「意思」の臨床応用

「意思」と運動連鎖アプローチ

運動連鎖アプローチはその名の通り、運動の連鎖ですので、どちらかというと運動器というイメージになります。運動連鎖アプローチ®を学びにくる皆さんも、クリニック勤務の方などが比較的多いことを考えると、あくまでバイオメカニクスなどの運動学や運動力学に基づいたものを期待されます。

しかしながら、当然入院患者をみているセラピストも多いわけで、老健や訪問、そして病棟に寝たきりの患者さまを見ていらっしゃるセラピストも少なくありません。運動連鎖アプローチ®への期待として、脳卒中患者さんに対してどうするか?といったテーマを持って学びにくる方も多いのです。

私は完全にスポーツ畑の出身といっていい理学療法士です。整形と中枢といった分け方をするならば、明らかに整形分野が得意なわけです。しかしながら、元来理学療法は中枢神経疾患をベースに発展してきた経緯があります。脳卒中をみれるということが、理学療法士のベース基礎となっているようにも思います。

最近は細分化され、理学療法士が必ずしも脳卒中をしっかりと極めた上で、というルートを辿っているわけではありません。

運動連鎖道場では運動器をイメージした原理原則を伝えていますが、そのなかで力説しているのが身体感覚です。この身体感覚というのは身体イメージともいいますが、この脳内イメージは中枢疾患であっても運動器であっても共通の原理原則なのです。今までは中枢専門の人は整形がみれない、整形中心のひとは脳卒中がみれないというような区分けがありました。スポーツを見る人は高齢者や脳卒中には興味ない、というような意思がはっきりとあったように思います。

しかしながら、病態はそれぞれ違うものの、人に通っている機能や原理原則には共通のものがあります。そのチャンネルの合わし方で、全く違った局になるので、テレビといってもNHKと民放、そしてCSなどではかなり相違がでてしまいます。

私自身は認知運動療法として大学院にて心理系の分野に少し籍をおいていたので、どうやってこの認知やbehaviorという分野を自らの理学療法に融合させるかがテーマでした。認知運動療法を勉強してもよくわからない、そしてわからないので実践している病院に非常勤にて行くことでようやくその全貌が分かってきました。分かったと言ってもどれも早くても半年、猶に1年や2年はかかることもあります。

そして極めつけは大学院にて理学部の身体運動科学を専攻することで、さらに結びついていったことを覚えています。では中枢神経疾患ではない運動器疾患にて、どのあたりで身体イメージがダイレクトに治療に結びついてくるのか?

認知運動療法はあくまで、運動学的なアプローチではなく、身体表象に対してのアプローチであるがゆえに問いに対する回答といったロジックをとります。コミュニケージョンをとりにくい疾患や患者においては、それ相応の工夫が必要となってきます。つまり言語表出ではない感情や「意思」を読み取っていくということです。そうすると、それは既に反応リアクションを感じる観察するというカテゴリーになり、結果的に各種のあらゆるファシリテーションテクニックに相通じるところがでてきます。この刺激−反応をファシリテーションテクニックでは、動きの統合といった視点にてみます。ところが認知運動療法では、それは意思の表出としての解釈にならなければいけないはずです。

おなじ反応やリアクションをみても、その解釈が違えば効果は違うのか?といった疑問もでてきます。単にその解釈は治療者側の問題であって、患者側にとってみればどうでもいいことでは?ということです。

治療という観点からいうと、あくまで主体は治療者であり、患者はその反応を媒介する効果器ということになります。実は一昔前の理学療法士の認識がこうだったのです。つまり意識や認知といった考え方が、リハビリにおいては存在しなかったからです。

麻痺を治療するという価値観から、活動と参加を促していくICFという理念。
国際障害分類(ICIDH)から国際生活機能分類(ICF)へ、障害のネガティブな階層性から、障害の分類を人間の生活機能というポジティブな視点に立っています。ICIDHが1980年、ICFが2001年、つまり約20年の間隔があるのですが、治療主体の考え方はまさに20年以上前の視点ということになります。だから悪いというわけではなく、医学とはまさにICIDHそのものの大元への挑戦だからです。ところが人は生活する上では年をとるわけで、アンチエイジングといっても若いまま年をとれるわけではありません。どうあがいても、機能障害は完全に除去できないわけです。リハビリとなると機能にこだわる視点から、環境因子も加えて生活機能分類の考え方が否応なく必要となってくるのです。
この最初のファーストステップを踏まなければ、地域包括ケアにはアップデートできないのです。このとまどいと足踏みが、理学療法にあると言っても良いでしょう。このあたりはむしろ作業療法士や看護のほうが、または医師のほうが適応できているかもしれません。医師に習い目指した理学療法士は、そうやすやすと当初のこだわりを捨てきれるわけがないのです。

つまり理学療法士の質とは、まさに治療の質が根幹であり、その根幹の上に包括的な視点を身につけることが不可欠なのです。よって新人からいきなり地域包括ケアの専門家になるための教育といったものがあるわけではなく、現在は混在してしまっていると言えます。

そして社会保障制度改革によって、自助・互助・共助・公助といった地域包括ケアを構成する要素が示されると、それは既に治療といった視点の枠ではとても補いきれない、まさに社会制度そのものを根幹から見直していく視点なのです。ここまでこられると、治療にこだわる職人気質の理学療法士はとても付いてこれません。治療だけでも一生かかるかもしれない探求への道なのに、毎年のように制度改革が行われ、社会保障制度の変化によって医療やリハビリにおいて大きなパラダイムシフトを求められてしまうからです。ここまで役割の幅が間延びしてしまうと、理学療法士の専門性とは何か?という論議は、益々混迷を来たしてしまう可能性があります。

現在、国民の医療費を大きく押し上げている「ロコモティブシンドローム」「認知症」「うつ病」「生活習慣病」を、いかに治療・予防するか?といった視点が、地域包括ケアといった観点からは必要となってきます。病院のなかでは理学療法でよかったものが、介護保険においては福祉の発想を求められ、そして地域包括ケアの推進リーダーとなるべき資質を考えたときには、自助互助共助公助となって途端に、それは認知症やうつ病をも視野に入れた理学療法を模索しなければいけなくなりました。既に理学療法ではなくリハビリテーションという理念に則る、基本に原理原則に帰るということです。

リハビリテーションではなく理学療法だ!という論調もありますが、その発想が既に呪縛を与えてしまいます。リハビリテーションというのは理念であって、分野ではないのです。確かに言語は意味をもって記号となってきますので、彷彿とさせるイメージはあります。理学療法や作業療法の開業セミナーというと、既に胡散臭いイメージが付いてしまったのは典型例です。そしてすぐ身に付く、すぐ良くなる、簡単に良くなる・・これもそのまやかしにヘキヘキしてしまいます。

現在、介護の分野でも生活リハビリといって、入所者に対するよりよりサービスと生活の質を得るための必須ツールとなっています。ホスピテリティとも相容れる部分ですが、ホスピタリティが一般社会全般を対象となるものに対して、リハビリは高齢化社会における全ての回復、基線に戻すための考え方なのです。基線も絶対値ではなく、その人なりの基線ですので、まさにオンリー1ということになります。リハビリ関連職種と言えば、別にPOSだけを指すものはなくなっていますが、だからこそのリハビリ関連職種のリーダーシップをとっていけばいいのです。それが、理学療法士が理学療法の専門家であり、尚且つリハビリテーションという理念を体言するためのリーダーであるべきなのです。ただしリハビリテーション医は医師ですので、また別ですので誤解のないよう。実戦部隊としてのセラピストに求められる資質ということです。

このような壮大な?社会的背景をもって、理学療法を考えると、もはや運動器や脳血管といったセラピストの意識の中での区分けは、既に無意味であることがわかります。脳と運動器、脳と四肢体幹、脳と運動、似たような表現は沢山ありますが、治療という発想だけでは永遠に解決しない問題が既に目の前に、社会に横たわっている状況において、見て見ぬ振りをしていても仕方ありません。若い人は仕方ありません。これは若いからで大いに機能に特化したスキルを磨くべきでしょう。しかしながら次の世代といいますが10年も越えてくれば、そろそろ社会といった視点が、理念といった視点が必要となってきます。どこに向かうかは、理念にであって、テクニックや方法ではないからです。

さて意思と運動連鎖アプローチの、いよいよ核心に迫っていきます。運動器に対して、身体イメージや身体表象といった融合は既に私の中では出来ています。実際に道場においても、力説しています。単なる説明のために用いるのではなく、実際の臨床においてのテクニカルなところまで落とし込んでいることが大切です。自分のやっていることの正当性を説明するために、最新の論部を引用するといったことではありません。それでは、別に自分は何も変わらなくてもいいといっているのと同じです。いくつかその論拠を列挙していきます。

・ 他動的なROMにおける円滑性そのものが既に身体イメージの表象である
・ マッスルコンディショニングの原理原則(筋緊張について既に何度か記事にしています)
・ そして獲得した新しい可動域や可動性・空間における新たな運動体験の必要性
・ 違和感と痛みにおける表象のメカニズム
・ 使えない、使っていない部位と身体運動における運動イメージの欠如
・ ニュートラルにおける脳内の一致と、外観からみた正常における、脳内表象の不一致
・ 一過性の刺激やアプローチが元に戻ってしまうメカニズム


 などなど、他にもいくつかあると思いますが、思いつくまでに上げてみました。

ではコミュニケーションとりにくい、重篤な脳血管疾患や小児、認知症においてはどうなのか?今後の運動連鎖アプローチ®の新たな展開はここへの融合になります。

そのキーワードが「意思」なのです。神経難病や小児まひの患者さんは既に、運動器としての運動連鎖だけでは不十分なのです。つまり不随意な動きが表出される状態において、その統合はもはやロジカルな式では解けないのです。つまり運動はあくまで効果器としての反応ですので、その上位機構の評価が必要なのです。その上位機構というのが前頭葉における意思ということになります。動きとは何かの意図があるわけで、モチベーションにもつながります。その意思が脳血管疾患の場合においては、整形やスポーツ選手よりもラグがあるのです。正常な状態では、その意思がどうという前に、既に運動連鎖としての反応が触診できます。しかしながら、寝たきりや認知症の患者さんは、距骨と膝の運動連鎖が整ったとして、その比重はいかがでしょうか?それは運動そのものの効果として、認知症にも効果がみられるといった現象論にすぎず、個別の認知症に対してではないのです。その運動はラジオ体操でもいいことになってきます。

そうすると、楽しく盛り上げられる運動指導員の方々や、レクレーションに長けた介護スタッフの方のほうが得意でしょう。つまり「認知症に対する理学療法」ではなく、「認知症に対する理学療法の役割」とは何か?といった視点こそが突破口となるでしょう。「身体の使い方」のプロフェッショナルとして普遍的にアプローチできるということ、それにつきます。それは改めて認知症の改善を目指すべくプロということではなく、あくまで専門性をもって認知症への理解を深めて理解していくということです。実際の現場においては作業療法士や介護士さんに、お任せした方がむしろ患者さんにとっては良いことでしょう。

では、結局のところ意思はどこで判断するか、それは視線や表情です。その視線や表情と体性感覚をリンクさせるのです。間合いと、声かけと介助のタイミング、そこに意思のタイミングを同期させます。

実はある一定以上レベルのスポーツ選手における、コンディショニングにおいても特殊な反応があります。あまりにも感受性と反応が即時的におきるので、運動連鎖が触診のレベルを越えていることがあるからです。治療であれば明らかな機能障害があれば、それは運動連鎖アプローチにて対処できます。コンディショニングにおいて、スポーツマッサージなどの場面に遭遇したときにどうするか?といった視点です。
実は体性感覚の触覚よりも圧覚のほうが、スポーツ選手における運動連鎖を判断しやすいということがわかってきました。それはまたの機会に・・・

 運動連鎖アプローチ®とは、自由度と多様性、そして普遍性と原理原則を磨いてきつつ進化を繰り返しているのです。そこにはadaptation適応と変化への順応、そして吸収と脱皮、パラダイムシフトがキーワードとなります。
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