運動連鎖アプローチの型

体系化とガイドライン

 世の中のあらゆる方法論は体系化という一つの方向性に向かっていきます。
運動連鎖アプローチにおいては体系化といっても、「その人なりの法則性を見つけ出すためのスキルを身につける」ことを前提としています。つまり、同じような症状であっても内在的な運動連鎖にといては個別性があり、おの個別性は思いも寄らない結果を導きだすことがあるのです。つまり、結果を持ってその原因を推察する。ということであり、ある程度の傾向はデーターベースとして出てくるものの、あくまで確立の問題であって実際にはそのメジャーなカテゴリーに入るわけではないということです。常に例外を想定しておかないと、こうだと決めつけてしまうと別の可能性を見逃してしまうことになるからです。特に気をつけなければならないのは、ある患者で一度成功体験をしてしまうと、その結果が頭に残像として残ってしまい、新しい現象が見えなくなってしまうということです。例えば初診でみた患者さんで、上手く治療がいって改善したとすると、再診時にもその時の結果を追ってしまうことがあります。あの時と同じような結果を期待する患者さんのプレッシャーと言ってもいいと思いますが。その期待に応えよう、再現しようとするあまり、新鮮な気持ちで見れなくなってしまうということです。
 私の経験では大概、2度目は前回と同じではなく全く違う身体になっていることが少なくないのです。その人は別に見た目が変わるわけでもないわけですが、運動連鎖そのものが変わっているのです。つまり前回よりも変容をしているということですので、同じように改善を促すにあったっても、別の切り口であったり角度からのアプローチによって身体の改善はアップデートされてくるのです。
その個別性を見極めるスキルこそが、運動連鎖アプローチであり、そのためのパルペーションテクニックがあるのです。よって治療のフォーマットがあるようでないのが特徴です。型に当てはめようとすると、その重なり合った因果関係を紐解く術は無くなってしまいます。比較的軽くない機能障害を扱うことが多いリハビリテーションにおいて、一つボタンをかけ間違えば途端に良くなるきっかけを失ってしまいます。オステオパシーなどの内部環境に対するアプローチは、まさに見えない何かに対しての秩序を取り戻すためのコンセプトであり、ある程度の体系はあったとしても、そのさじ加減こそが最も重要な視点になります。
よって、同じように触っていても全く反応が変わってしまう、結果が変わってしまうという、レシピはあっても料理人によって味が変わってしまうということになるのです。型は格闘技においても重要視されることがあり、その型は永年の積み重ねによって洗練されたものなのです。つまり、習得する時により効率的に身につけるための体系でもあるのです。しかしながら、宮本武蔵ではないですが、師匠はいない…というような型に当てはまらないことが時にアドバンテージとなるときもあります。ファンタジスタと呼ばれるサッカー選手は、型に当てはまらない独自のプレイスタイルを持っており、人を魅了します。それは野性味であったり、トリッキーであったり、想定外の動きをするということになります。
しかしながら、本能のままにというのは直感であったり身体能力に依存していることがあり、爆発的な能力を発揮する反面、調子を落とすと途端に発揮できなくなる可能性があります。つまり、個人の調子によって左右されてしまうため、波に乗れないとさっぱりフイットしないことがあるのです。次々とアイデアが湧き出てくるようなそんな日は、手が付けられない程の神になりますが、調子に乗れないときは噛み合わなくなります。
つまり、安定しないということです。
治療においては、確率が求められてきます。

もともとマニュアルがないのが運動連鎖アプローチであり、センタリングアプローチという次のステップにて、ガイドラインとなる核が出来つつあると理解してもらえばいいでしょう。
しかしながら入谷式のインソールをみても分かるように、一応の手順は示されているものの、その通りに結果が一様に出るかと言われると、その答えはノーでしょう。毎回、1から積み上げていくような、そんな作業を繰り返しながら一人一人の患者に向き合っていく作業は、それこそ骨身を削る作業となるでしょう。
だからこそ誰でもある程度の結果を出せる方法を求めて、そして普遍化のための型の構築へと変遷を辿るのです。

安定した確率を上げるための考え方がエビデンスであり、プロトコールであり、クリティカルパスということになります。しかしながらマニュアルが常に完璧ではなく、想定外においては自らの判断というスイッチが必要です。

治療においてもそうですが、セミナーや研修会にて習ったことを、そのまま当てはめようとして、もしくはセミナー中にあまりにも型を追いかけすぎると、アイデンティティクライストになることがあります。つまり、プレースタイルが全く違う場合、リズムもテンポも違うため、持ち味が出せなくなるのです。

メッシが長らく代表において輝けなかったことも含め、所属チームとは勝手が違うということです。しかし、マイボールになった瞬間、一斉に攻め上がってスペースをつくような動きが欲しかった…。

欧米から入ってくる治療体系やボディワークは比較的マニュアル化されていることが多くみられます。体系化といいますか、合理化が彼らの特徴であり、西洋文明が世界を覆っている一因なのでしょう。つまり、より効率的に物事を進める上で文章化する、マニュアル化するということ、そしてそれを形として残していくこと、産業やビジネス化していくこと、この辺りが、長けているのかもしれません。
日本は口伝や一子相伝、背中を見て学べ、内弟子として先ずは長い下積みの期間があったりと、精神性を重んじることがあります。簡単に手に入ってしまったものは身にならない。そんなこと先人達は言いたかったのかもしれません。しかしながら、多くの達人を生んだ反面、井の中の蛙、お山の大将の温床にもなります。未だに古武術などは神秘的なベールに包まれているように、そのベールそのものが威厳となってしまうこともあります。客観的な評価ができないということです。グローバル化している今日において、一人の天才でさえも、多くのサポートや環境、そしてアドバイスがなければなし得ません。それだけ細分化された専門性が世界中の情報をもとにアップデートされているため、洞穴に籠って何かに開眼してという時代ではないということです。スティーブジョブズはヨガやあらゆる精神世界への傾倒、ドラッグなどを使うことで多くのインスピレーションを得たようですので、本当に根源的な何かに行き着くためには、あらゆるしがらみや枠組みからの脱却を図ることご必要なのでしょう。それでも、既存の積み上げてきたテクノロジーを継承しつつ、その上に立ってさらに個性を、上塗りしていく作業があります。そこには一人で何か悟りを開くとかではなく、情報キヤッチする能力と流れを読む実践性が不可欠です。

運動連鎖アプローチは決まった型がありません。むしろ日本の理学療法そのものに型が無いのです。マニュアル化を、極端に嫌う日本の伝統が、そこには息づいているのです。人数が少ないうちはそれでも良かったのですが、余りにも人が増えすぎました。その結果、暗黙の了解となっていたあらゆる不文律が崩れました。伝承や継承が追いつかなくなり、経験のある先生方は多くは管理者として忙殺され、教員へと職を移していきました。結果、大量に養成される理学療法士に対して目が行き届かなくなるのです。
そして、その道筋そのものも自ら見つけなければならない業界になるこで、不安と焦りが生じます。そこに、あらゆるマルチ商法の付け込む温床となってしまったのです。また傘が取れてしまった建屋のように、抑えが効かなくなります。伝統は継承されないまま、若い経験のなかでしか出来上がっていない価値観にて、物事を判断することがまかり通ってしまうのです。
また昨今の実習生に対する、いわゆる弟子から、研修生という一つの権利が守られるようになり、厳しく叩き上げるということがタブーとなりました。何かに守られることで犠牲者はでなくなり、その反面踏まれても立ち上がってくる逞しさは失われます。身の回りや国内では、その論理が通りますが、国際競争となると自国の常識は時として通用しなくなります。

型とは見た目のままをなぞることではなく、本来はその内在的な何かを探りながら進めて行くべきものです。そこには型はあって無いようなものかもしれません。しかしながらガイドラインがなければ、どんなに名人であっても劣化は必ずします。調子の悪い時には、道具やマニュアルが杖となります。そしてフォーマットにより、体系化されることにより、継続性と連続性が出てきます。

運動連鎖アプローチはその瞬間の因果関係を紐解くためのツールとして発展してきました。これからは自由度のある硬直化しないマニュアル化へのステップを踏みます。

来年の3/15のイントラ更新セミナーにおいては、その全貌を作っていく作業となります。




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