジブリとしての、スタッフが誰もが自由にアイデアを最大限に出せるフリーダムな環境への転換が必要です。確かディズニーは出社も退社もあらゆる垣根や規則からフリーのなかで、スーパースターはいなくても一人一人の能力が引き出されて積み重なるシステムにしているはずです。よって常にディズニーなのです。何百人もがどんどん上塗りしていくことで、個人でなし得ることができない普遍性を生むことが出来るのでしょう。よってジブリの初期の作品を懐かしむ声が多いのも頷けますが、既にそのような作品を作ることが、監督そのものが変化して変わっていくものなので無理なのです。

さて「下目線」その心ですが、知識というフィルターを通して相手をみると、それは既に「優しさを伝える」ということになりません。震災時にマニュアルで「頑張らなくていいですよ」と言うフレーズが汎用されましたが、いつの間にかマニュアルかしてオウム返しになってしまいます。
 そこに慣れとマンネリ化が入ってしまうと、既に心に響かなくなります。つまり下目線とは基本コミュニケーションそのものが態度や言動だけでなく、実際に物理的に下から覗き込むように対応すると相手は安心するということの常識がまずあります。それも本当かどうかは怪しいところですが、視線が上からでも姿勢が下からであれば十分相手に伝わりますし、態度そのものから醸し出される雰囲気がどうかということです。
 つまり真意は物理的には下からなのですが、意識は積極的に乗り出しているということです。よってより積極的に下目線にて臨むということになります。そうすることによって、相手の一字一句が表情がより鮮明に入ってくるようになります。自分や我や自己顕示欲というものが強いと、この領域には踏み込めない・・つまり腕も知識もあるはずなんだが、患者には伝わらない、支持されないという不思議な現状がおきます。つまり講師や賞賛される場では力を発揮するのですが、臨床という地道な現場においては以外に淡白な印象になってしまうということです。自分の理論や主張を一方的に説明したり、あくまで自分が主となってしまっているのです。これでは患者はつかないということになります。つまり、患者は自分の正しさや言いたいことを証明するための手段になってしまっているからです。

 私は一年のなかでバイオリズムが悪くなる時期があります。大概、12月~3月のなかの一月間なのですが、今回は間違いなく2月でした。まずはバイオリズムが下がる月は、何かを上手く回らなくなります。別に大きなアクシデントがあるとかではないのですが、動けば動くほどからわまりする感じがあります。何かうまくいかない。その現状を自覚できないことも多々あります。本当はそろそろくるぞということで、じっと動きを収めて慎重に行動することが得策ですが、ある意味積もり積もった膿を出しているようなところもあり、リセット期間なのかもしれません。振り返りの時期であり、軌道修正の時とも言えます。
今回は体調にがくっときました。原因は睡眠不足と不規則な食事、そして急激な運動など、心身のリズムがその日その日でやっとこさ繋いでいたことにあります。そういった意味において、毎日人前で喋っているアナウンサーはすごいですよね。喋ることそのものはかなりのエネルギーがいります。特に体調が悪いと相当のエネルギーを使うんだなと実感しました。気持ちが乗らないときもあるでしょうに。、アナウンサーだからといって全て自分の私見を捨てて、淡々と物事を伝えるだけに徹することはできないでしょう。三宅アナのようにももクロファンを公言したり、カープファンを自称したりすることが、自分らしさを保てる豊作だと感じます。
でなければ、内面の自分とのバランスがとれなくなってしまうからです。

 この体調は慢性的な疲労も重なっていたようです。慢性的なですからここ一週間といった単位ではなく一年とか数年の単位です。引き金は睡眠不足や急にジョギングを続けてやったなどのことですが、ジョギングも毎日20分朝に走ると決めて、ようやく脚も慣れてきたところでした。つまり走る調子は良かったのですが、免疫力が落ちてしまったようです。つまり睡眠不足だろうとなんだろうと、走るということの習慣化をしょうとしたろころはいいのですが、時にずっと運動らしい運動をご無沙汰していたので、そういった時は急に走ったりするとすぐに風邪っぽくなります。つまり相当に免疫系が廃用というか貯金がなくなっていて、毎日必至になんとかつないでいたところに、運動するもんだからびっくりしてしまったのです。運動というのは疲労を伴いますので、過負荷になると免疫力を下げてしまいます。まさにこの若さで?そのような状況にまで陥っていたということです。よって夜は高熱で目を疑うほどに上がります。なんとか必至になって寝て翌朝に37°の後半に落ちる。しかし後半ですからそれはそれなりにだるいですよね。食べれればいいのですが、これが全く食欲がない、そして喉が腫れていたようで、嚥下が妨げられる。3~4日ほどんとまともに食べれないと、普段なら一食抜いただけでもお腹がすいた~と力で出ない感じでしたが、熱があるとこんなに食べないでも昼間はなんとか仕事もできていて、それで動けることを考えると、食べなくてもいいところを食べないといけないと勝手に頭が思っていただけなのかもしれません。デトックスといいますがあっという間に3−4キロ体重が落ちてしまい、さすがにこれは体調の悪さなのか、栄養を摂っていないことによるだるさなのかわからなくなったきます。基本、私は1日2.5食ぐらいがベストのようです。
 確かにここで絶対外せない忙しいプロジェクトなどが入っていたら、おそらく慢性的な臓器不全にでもなっていくんだろうなとふと感じました。大袈裟ですがその淵を少し覗いたように感じました。そうすると本当に生命維持に必用なものだけが分かってきます。食べることも体力がいることがわかりますし、人の話、声やテレビなんかただの雑音でしかありません。音楽もいりません。自然の音で十分です。そして喋ることも億劫になります。食べ物は刺激物だらけだとわかります。病院食が味気ないのには意味があるのでしょう。本当に体力が落ちて回復して来るときに必用な生命活動は、実は「息吹」であることが実感できます。
 呼吸によって細胞が生き返ることがわかるのです。動悸がして呼吸が早いのは問題かと思いますが、人間いよいよというときに寝たきりでも大きく繰り返しの呼吸がみられることがあります。それは生命として必至に回復しようと勤めている生理現象なのだと思います。私も本当に回復の兆しの呼吸は、まさに奥底からわき出してくるような深くて大きな呼吸です。一呼吸一呼吸回復していくことがわかるのです。そして汗がでると熱は下がり傾向になってきます。まったくもって汗もでないときは、むしろ悪くなっている途上ということです。飲み物も少しでも刺激物が入っているとNGです。水が結局一番いいことがわかります。健康の源は呼吸であるということが実感できます。人は健康ということにおいてシンプルにできていて、そこにいつのまにか悪しき習慣が入り込んできて、勝手に崩れていくのでしょう。病気というのは時に本来のあるべき姿にバイオリズムに軌道修正してくれているのかもしれません。
 もう一つ学んだことは廃用です。食べることも含めて厳しいなと思っていても、少し無理して食べることで痛みが軽減してきます。もちろん回復期であるという途上でなくてはいけませんが、喉が痛くて食べれない、しかし体力は回復しつつあるなかで食というのもきっかけになります。食べれなくなったら終わりだと言いますが、食べれない状態ということは厳しいということです。逆に食べれば元気になるということもあるでしょう。
そこはあくまで治療として回復している過程で食が大きな役割を果たすということなのです。リハビリ栄養というのは、当然必用だということです。
またどんなに体調が、厳しいなと思っていても、気持ちでなんとかなることは多分にあるようです。錦織選手が全米の前には足の外科治療後であり、ほとんど練習できていない状況にもかかわらず、チャンコーチは既に足は治っていると!気持ちの出し入れを問いました。普通なら誰もが、ここで無理しないでも…となります。もちろん逆の目が出た可能性もありますが、事実にタラレバはありません。その気持ちのトリガー、無意識のディフェンスを取っ払ったのかもしれません。

 日々追いまくられると、人は一日単位にてバイオリズム周期がカウントしだします。一日千秋といった毎日が続くとそれはもたないということになります。野球のピッチャーが中4~5日あけてローテーションを回して、その間は調整するように心身の緊張状態を回復するのはそれは大変だということです。そしてシーズンを通して200イニング近くなげて、それを毎年ですから、オフは本当に大切なのです。できるだけ心身の回復に努めるということですね。オーバーホールが必用になってきます。そのオーバーホールとともに最近ではアスリートとして一年中ん身体を何らかの形で動かしてチューンナップさせることが必用となってきています。黒田選手が如何に凄いかは、長年の維持なのです。その精神性こそがすごいのです。よってその時の投げ方などの良いときの状態ではなく、継続したメンタリティとは何なのか?そこに神髄があるだと思います。

下目線とは共感でもなく俯瞰でもなく客観でもない、自分と相手のテレパシーのようなものなのかもしれません。以心伝心!!
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