部分と全体

ボトムアップかボトムダウンか?


カイロプラクティック徒手医学会にて、部分と全体性について思うところがありました。理学療法において部分と全体性というと、

①局所は医師の診断部位のイメージ

②全体はフィジカルな視点からの体幹や足部などの、どこの部位からアプローチするか?

③または、ボディワークや頭蓋仙骨などの方法論による観点か?

④筋連結や筋膜、皮膚、経絡などのレイヤーからの視点か?

⑤西洋医学や東洋医学、情動や気エネルギーなどの根本的な出発点の相違か?

⑥健康増進や栄養、睡眠、サプリメント、リカバリーやコンディショニングなどの健康という視点か。

⑥ICIDHやICFなどの健康や障害、生活分類、などの理念や視点の違いか

⑦それに伴い、身体機能、在宅、環境、地域、コミュニティなどの社会の中の人間という、人が生きるための機能としての根っこにある部分、活力の源とは?と問うたときに、原点回帰したのが地域包括という見方になる。これは超高齢化社会、2025年問題が迫る中で自ずと帰らざるを得なかった原点となります。


これほどまでに部分と全体性という論点は、バリエーションがあるわけで、そしてそれぞれに良さがあり、しかしながら網羅できない部分もあり、そのどの分類にも向き不向きがあり、専門家がいて…。またその関わる人の向き不向きもあるのです。また、その人の価値観に自然に合致していることが多いのです。つまりは、その何がいいとか、悪いとか、という前に自分の死生観や価値観に合致しているかどうかで決まっていることもあるのです。他国の文化に直ぐには馴染めないのは何故か?と考えると、育った環境や教育が違うわけで、その多様な文化や価値観はしばしば紛争の種になります。

つまりは私自身が運動連鎖アプローチを提唱しているのも、向かないものをやっているわけではなくて、私自身の価値観な合致しているからかれこれ15年間も続けていられるのです。つまり、誰もまだ運動連鎖という視点や、全ての身体部位が診れて、尚且つ全体性である動きや、あらゆる治療方法にも精通し、人の健康に関わる全ての視点についても観れることを一年目から某表としたのです。

⑧医療人として治療という視点に立っての狭義の全体性といえば、総合診療医のような存在になります。その代表が地域医療ということになるのかもしれません。

⑨理学療法で言えば、運動器も脳血管も、内科も、呼吸循環も、小児も、スポーツも全て見渡せるというこなとになります。
つまりは足から見るとか、体幹から見るとかというのは、順序の問題であって運動器という観点は変わりません。

⑩筋連結や経絡、筋膜、皮膚といった観点もレイヤーの違いであって、身体の恒常性を保つためのシステムなのです。よって病態に対する見方ではありません。楽になるという価値観が最上級であり、民間療法や代替療法のカテゴリーになるのです。

そしてその治療理念は…

治れば何だっていい

良くなれば何だっていい

楽になれば何だっていい

軽くなれば何だっていい


…と基準がドンドン甘くなっていくのです。そして疾患や病理に対してではなく、不定愁訴という病院では扱わない領域にスポットを当てるしことで、それがあたかも最上級であるかのように、触れこむしかなくなるのです。

そして、本来、病院の中では専門とするべき領域外のところを、言葉巧みに強調することで、ものすごく斬新で素晴らしいものに思わせたり、それが腕一本にて生きていける手段だと!論点を差し替えることで、楽になる(なでなで療法)と同列のところまで貶めているのです。

さらに、誰でも簡単にこのマニュアル通りに習えばできるようになる!とセラピスト側の心理を巧みについています。

これも仕方が無いことです。周りに理学療法とはどうあるべきか!どのような治療をすればいあのか?という具体性を示してくれる環境や機会がなければ、触れ込みに靡く(なびく)のは必然ですから…

部分と全体性において客観性とは何なのか?そしてエビデンスはどのような位置づけになるべきなのか?


さて、話が変わりますが、臨床思考過程においてクリニカルリーズニングは、あらゆるリスクを排除し自らの思考を整理するためには大切です。
カルテや評価用紙を記載しながら臨床に臨むと、明らかに自分の思い込みや情動に流されないで、客観的な思考と理路整然とした治療計画を立てられることが分かるからです。おそらく書きながら臨床をするのと、『どうですか?』と場当たり的にやるのでは、臨床の質は明らかに違ってくると思われます。

経過を把握しないで臨床をするのは、必ず手詰まりになります。一見さんのように、その時限りのデモンストレーションやスポットにてアドバイスする時には、本当によく観えますよね^ - ^

つまり難しいのは長期にわたりフォローしなければいけないケースにおいて、計画的に段階的にそしてストーリーとして繋がっていて、積み上げていくことなのです。一つ一つの言葉を覚えていて、その時の愁訴や自主トレ内容、身体の反応などです。

クライアントとの関係に私情が入ると、臨床が鈍ることがあります。身内を診るとなんだか上手くいかないのは、お互いの緊張感や馴れ合い、そして治ろうとする、治そうとする、準備状態のスイッチの入り方に左右されるからです。

よって赤の他人の方が、自分もやりやすい。または、人から頼まれたり、紹介の患者さんの方が必然性が高まることもあります。セカンドオピニオンの大切さは、いつの間にか陥っている自分本位の思考過程の払拭にあります。他人の声を聞かなくなると、残念ながらどんな素晴らしい臨床家においても成長は止まってしまいます。常に自分が、第一人者なので、最早誰も進言はしないし、誰にも言わせない、そして誰の話も聞かない、唯我独尊という格言そのものなのです。

アウトプットし続けることの落とし穴
私は元来、既存のアンチテーゼとして、運動連鎖アプローチ研究会を立ち上げた経緯があります。それは偉い先生があ話をするのは、若いセラピストの人達であり、そして何も質問もできない関係性が既にあります。そして、懇親会においても、執行部が囲んで持ちげ隊!になって『素晴らしかったです、ありがとうございました』もちろん主催者側としては、お呼びした手前、接待は当たり前なのかもしれませんが、受講生の声が届くことはありません。つまり、講師として呼ばれて、一方的に話をして、賞賛の声だけが耳に入ってきて、いや耳に入れないように周りがして、結果的に大勢の人達の前で話してはいるものの、コンタクトする人達はごく僅かで、尚且つ真意は伝えられないまま終わってしまうのです。

これを年間を通して延々と続けているのですから、その偉い講師には本当の情報が入らないまま年月が過ぎてしまうのです。成長にはいくつになっても人の声に耳を傾ける姿勢が必要であり、初心に帰れる場所と機会が必要です。

時に学び舎に立ち寄ったり、恩師にお会いして当時を振り返るのはあるべき原点と、学ぶ姿勢と志を思い返し忘れないようにするためです。


主観的な思い込みを人はコントロールできない
人は何かにぶつかったり、挫折した時に、ふらっと故郷に帰ったり、親や恩師、地元の友達に会って見直す機会を作ります。自分ではわからなくなってしまっている、何が問題だったのか?何が良くなかったのか?調子のいい時には、全くわからない、見る必要がない、そしていつの間にか本来の気持ちや進むべき方向が逸れていることを、改めて周りから教えてもらう必要があるのです。

そのためには聞く耳と、耳を傾ける心理状態である必要があります。鼻が高く天狗になると、いつか上手くいかなくなるよ…と社会を見て自分は人に対しては評論できても、まさか自分がその当事者になっているとは夢にも思わないのです。

スポーツ選手も怪我をしたり、不調の時には声を聞ける絶好の機会になるのです。当事者同士ではわからない、だからこそ外からの意見と視点が必要なのです。

今はクールジャパンとして、観光立国を目指してあらゆる施策を国は打っています。今や日本の中だけでは、経済は回っていかない時代であり、理学療法においても然りです。
石川県の小松空港からのフライト中に機内のモニターにて、フランス人がお茶をフレーバーとして、新たに文化や伝統に新たな変化を加えていくことを盛んに訴えて革新をもたらしていることを伝えていました。その情熱と研究心、そしてその情熱に裏打ちされた積極的な発言!おそらく日本人であると遠慮とこだわりにより、周りも進言しないし、また聞く耳を持たないでしょう。そのフランス人が言うには、日本のお茶は毎年気象条件が違う中での収穫のはずなのに、品質が変わらないという驚くべき技術であると言うのです。そして文化をまもるという意識が強すぎると…言われてみればそうですが、我々としてはそれは当たり前では?と思ってしまいます。列に並ぶ文化もそうですよね。この、当たり前は海外から指摘されなければわからなかった、気がつかなかったことです。そう言われたとしても、その価値はよくわかりませんし、そのことをどのように海外に対して日本のイメージとして伝えていくか?つなげていくか?という発想は、本当にその価値を分かる外国人でなければわからない可能性があるのです。

残念ながら海外在住の海外にて活躍しているセラピストの多くは、海外にて学んでいることの優位性をもってお話しされるので、日本の良さを発揮して発信してくれているのかいささか疑問です。

いつまでもインプットばかりでは、日本の国は必死になって取り組んでいても、世界の潮流に理学療法は遅れてしまうのです。

部分と全体ですが、医師と理学療法士が今現在同じ場所にて議論するときっと噛み合わないでしょう。医師はあくまで局所の病理に対してを基本として、全体やQOLでさえも医学として確立しようとします。西洋医学がなぜゆえに進歩したかと言うと、その愚直なまでに積みげていく普遍性ですね。ところが代替療法は台頭する新治療として、出ては消えてを繰り返します。東洋医学は脈々と受け継がれ残った唯一無二の治療方法です。その東洋医学でさえも、科学のメスが入り、医師が関わっていなければ、今の時代生き残っていけないのです。

結局は世間で全く証明されていない、認知されていないものをマイノリティからメジャーにしていくには学術なくしてはあり得ないのです。

その基本が記録であり、経過であり、治療方法ではなく治療計画なのです。どんなに全体性をもってアプローチしても、取り除かなければいけないものは消えません。軟骨が再生しなくても、運動連鎖アプローチにて活動性と生活の質は改善できても、それでも手術しなければいけない症例は山ほどあるわけです。もし全ての患者が診察を経ないで、リハビリに来てしまったらどうしますか?それでも一つの方法論だけで全てを診れます!と言えるでしょうか?家族や患者本人は納得しますか?自分ならどうしますか?自分が患者なら自分に見てもらいたいと思いますか?

動きや楽になる方法なんて、百万とあるわけで、起点を決めておかなければ議論にもならないし、医学として積み上がっていかないのです。これか良くなるならば何をやってもいいという成れの果てが、節操なく自分たちだけて完結する民間療法に完全にシフトしてしまっている思考が問題なのです。
しかしながら、良くなるならば何をやってもいい!という流れは今に始まったことではなく、実は以前から脈々と受け継がれてきたのです。
つめりは、総合的に臨床や人の身体を見るという文化のない理学療法の世界において、何をやってもいいという枠組みがあるわけではないからです。
評価と分析ができなければ治療はできない…これはその通りです。つまり良くならないのは評価と分析に問題があるから!というのもありでしょう。しかしながら、ではハウトゥは?と問われた時に、急に何を使ってもいい!という常套句が問題だったのです。
そこにエビデンスというガイドラインを示しはしたものの、それは一般常識としての教養であり、どのように良くするか?という方法ではないのです。エビデンスは何をした方がいい!というスタンスです。一方、治療のテクニックなどは、いかに良くするか!というスタンスです。


この業界は未来が無いから、自分の腕だけで食べていけるようにしよう!という謳い文句の裏に隠された真意は読み取れてますか?

誰もが簡単にできて自信がつく・・・・そんな医療がありますか?

診察や看護において簡単にできるようになりますよ・・・誰でも直に・・・ありえませんよね。

このように客観的に物事をみるトレーニングが必要なのです。

部分と全体となると、医療は一対一の関係において特異的な部位に対してアプローチすることで、ある特定の反応を引き出そうとすることが部分となります。患部とは病理が進んだ状態であり、またその一部位のために全体が影響を受けていることも珍しくありません。

運動連鎖アプローチにおいても、部分が全体に波及することは多々あります。ただしです、本当に一カ所のアプローチで全体が変わることは実はないのです。直に戻るからです。どこにアプローチしても動きや愁訴の改善がみられますが、長続きしないということは刺激に対して身体が反応するという一過性のものだからです。

その一過性の頻度と回数を増やしてあげることで好転させていくという方法もあります。

もしその部分が全体に波及する部位として評価がしっかりできたならば、それは本当の意味での治療効果の持続へと波及します。

どのような方法であっても、持続的な治癒という結果が得られることがあります。不思議なことに治ると、その治療方法の概念にあった身体に変化しているのです。そう・・・治療にて身体が戻ったのでだけでなく、治療や施術者の好みの身体に変化するのです。お互いが歩み寄ってこその治癒なのでしょう。
よって一方的にこちらが提供する治療にて良くなるのは、本当に患部の病理を取り除くようなケースです。しかしながら、それであっても後療法も含めて、同意と納得が必要です。


エビデンスの活用の仕方ですが、統計学的な視点ですので、あくまで確率の問題であり、これで必ず良くなる方法を示しているわけではありません。手術でも必ずリスクを全て話して同意書をとります。あの同意書の説明を見ると、とても受けたいとは思えません。しかしながら良くなる治療方法の確率として同意するのです。
統計学的な視点も例えばレントゲン所見が、治ったとしましょう。しかしながらそのままでは、生活に支障があることは少なくありません。機能ではなく質の部分ですね。リスクを回避するためのガイドラインとしてエビデンスはあるわけで、良くなるための秘伝ではないのです。必要最低限、悪くならないことが医療の原則です。良くしないまでも悪くしない…そこからスタートして如何に良くできる確率を上げるか!なのです。
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