新ランニングボディーワーク⑴

ランニングはボディーワークである!



 11月8日土曜日 札幌の教育文化会館にて毎年恒例となっているボディーワークフェスティバルに参加してきました。
 一日に合計6セッション、各々のインストラクターの先生方が60分枠でレクチャーしていきます。

私は午前午後の合計2セッション担当させていただきました。

テーマは「ランニングのためのボディーワーク」趣旨は以下の通りです。
昨今のマラソンブームもあり、ボディワークを走るために活かしたいと思っているクライアントも多くなっている。インストラクターとして、アドバイスを求められることも以前よりも増えており、ランニングの知識と特性を理解しておくことことがいまや必須となっています。ランニングは重心を効率良く前方に運ぶためのボディワークであり、推進力をいかに高めるかが鍵となってきます。つまり、ランニングは、床半力を加速度や慣性に転換するためのボディワークなのです。今回、ボディワーカーのためのランニングの基礎と実践を通して、スタジオレッスンの中にどのようなレシピを入れていけるかをレクチャーします。

実は各種ボディーワークを体験していくなかで、インストラクターの方々のランニングフォームが必ずしも協調的な動きをしていないことを目にします。本来は身体機能の原理原則を突き詰めているであろうボディーワークが、歩行やランニングといった人間の基本的動作能力が獲得できていないのです。

確かに競技特性があって、身体能力が高ければその競技に特化した能力が秀でるわけではないことは確かですが、走るという基本動作のフォームが良くないというのはどういうことなのか?

より実践的な身体フィジカルといえば、滑らかな奇麗な動きをする身体よりも自衛隊のような屈強な身体と精神ではないかと思われます。身体能力というカテゴリーから言えば、まさにより生きるためのフィジカルは自衛隊にかなわないのではないでしょう?

究極のボディーワークはやはり自衛隊体操 ブートキャンプか?

では何故にボディワーカーの走るフォームが、自然に獲得できないのでしょうか?

また、ボディーワーカーがフィジカルに問題が無いわけではなく、怪我や機能障害を抱えていることが珍しくないのです。

競技スポーツは競技ですので、怪我がつきものです。ボディーワークは健康のために存在しているというイメージです。つまりスポーツのパフォーマンスを上げるためにボディーワークを取り入れるという関係性を考えても、より身体機能の原理原則を担っているはずです。

しかしながら、動けるという点では活動性が高いですが、あちこちに問題を抱えているということを考えると、果たして上手く用いれば+になりますが、必ずしもそうではないケースも存在するということです。

ボディーワークが手段ではなく目的化してしまうと、いわゆるスポーツ種目の一つになってしまうのではないでしょうか。
競技の一つとしてボディーワークがあるとしたら、機能障害が発生するというロジックが成立します。

またボディーワークもあらゆる考え方やコンセプトがあるように、必ずしも万人に共通したものではないということです。
ある特性と特質があって、その特性にあった人はいいですが、そうではないこともあるということです。

ということは、ある一つのコンセプトや哲学、理念にて構築されている身体運動そのものが偏っているということになります。

ある意味、人間が善かれと思って思いついたり、検証して積み重ねられたフォーマットは、核心をついているところは多々ありますが、それでも全てが正解であったり、全てが網羅されているわけではありません。

やはり何かしら改善の余地があるのです。その改善の余地というものが、今であり自分であってもいいのです。

特にボディーワークは経験則に基づいた体系であり、創始者は深い造詣とともにイマジネーションにも長けています。しかし、その時々にて気持ちに変化がでたり、新しい気づきや発想もどんどん変わってきます。結果的にアップデートされているということも言えるのですが、その創始者の思いつきや突然の発想や試行錯誤も反映しています。何を隠そう運動連鎖アプローチもそうなのですが・・・

ボディワークは身体における造形が深く、身体感覚に優れた創始者によって形作られています。
ここに治療者としての理学療法士の観点が結びつくことに寄って、違った角度からの体系ができるのです。

走ることはボディワークである
走ることの難しさは、誰もが走った経験があるからこそ、特別視されないところにあります。誰でもできることは見逃されがちなのです。確かに走ることは多くの動物も獲得している能力であり、補食や逃げるという点からも生きていく上で、生存競争していくなかで必須となります。成長発達においても、誰に教わることでもなく、立って歩いて走れるようになります。そこに遅いや速いはありますが、走るという身体運動を獲得するのです。一つはっきりしていることは、歩けなければ走れないということです。

歩けるようになるのは1才ぐらい、走るのは目安としては2才になります。また一足一段での階段昇降も登るところから始まり、降りるのはその後になります。後天的に学べるものは当然難易度が高いということになります。確かにスポーツなどの特別のルールのもとに、習得しなければならないスキルと違って、走るというのは基本的動作能力ということになります。
 一生懸命走る練習をした覚えは無いでしょう。だからこそ、走るということそのもののスキルがフォームという観点にて論じられることはあっても、ボディワークとしての視点にて再考されることはありませんでした。

動作分析の欠点と課題は、キネマティックに分析されてしまうということです。つまり、見えるその姿を直そうとしてしまうのです。下がっているから上げよう・・というような見たままの修正です。空間的に四節の位置関係を、まるでプラモデルのように操作しようとする思考です。しかしながらその一連の動作の一場面を切って、どうこう論じられても、その瞬間の修正を簡単にできるものではありません。

連続した動きのなかでの結果ですので、あるポイントだけを上げる下げるという論理は当事者にとってもイメージできないものなのです。自分の身体感覚のなかで、思い当たる節が無ければ修正できないのです。外から言われても実感できないものは習得できないのです。空間上のキネマティックな補正というのは、単に四節の位置関係を直すだけで、キネティックや加速度といった観点が抜けてしまうのです。

いわゆる力を見ることはできないからです。動作分析を力学的な観点からみる方法も、外から観察しているという点では実は同じことで、やはり結果として修正の過程をみるなかで改善している指標いはできても、その力学的なフォースをコントロールすることは至難のわざとなります。

例えば床反力をコントロールするといったことができるでしょうか?床反力を小さくする走りをしたところで、パフォーマンスが上がるということの目標を達成することになりません。

つまり評価分析するというのは、現象をある観点から論じているだけで、それは評論家の視点なのです。評論家が現場にたって何か役に立っているのを見たことが無いので、時として非難に晒されるのです。

難しい言葉で説明しても、
「それで具体的にどうしたらいいの?」
「この部分がこの筋肉が使えるようになったら良くなるよ!」
「どうやったら使えるようになるの?その方法は?」
「ここを意識して・・・」

ということが選手としては当然の疑問になるのです。説明はわかったとしても、その後にどのようにトレーニングすればいいのかということが???であり、そしてその対処方法が示されたとしても、視覚的な動作分析の観点からの説明では、身体感覚に訴えることができないため、やはり疑問は拭い去れないのです。具体的に良くなる方法を知りたい・・・その当たり前の要求に真の答えを出せるかどうか!!

そこに専門家としての奢りはなかったか?

医療従事者ということで上から目線になっていなかったか?

他にも競合する専門家がいないことをいいことに、胡座をかいていなかったか?

このような反省のもとに、改めていままでの理学療法に何が足りなかったかを再考しなければなりません。

札幌に来て多くの若者と接することで、本当に多くの理学療法士がスポーツ選手への貢献を真剣に考えていることが改めてわかります。

実は地域包括ケアという国の命運を握る時代の潮流とともに、スポーツ理学療法への若者への欲求は、過去にはないほどの高まりをみせているのです。

本当に全国あちこちで、多くの若者がスポーツ現場に積極的に関わっています。昔から関わっていた理学療法士がいないわけではありませんでしたが、ここまで自主的に積極的に関わっているのは、やはりスポーツに対する、若者の興味とモチベーションだと思われます。

地域への貢献、地域包括に関わる理学療法士は、明らかにキャリアと経験がものを言います。流石に地域ケア会議となると、新人では務まりません。かなりの見識と社会的なつながりと、人間力が必要とされます。知識、技術、協調性、プレゼンテーション能力、献身性、存在感、包容力、感謝の気持ち、これらのスキルは別に理学療法士だから得られるわけではなく、トータルな人間力となります。

これはキャリアと年齢が、ある程度不可欠なのです。しかしながら、必ずしもキャリアがあれば良しとはなりません。そこが選定において、難しさが伴うところです。

スポーツ現場での活動の素晴らしさは、自主的に活動しているということです。ある程度の職場の理解と協力も必要ですが、率先的に動くことにおいて、義務でもなく、使命が課せられているわけでもなく、スポーツ現場においては、上からの干渉もそれほどないでしょう。責任と行動と交渉と、かつて部活において社会を学んだように、逆に若者だからこそ出来る社会との接点なのです。体力と意欲と時間がなければやれないのが、スポーツ現場での活動です。

かえって経験年数のある役席レベルは、関われないのが実情です。若者は積極的に現場に立つことで、社会を知り、それが後々地域への貢献に繋がって来るのです。その経験がある程度の年齢になって、地域貢献活動に転換する時が来るのです。
病院にて純粋培養にて育った理学療法士が、果たして未来を担う地域を担う人材になり得るだろうか?我々の想定の範囲内ではなく、範囲外にて活躍している若者こそが、未来を担う人材として育っているのではないでしょうか。
フォーマットとしての育成システムは、カリキュラムであってOJTが伴いません。OJTもこちらが用意したのでは、お膳立てしたのでは効果半減です。
自らが開拓することです。そこに真の意味でのキャリアが、身につくのです。
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