治療効果持続と地域包括ケア

自由度と汎用性と地域包括ケア




前記事にて距骨について述べましたが、さらに自由度と汎用性について展開して行きます。そして一見関係なさそうな、地域包括ケアとの関連性を展開させていきます。

理学療法をしていると感覚入力により変化がおきて楽になるというのは通常ですが、そこがMAXではないということに気がつきます。楽になったということの積み重ねが治るかというと、必ずしもそうではなく、ビルドアップが必要になります。つまりは、生活習慣であったりセルフマネージメントが出来ない限り、治るというステージには上がってこないのです。例えば肝臓を悪くしたとして、投薬はもちろんですが飲酒を控えるなどの改善が不可欠です。理学療法においてもその場で良くなったということが、定常となることはごく稀です。例えば急性腰痛で整体にて昔は治ったけれど、今回はどうしても良くならないのでリハビリに来た。といった声を聞きます。仕事にて忙しい身では、直ぐにでも改善することが不可欠ですので、用途としては必要です。しかし、その後の再発や治りにくくなった身体にはリハビリが必要となって来ます。何事も必要に迫られて病院などに来るわけですので、それは各々の役割を果たせばいいのです。よって何がいい悪いといつまでも声だかに叫んでも、それは自分がみた患者さんが全て満足度100%であれは文句はありませんが、大半はそうではありません。よって自らの正当性や世間におけるアンチテーゼを唱えてみたとしても、いつかはブーメランのように自らに矛先が向いて来ます。その時に過去のことを振り返るならまだしも、大半はスルーします。

自由度と汎用性とはICFの理念で言えば、活動と参加になります。

理念だからではなく、実際に楽になるという感覚には幾重にも階層性があることが分かります。つまり距骨へのアプローチにて歩きの改善が見られ、推進力がつくことで前額面のモーメントは減少します。結果的に、前額面の問題である内反膝の悪化を防ぐことにつながります。

しかしながら長野での研修会では、その後も数々のアプローチを組み合わせ、折り重ねていきました。その度に評価にて問題が抽出され、効果的な変化の気づきがあります。そのどれもが良くなったということに変わりはないのですが、質が違うのです。つまり距骨の場合、評価とアプローチの地震を立てるときに姿勢制御からの評価を入れます。そして他動的に距骨を操作して、その後の変化を見ます。もちろん改善は見られます。しかしながら、そこに自由度と汎用性をもたせるために、バリエーションを加えます。このバリエーションこそが自由度なのです。選択肢といってもいいでしょう。例えば臥位にてアプローチするのと荷重位にてアプローチするのでは、全く別のカテゴリーになって来ます。

距骨にてアプローチにて何らかのポジティブな効果が得られたとしても、別の部位にフォーカスを与えてもまた変化していきます。面白いことに別の部位にフォーカスを当てて評価すると、やはり何らの問題が抽出されるのです。つまり、一部位の問題を抽出してアプローチしたとして改善が見られても、他の部位に視点を移すとドンドン皮を向くように問題点が抽出できるのです。

このことからも何か一つの観点からみて即時的に良くなったとしても、それは一つの反応に過ぎないわけです。変化は完璧な改善ではない。変化は治癒ではない。ということが言えます。単に喫緊の刺激に対して即時的に反応するというだけで、根本的な病理や構造が変わったわけではないのです。

このような観点は臨床にて経験を積むと、必ず気がついてきます。学習や効果の持続などは、いやがおうにも本物の臨床を追い求めると、必ず行き着く境地なのです。

このような視点は、実はクリニックのようなテクニカルな変化がクローズアップされる場面ではなく、在宅などの地域リハビリにおいてより進歩を遂げています。おそらく在宅という視点にて、機能は何のためにどのように活かされるのか?ある意味そんなことは、医療では治外法権とも言うべき領域であったことを、考えなくてはいけない時代になったということなのです。
つまりはどんなに病院にて自立した機能を高めたとしても、在宅に帰ったら一気に低下が起きてしまう。介護予防のはずの要支援者が一向に卒業出来ない。その後の継続したフォローシステムが無い…などの問題が浮き彫りになってきたのです。こうなってくると既に医療の枠を越えた街、コミュニティという社会構造そのものにタッチしなければならなくなります。そこで出てくるが地域包括ケアとなります。
地域包括ケアとは治療だけの問題ではなく、人口動態そのものが引き起こす社会問題であり、その大元の供給元である街のあり方を創造しなければならなくなったのです。この辺りは行政がいくら頑張っても無理なわけで、当事者が主体とならなてはいけないのです。学校の問題を先生がとばかりなすり付けるその風潮は、親そのものが主体とならなければ何も変わらないのです。

ではセンタリングやバイラテラルにおける自由度と汎用性とは、地域包括に近い理念となります。いわゆる応用ですね。

それは楽になったというテクニカルに走るのは、もはや、趣味の世界意外の何物でもありません。つまり、場当たり的に、気の赴くままに施術するという思考は、すでに臨床ではなく自らのための暇潰しにしか過ぎないのです。暇潰しなので、面白くなければすぐに飽きます。モチベーションが自らの好奇心に委ねられているので、興味が持てなければ情熱も湧きません。賞賛とご褒美が与えられなければ力が発揮出来ないのです。自らを飾るファッションのためのテクニック、それは単なる手段となり道具となりツールになってしまいます。当然、臨床でも思い通りにならなければ、サジを簡単に投げます。当てはめ式の臨床を展開し、バターン化させます。パターン化させて適応になる対象は、不定愁訴と呼ばれる何をやっても多少なりとも楽になるもの。不定愁訴イコール病院やクリニックでの理学療法にはなりません。疾患に不定愁訴が付随してきたときに有り難がられるだけで、最初から不定愁訴の診断にて直接治ることを目指して来る患者において、診察室にてメイン治療にする自信はあるのか?医療の最前線に立たない前提にて、結果が出るなどと触れ回るのは愚の骨頂!
病態を解明して、その対処治療方法を確立していくのが医療なのです。最初から方法論ありきで当たれば治るかも?という手法は、患者の過度な期待を煽ることで成り立つビジネスモデルなのです。

他動から認知と納得と励行と生活場面への汎用へと、自ずと時系列の経過を把握しつつ、次に積み重ねる同伴者としてのスタンスが不可欠となります。
それは伴に走る随伴者ですので、その人に入っていかなければなりません。興味や刺激を求めて飽きたら、腕も形骸化してしまう。つまりその腕は魂を失い使い物にならないのです。

かつての自分がそうだったので、説得力があります(*^^*)

持っているものは良くても、活かすも殺すも気持ち次第なのです。

しっかりとゴールを見据えて、共有して同じ目的に向かって歩んでいく。セラピストとクライアントの新しいモデルこそが、地域包括ケアなのです。それは地域でなくても、日々の治療場面にてその理念は息づいていけるのです。

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