第29回臨床理学療法研究会 報告

「ロコモティブシンドロームのメカニズムと運動連鎖」~姿勢制御とストラテジーからのアプローチ~

12月13日 土曜日~12月14日 日曜日 
二日間の日程にて開催していただきました。


12/13土曜日
①ロコモティブシンドロームのメカニズムと運動連鎖の基礎(講義)
運動連鎖からみなロコモティブシンドロームのメカニズムについて解説します。
②姿勢制御の基礎⑴
~矢状面~(実技)
矢状面からみた姿勢制御の見方を徹底演習します。
③姿勢制御の基礎⑵
~前額面~(実技)
前状面からみた姿勢制御の見方を徹底演習します。


12/14日曜日
⑤姿勢制御の基礎⑶
~代償運動の見方~
姿勢制御の代償運動に着目して、姿勢制御の見方をさらに深めます。

⑥姿勢制御の臨床応用⑴
~重心のコントロール~
重心のコントロールという観点から、具体的なアプローチ方法について学びます。

⑦姿勢制御の臨床応用⑵
~身体軸へのアプローチ~
身体軸のコントロールという観点から、具体的なアプローチ方法について学びます。

⑧姿勢制御からみた運動連鎖アプローチ~質疑応答~
参加者との臨床における疑問など質疑応答を通して、運動連鎖アプローチからみた姿勢制御の考え方を整理し、明日からの臨床に活かしていきます。

元を辿れば17年前、同じく滋賀医療技術専門学校にて福井 勉先生の助手?としてお供させていただいたことにあります。その当時は経験年数7~8年、まだ私も講師活動などは全くやっていない時ですので、福井 勉先生にとってもかなり懐の深い選択であったと思われます。私のために、小一時間ぐらいはとっていただいたように記憶しています。きっと勢いだけで自己満足に話していたのでしょうね(笑)。

その時に臨床理学療法研究会の代表をされています、山崎敦先生に初めてお会いしました。私よりも理学療法士としては先輩になりますので、ここまで継続されていることに感服です。またその理念や情熱が全く変わっておらず、若い後輩達に引き継がれていることが分かります。
浜松でもとある勉強会に呼んでいただいた時に、既に還暦を迎えようとされている先生が若手の運営を見守っている様を見て、脈々と引き継がれている遺伝子を感じます。
伝統的な世襲がいいのか、新しくイノベーションがいいのか?各々がそれぞれの役割を果たしているということでしょう。
年功序列、終身雇用、の後に来た波が、能力主義、人事考課、ベンチャー、無駄を省く効率化です。J&Jなどの企業が病院のコンサルに入り、バッサバッサと経費を削減していきました。

ところがご存知の通り、日本の文化にはそぐわないところがあり、またベンチャーも育ちにくいシステムが日本の伝統にはあったようで、最近では公務員の安定が人気となっています。ベンチャー真っ盛りの時は、公務員というのはむしろ保守的な代表かのように敬遠されていたにも関わらずです。

リハビリ業界も一時期独立開業という夢にうなされましたが、最近はより社会に通じる起業を目指すようになってきました。集金システムとしての研修会事業による、自己顕示欲を満たすための野心セミナーから、社会に役立つ企業としての理念です。

運動連鎖アプローチ協会においても、より社会に役立てる組織としての脱皮が求められてきます。

研修会を開催する団体としての老舗は、もともとは事業ではなく研鑽のための場としての提供であったはずです。研修会事業となると、集客システムや名簿管理、得られるメリットやライセンス、認定や開催権利などがチラついてきます。

理念だけでは現実的に予算が足りなくなれば、あっという間に事業は頓挫してしまいます。経営や運営手腕というものがなければ、その理念も伝わりませんし説得力がありません。

よってコンビニでは、成功読本や心理学による人心掌握術などのマニュアルがわんさかと出ています。

そのテクニカルは、あくまで効率的な統計であり確率です。臨床がエビデンスや統計に全て依存しても、結果的に個々の事例においてはケースバイケースなように、返って患者にとっての満足度には繋がらないこともあります。

しかしながら、医学となると学問ですので何が真理かを探求しなければなりません。内科や外科の専門書があんなに分厚くて何巻もあるのは、まさに人類の積み重ねそのものであり、それが一個人の思い込みが読本に詰まってしまっては教科書として普遍的な知識を与えることはできないのです。

我々が提供する運動連鎖アプローチは科学かと言われれば、あくまで経験値です。しかしながら、アートで牽引するという気概と、その本来あるべきメリットと課題と、その立ち位置を把握して意識しておくことが大切なのです。そして、アートもサイエンスも理念と哲学により結びついていることが不可欠なのです。

リハビリ業界においては理念と哲学が欠けていることは、カイロプラクティックやオステオパシー、東洋医学の世界を見ることで自覚していましたので、先ずは理念と哲学を掲げて強調することを、運動連鎖アプローチにおいては進めています。

原理原則セミナーなどを開催してきたのは、何が正しくて何を、目指すべきことなのかが、分からなくなってしまう理学療法士が、たくさんいるからです。
つまり、各種方法論を学んでも、その、どれもが素晴らしい治療体系であるにも関わらず、理学療法士としてのアイデンティティーの構築にはならないというジレンマが生じてくるのです。

理学療法士としての専門性とは何か?理学療法の専門とは何か?20代の、大半をその思いの中でスポーツ現場やあらゆる業界を渡り歩く中で行き着いたのが、運動連鎖だったのです。ちょうど経験10年目を過ぎたあたりですね。

テクニカルの応酬では、真の目指すべき理学療法士にはなれない。各々の治療法がお互いを牽制しあっている、つばぜり合いをしている現状は患者不在と言わざるを得ません。つまり理学療法士の、役割とは何か?という問いに対して、楽になる方法とか、直ぐに身につく方法とか、明日から使えるという発想は、誰にとってのメリットなのか?ということです。研修会を受ける側のメリットは、患者にとってのメリットにつながっているのか?セミナーを受ける人に対して、一時的に受ける方法を提供するだけに終わっていないか?その場のセミナー講師の自己満足にのみ陥っていないか?簡単に手に入るものは身につきません。
テクニカルセミナーの末路は、しばらくすると全ての患者さんに適応しない、効かなくなる、患者さんに対して目新しさがなくなる。治療やグッズもブームがあるように、本来ならば効くものは延々と残っていくはずものが、ポピュリズムに陥ったものは一時的であり、やがて廃れていきます。そこに考え方や臨床思考過程、臨床推論が伴わなければ、方法論だけでは恒久的に残っていくことはないのです。

これからは何千もあるセミナーの中で、本当に理学療法士としての進むべき道を示してくれるものだけが残っていく時代に突入します。

講師陣を並べて、集客のできる人を呼んで開催することも一つの手ですが、何千もセミナーがあるのですから、自ずと講師は足りなくなり、必然的に誰でも話せる状況になってきます。一度講師の旨みを知ってしまうと、生徒になることができなくなるのです。若い段階で既に生徒になれないのであれば、それは成長は止まったと同じです。医師の学会や研修会に院長レベルがわんさかと来ている現状と比べ、果たしてこんなにも若い講師が話せる業界が、どこにあるでしょうか?

各々の業界の事情があるのですから、仕方ありませんが、そういった現状にあることを自覚しなければ、若くして勘違いしてしまいます。俺は偉いんだと…私はこの年齢ですが、一度もその自覚はありません。上に立っているという自覚のなさが、それがまた今になっては問題なのですが、メリットも多々あったことでしょう。いつでも、どこでも、下に下がれる勇気と誰からも学べる姿勢です。これは勇気ですね。何度も意図的に自分をそのように戒めたことがあります。


例えば初めての病院勤務は、経験があるからといって特別扱いはありません。返って邪魔になります。一から学び取る姿勢がなければ、経験は形骸化になります。
東北の被災地活動もスボーツ現場もそうですが、自らの価値観を押し付けては邪魔になるだけです。
被災地での、仮設住宅などは毎回初めてになりますので、そのことが毎回試されます。
私は研修会に参加するときは、本当に生徒になってますので、全くもって素であになっています。自分がという表現が文章に多くなるのは、これも自己顕示何ですけどね。最初はそのつもりがなくても、書いているうちに口に出しているうちにその気になってしまう脳の怖さがあります。

結局は全ては既存のアンチテーゼから始まり、そして支持をえるのですが、いざ、政権を担ってみるとガタガタだったという事例もありますので、それは他人事ではなく実は自分にも身近に起こっていることかもしれない…当事者意識を持つことです。世間で起きていることは、決して特別なことではなく、結局は人の心理や思考が起こしていることなのです。それは、全ては我々の延長線上にあることなのです。

私も運動連鎖アプローチ研究会を立ち上げた時は、
①何故同じ人ばかりが延々と話しているんだ?→それではその人の考え方や指示があるまで待っているだけで、その関係性は延々と変わらないじゃないか?→人材発掘と人材育成!
つまり、名だたる人でなくても臨床で素晴らしい人はたくさんいることも知っていましたので、そういった人を発掘して世の中に出すべきだろう!また育成するべきだろう!
ところが、臨床で素晴らしい取り組みをしている人は謙虚だったのです。よっていくら担ぎ上げようとしても「いやいや自分なんか、まだまだで・・・」という返答が帰ってきました。研究論文などの学術的な結果を有していないと、とても人前では喋れないという時代でしたので、確かに確固たるデーターを有していないということは経験論にて語るだけの立場になってしまいます。
それでも、若手や後輩で信念を感じれる軸を感じる人は積極的に登用して、人前でプレゼンをしてもらいました。
またコラボレーションを企画することで、相乗効果として素晴らしい先生方がさらに力を発揮するという場を提供することに心がけました。
つまり、素晴らしい著名な先生方は人前で喋ることこそあれ、お互いがお互いの話を聞くことがないのです。これはもったいないことです。どんどんコラボして化学反応が起きれば、さらに多くの人たちが恩恵を受けれることでしょう。つまり、同じ内容やテーマであったとしても、テンションが上がるような場面を設定しなければ力を引き出せないのです。生意気かもしれませんが、いくつになっても学び刺激を受けることこそが、大切であることは感覚的に分かっていましたので、常に進化し続けてほしいという思いがありました。
よって、世間ではなかなかできないコラボレーションを企画したこともありました。

このようにコラボレーションをしたり、登用するということは、どういうことかというと、自分自身が叩き上げにて育つタイプでしたので、その間に多くの先生方から学ぶことが必要だったのです。よって自分が決して優秀だとかできるとか考えたことも無く、ひたすらにリスペクトという気持ちだったのです。人の良いところを視ることが出来る視点を、学生時代も含めて決して出来た方ではなかったが故に自然に身につけることになったのかもしれません。

また自分は型にはめられと途端に思考がフリーズしてしまうタイプなので、出来るだけ干渉しないというスタンスにて受講生を視てきました。つまり、育てようとして育つことは無く、「育ってきたものに栄養を水を与えること、つまり機会とチャンスの場を与えることこそが育つことにつながる」のです。

私が一番重要視してきたのは、具体的な試験の点数のような出来る出来ないではなく、ポジティブなエネルギーです。つまちネガティブなエネルギーに対しては一切、振り向かないということです。そこにつき合うこと、本当に無駄なエネルギーを吸い取られるだけで、全く持って+になりません。じっとまってポジティブなエネルギーがでてきたときに、感じられたときに声をかけてチャンスの場を提供するのです。そこには献身性と謙虚さが必ず同居します。自分に意識が向いて、自分本位や自分中心の自分の殻に閉じこもっているときには完全スルーです。

何度もいますが、エネルギーの無駄だからです。

サッカーでいうところのエゴイスティックですね。
ディシプリンとコレクティブでなければ組織は成り立ちません。
ドイツサッカーが結果的にはそのことを証明したことになります。

ポジティブなエネルギーとは何か?
それは直視すると粗が必ず見えてしまうので、半眼でみるということです。
いちいち細かいところまで視ていたら、悪いところばかりが眼に入ってきます。
大雑把にみること、それはしかしながら寛容ということでもあり、自分自身にも甘いということでもありまます。
自分自信の生き方にも厳しく、そして尚且つ他人に優しくできるのが理想でしょうが、そんな賢人にはとてもなれません。

運動連鎖アプローチにて、あらゆるコンセプトを導入して取り入れることができたのは、「先ずは受け入れよう」「ソシャクしよう」というスタンスがあったからです。これは田舎者でよく世間のことがわからず、視るもの視るものが珍しくてキラキラしていましので、受け入れないことはもったいないという気持ちがあったのでしょうね。ようは、田舎者だったからです。よって「全てを疑ってかかれ」という理学療法の根底にあるスタンスは、私には受け入れ難かったということがあります。先輩からは「全てを疑え」と指導されてましたが、内心は「いやいや・・」と思っていたものです。

おそらくカイロプラクティックやオステオパシーや歯医者、ボディワークの分野などなど、多くの分野に足を踏み入れてどこでも馴染んでいられるのが私の得意とすることなのかもしれません。適応adaptation!よく理学療法士の社会性ということが取りざたされますが、どこにいってもそれなりに適応できるように思います。
しかしながら、なんでも受け入れる、なんでも許すということは、ある意味優柔不断と表裏一体であり、時に強いリーダーシップを発揮していないということも言えます。つまり流れに任せるということを常としていますので、これはこれで仕方がないというような達観しているところもあります。運命の儚さというか、本当に一寸先は闇というように人生は思うわけで、そこに力んでも無理に押し通しても仕方がないという気持ちはあります。しかしながら、潮目が変わるものでそろそろ強烈な個性を本来の負けん気を、勝負にこだわる熱さを前面に出すときが来たのかもしれません。

私の持ち味は「伸び代」です。

まだ出していないアイテムが沢山あるのです。そもそも全力をほとんど出したことが無いという欠点があります。
放浪者のように流されながら、しかしながら理念と挟持は「理学療法」崩れたことがありません。枝葉は揺れていて良いのです。幹も削れてもいいのです。芯が通っていればやがてそこから真っすぐに伸びてくるのですから!
やなぎのようなしなやかさでありながら、しっかりと根は張ってある。なびきそうでとどまっている・・・そんな感じでしょうか。

アンチテーゼということですが、当時、3年ぐらい経験を有したら何か一つ専門性を見つけて研鑽するということ・・を推奨されていました。私は例えば膝とか股関節とか何か局所的な専門性を持つこともいいのかもしれませんが、臨床では関節や疾患などは様々であり、そこに一つの局所の専門家としてというのはどうなんだろう?という疑問がありました。全ての部位の全ての疾患の、人間にまつわる全てのことが全て知りたい・・そしてどの分野においてもどの部位であっても、1人のセラピストがマルチに視れるということを目指しました。

 当時から局所をみれるのは当たり前・・・その基礎知識をもって全体をみるということ・・

そのように教えられていましたので、いかにその道が長いか険しいかがわかります。
昨今の評価がおざなりになり、方法論だけが横行することに警報をならさなければいけない現状において、治療方法だけが特筆されるのは、既に医療ではないということです。整体なら良いです。開業であればいいかもしれませんが、それでも現在、理学療法において開業権ができれば、みな整体師になってしまうでしょう。おそらく権利を得たとしても、理学療法士としての理念と哲学を継承されないばかりが、経営論と集客論のみが横行するでしょう。現状の治療方法のみを求める提供する状況において、開業権なんてのはないほうがいいのです。かえって理学療法の価値を落とすばかりです。

開業権を与えるならば、免許の更新性にすべきです。一度とったら認定を受けたら、半永久的にということそのものが専門家としてあり得ないのです。

まとめますと運動連鎖アプローチ®とは
「リハビリテーションの理念を体現化する専門家としての理学療法士」
⑴ある特定の人のみが講師をする現状において、その人が考え方を先導しない限りは周りも進歩しない、依存体質になってしまうことから脱却する。
⑵無名であっても臨床的に素晴らしいセラピストがあり、人材発掘と育成。
⑶1人のセラピストが全てにおいて高いレベルで何でも視れる専門家となること。
⑷ハウトゥーではなく、あくまで理念と哲学を柱とする。

若者には寛容に映るかもしれませんが、言うべきところは言う!厳しさと羅針盤でなければ意味がありません。甘いと寛容は違うのです。妥協しない寛容さです。培ってきたものと積み上げたものに対する想いは誰にも負けないでしょう!
ただし、肩の力は脱力です。そこに受け入れる器ができます。本気でついてくる気がなければスルーです。その根底があるならば寛容に対処するでしょう。意外に簡単に登用もしますが、理念に外れるようなら徹底的に厳しく当たるでしょう。何故ならば理学療法士の未来を担っていく気概があるからです。個人のなんたるかで動くようなら、理学療法の未来と可能性との比較にもなりません。当然、理念を優先し頑なに押し通します。
何でも好きなことをやらしてもらえるという次元とはレベルが違います。思いつきで言っても、私の矜持を動かすことはないでしょう!言葉が軽すぎるからです。思考が浅すぎるからです。考えてきた深みが違うからです。表面的な取り繕った言葉には芯が感じられないので、一切気持ちは動きません。

 臨床推論と臨床思考過程こそが理学療法の専門性である!

「理念と哲学と挟持」
同類の表現ですが、滋賀にて開催したいただいた研修会では、その変わらない理念を山崎先生から、臨床理学療法研究会から再確認させていただきました。それは先輩理学療法士である山崎敦先生の想いが浸透しています。一貫した理学療法とは何か!ということを若手に投げかけ続けてくれています。

温故知新とイノベーション
伝統と創造
局所と全体
・・・
いつの時代でも対立軸が存在し、振り子のように振れては戻りを繰り返しています。
時代の対比として疑問と非難を繰り出しても、所詮はつまらないコメントしなできないテレビの評論家と変わりません。オーディエンスつまり聴衆は視ている側ですのでいくらでも何でも言えます。振り子の反対側を唱え、政権をとったとしても末路は悲惨だったように、真のステージに立ったときにどうなるか?という想像力が必要なのです。つまり王道があるからこそ、批判や反論が輝いて支持されるということを忘れてはなりません。自分だけでは光り輝けないということを認識していること、そして真の輝きに至るには、とことん創始者の理念を理解し、その上で情熱と愛情をもって発展させる気概が必要です。教育として育ててもそれは洗脳であり、想像の枠外を出ることはありません。ユニクロの柳内さんが結局戻ってきたように、TOYOTAが宗家に社長を戻したように、組織やスステムが揃っていたとしても、育てられない理念の根底があるのです。
スポンサーサイト

コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0