プロセスの視覚化が時代を変える

理学療法士の価値はプロセスの説明にあり!




 結果が全てです!サッカーや野球などのスポーツにおいて、いくらいいプレーをしていても、結果的に負けてしまえば言い訳が出来ません。スポーツ選手においてよく聞かれるコメントです。このスポーツ業界の厳しさは、結果が全てということです。

一方で次につながらない結果ということもあります。ビギナーズラックもそうですが、これは論外としてもスポーツ選手のコメントで確かに結果的には良かったが、自分としては全く納得していないと・・・ゴルフの松山選手がよくこのような類いのコメントをしています。
 一見、これは謙遜のような自分に厳しい、現状に満足しないという解釈もできますが、実際には本当に不満なのです。つまりは自分としてはイメージと動きが合致していないのに、転がった先のボールはピンにからんでいるということもあるようです。確かにグリーンのちょっとした凹凸にてボールは転がっていきますので、結果オーライということもあるでしょうが、ラッキーの再現性はありません。おそらく、選手にとっては結果が良くても、まったくもってしっくりいっていない自分に不満足ということなのでしょう。つまり確信がもてないということは、自信も持てないということです。そしてその自分に対するプレー内容の不一致はやがてスコアメイクを崩していくことになります。つまり四日間通して安定したプレーをするには、どこかで結果オーライで助かることも織り込み済みで、尚且つ自分の一致してイメージがなければ修正ができないということなのでしょう。

 ではプロセスが何故に理学療法士にとって大切なのか?またはプロセスの説明が何故重要なのか?のを述べていきます。つまりは、何をしていようと外から見ると、モミモミマッサージに見えてしまうということだそうです。
 徒手療法であろうとも、トリガーポイントであろうとも、筋膜リリースであろうとも、ストレッチであろうとも、おもむろに触って何か素人ではわからない手作業にてごにょごにょしていたら、間違いなくマッサージらしきもの、もしくは整体らしきものと映るのです。おもむろに手足をえっちらおっちら動かすROMエクササイズでも同じことでしょう。そこに楽になりました、良くなりました、軽くなりました・・という言葉としての報酬が脳に入ってくると陶酔してしまいます。痛みがとれるということも、我々にとってものすごい報酬でしょう。患者さんを寝かして体動の少ないリハビリをしていても同じように見えるでしょう。ましてやセラピストがつぶれた座位姿勢にて理学療法を実施していたら、それこそ悪い姿勢にて黙って、何かこちょこちょと動かしているというふうに映るのは否めません。

例えばカイロプラクティックの場合、専用のメカニカルな昇降ベッドにて、まるで歯科の診療を彷彿とさせるような環境にて施術をする。ベッド一つにて手一つで施術できるというのは、ある意味聞こえはいいが、見栄えがしないのだろう。
特にリハビリの場合には、雑多とした環境にて多くの患者が同一空間にて同時進行する。クリニックにおいても同様だ。
では一人一人が個室の空間であればいいのかと言われると、それは敷地面積などの関係で費用対効果が見込めない。つまりは独立開業を前提としたコンセプトという、スタートから発想が違うのだろう。理学療法士は理学療法を実施するということのみに視点があるため、そこにクライアント目線が欠けているのだろう。良くすることが最大のサービスだと…確かに良くならなければ論外だが、それ以上に必要な社会の仕組みなどの教育が必要となってくる。

目の前の患者さんを良くしている!と思っている人は多いだろう。現に感謝もされ、賞賛もされていると…それは私も例外ではない…しかしながら私の場合は『それは偶然でしかない』としか思えないもう一人の自分がいる。どんなに良くなりましたと言われても、賞賛を受けてもだ。患者さんを良くする!という本来の目的は皆同じだろう。それがいつの間にか、自分が主体となる思考にすり替わってくる。つまりは、あくまで自分というものを売り出す手段となってしまうということだ。そくなってくると、地道にコツコツなんていうメンタリティーとは程遠くなる。常に他人と比較し、勝っていることを自己確認し続けなければいけなくなる。過大評価と、誇大広告を打ちたくなる気持ちはよく分かる。何か一つネタが見つかると、吟味しないであたかも自分が発祥かのように誇張する。そうすると背伸びが背伸びを産み、さらなる背伸びをせざるを得なくなる。背伸びをしていると、同じように背伸びをしている輩が気になってくる。キャラが被るからだ。芸能人においても、よくキャラが被ると自分の居場所がなくなるという不安はあるだろう。番組とキャストのワクは決まっているわけで、自ずと弾かれる人が出てくる。スポーツにおけるレギュラーと同じことだ。

人は自分のポジションが奪われることへの不安と恐怖を潜在的に持っており、無意識に排除したくなる衝動にかられる。自らの地位を侵してくる外敵以外の何者でもないからだ。自分の存在価値、存在意義に関わる問題であり、それは生きている意味と、産まれてきた意味にもつながってくる。本能的に危機を感じ、攻撃するか、逃げるか、別の道を模索するか、共存するか…。過去の強烈な記憶や体験により、その後の行動パターンは人により大きく変わるだろう。

どこかでそれを認めてときに一歩下がることも必要な時期もあるであろうし、自らの信じる譲れない矜持に抵触するならば、それはどんな障壁が待っていても貫き通すしかない。本田圭佑タイプですね。きっと外野の人達で、本田圭佑選手が何らかの失敗をして凋落していく様を今か今かと手ぐすね引いて待っていることでしょう。ネット上にて叩きたくて仕方がないのです。強烈な思考にて、押し付けられる圧迫感を感じると、自分のやっていることや、歩みが否定されているように感じるからだ。しかも自分のできない言動にて、実際に結果と評価を受けているとなると尚更だ。個性とはエゴイストとも表裏一体であり、日本の文化には馴染まない土壌が存在する。しかしながら、サッカーでは個の重要性がしきりに言われている。個とは言動として確信であったりするわけで、言い切ることに尽きる。日本語にて言い切るというのは、英語や他の言語と同じようにはいかないのではないだろうか?言語学のことは素人ですので、あくまで推測ですが。
この言い切るタイプは、理学療法士にもちらほらといるわけですが、さらに業界の特性上目立つことになる。元々は医師の指示のもとにという前提にて成り立っている職業であり、そこに主義主張は自ずと抑制される。言い切ることにより、心理的に優越感に浸れるのだが、あちこちに増えると自らの存在価値が薄れてくる。つまりは実績も業績も社会的な評価も地位も、役割も、肩書きも伴っていないところに、SNSと講習会の講師ということによって作られたハリボテにすぎないからだ。ベニヤ板で作られた見かけは、容易に穴が空きやすい。自己啓発セミナーに若い時に行ったことがあるが、確かにすごい高揚感が得られる。アドベンチャーといった感じでしょうか。気持ちは大切ですよね。確かに。セルフプロデュースというのでしょうか。理学療法士そのものが一足飛びに社会的地位を向上させることは難しいとなると、日常の行動変容を促すしかない…となる。まともに学院を取得したり、研究成果をあげてといった当たり前のキャリアアップは、至極まともであり多くの人達が通っている道でもある。自ずと先人も多く、比較検討されると容易に上位に行くことは至難の技となる。高校時代に東大に行くほどに成績をあげろと言われても不可能に思えるようなものだ。もちろん臨床においては、また受験勉強の詰め込みとは違うのだ!と言ってしまうこともできるが、そう言い切れるものでもなく、社会的にできるできないという物差しは基本的には変わらない。その努力の方向が義務的なものか、自らのやりたいことに没頭するかという違いはあるだろう。

そこに真の実力と実績と評価と立場が伴うような、キャリアデザインが必要となってくる。もちろんキャリアとは、明日は何が起こるかわからない世の中…思った通りに行くわけがない。

働きだしてから勉強をしだした!実は私はこのパターン。不真面目でもないですが、決して勉強ができたタイプではない。今思えばどうしてあんなに要領が悪かったのか?いまも基本それは変わらない。期限ギリギリでないと始めないあたりはちっとも変わっていない。
おそらく学生時代は勉強する意義がわからない。しかし働きだしたら、そこは自分が主体となる。実習も授業も自分が好き好んで選んだわけではない。ということで、自分がその人の運命を左右するかもしれないと感じた時に、スイッチが入ったことを今でもよく覚えている。
その時の患者さんのこともよく覚えている。ちなみに1年目に担当した患者のことが一番記憶に残っているのは何故だろう?そのあとはどんどん惰性になっているから覚えていないのか?
変にペース配分と要領を覚えて、いつの間にか自分に甘くなっているのでは?確かに1年目は集中して見すぎて、午前中にてエネルギーか切れてました。それぐらい集中していたのでしよう。しかしながら、それでは身体が持たないということで、ペース配分を覚えます。ピッチャーでも最初から飛ばしても持たないので、締めるところは締める!ギアを上げるということはむしろ進化だろう。
しかしながら臨床においては、どうだろう!ペース配分はいいとしても、気持ちの面でもセーブしていくのかもしれない。若いセラピスト^_^見ていると、本当に丁寧にしっかり見ているな!と感心することがある。つまり一生懸命という姿勢だ。それは知識や経験を凌駕することがある。
俺は腕がある!と自称は大概はクリニックのPTだろう。外来は痛みなど即効性にて良くなると最大級の賛辞が得られる環境だ。ところが回復期や一般病棟、介護現場ではそうはいかない。所詮は外来の対象者にて腕自慢しているだけであって、リハビリにおける理学療法とはもっと多様なスキルと視点が必要なのだ、先ずは病棟に送迎しなければいけない。これがどれだけ労力とエネルギーと気を使うか!を、経験することになる。単位を取らなければならないことによるスケジューリング!つまりゴッドハンドなんて視点だけでは、病棟は務まらないのだ。徒手療法もどこにそれほど活用する場があるのか?と思ってしまうほどにアクティビティーが主体とならなけらばならない。活動と参加という視点から、ボトムダウンしていくなかで、テクニックなんてのはその一部でしかない。よってそのテクニックがメインとなるような環境にいることで、セラピストは自己満足に浸ることができる。つまりこれほど自らが特別感を感じれる場所はないのだ!上手さだけではサッカーにおいて代表にも呼ばれない、ということになります。


触っただけでも、簡単なストレッチを指導しただけでも重みのある価値を見出すにはどうしたらいいか?それは民間療法的なゴッドハンドといった価値観ではない。個人のカリスマではなく、職業としての成熟と社会的な立場地位により決まるのだ。

そのための思考を続けようしゃありませんか!みなさん!
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