運動連鎖道場福岡スタート

福岡にて第一回目が始まる



運動連鎖道場の七回シリーズの初回。福岡近郊の病院にて始まりました。
内容は足と膝の、運動連鎖です。
毎回、開催道場のテーマを掲げるのですが、今回は理学療法の原理原則と姿勢制御!となります。治療やコンディショ二ングに関わる、多様な職種があるなかで、我々だからこそ関われる、貢献できる分野とは何か?もちろん競合するエリアは必ず出てくるのですが、共存こそが理想となります。しかしながら、職能とは時に奪い合いになることもあります。それは、単に理解の問題ということになるのですが、その理解とは相手の特徴や理念への造詣となります。相手の理解ということ、そのためには実は自らの強みや特性への理解が不可欠なのです。サッカーにおいて、日本の文化や社会的背景を反映した日本人化が大切であると言われているように、自国にいるとヨーロッパや南米スタイルの真似や追随に走りがちになります。それは、新しいものや未知のものへの探求という別の観点からの興味になってしまうからです。
しかしながら、真似からさらに差別化という過程を踏むことが必然であり、そのためには時に外からの文化や戦略を模倣して、咀嚼することで初めて何が必要で、何を取り入れて、何は真似しなくてもいいという取捨選択ができるのです。
新しい情報や画期的と思われるものには、飛びつき、そして既存のものをないがしろにする風潮はあります。それは自らのアイデンティティとは何か?という問いかけの繰り返しを、どれだけしたかによるのです。アイデンティティとは他者との違いであり、またその上で自らが、何者であるかを確立する過程です。
今でも新しい情報や知見は日進月歩であり、医学に国境はありません。しかしながら社会補強制度も資格の制度も立場も国によって違いがあるなかで、そのまま導入することの弊害があります。基礎科学の分野は流石に原理原則であり、これこそ民族的な違いや国境はないのかもしれませんが、方や理学療法学というものがなんなのか?つまり理学療法とは何か?という問いかけに対して、いまだ答えに窮する現状において、自らが何者であるかという保証がないのです。国家資格であるということ、それは間違いありません。人のためになる素晴らしい仕事のはずです。しかしながら、人は成長と活躍を目指して進んでいくわけで、奉仕の気持ちだけでは続きません。
つまりは、より目立ちたい!社会に出て行きたい!活躍したい!知られたい!という根源的な欲求は、理学療法とは何か?という現状において、拠り所とするべき居場所を探したくなるのです。
その理学療法とは何か?という漠然とした問いかけに対して、海外からの情報は、日常の何かを忘れさせてくれる作用があります。画期的と言われるものに人は飛びつくわけで、その画期的という刺激が、この業界には少ないのかもしれません。日本の理学療法士はアメリカなどに比べても、決して社会的な地位が高いとは言えず、それは単に進学時の難易度というどうしようもない壁があります。
しかしながら一旦国家資格を有してしまえば、先生と呼ばれる立場になるわけはで、この先生と呼ばれて、治すというある種の快感を、得ることで、いつの間にか特別な地位に立てたかのように思ってしまいます。
立場をわきまえた時、身の丈を知った時に、どのような言動をとるべきか!どのように進んで行くべきかが見えてきます。アドバルーンを打ち上げて一山当てようというような発想は、理学療法とは何かという不確定さと、社会的な確固たる立場の不明瞭ということ、そして学生から有職者となってからも自信も誇りもこだわりも持てない。つまりいい意味での職業に対する愛着とプライドですね。
それが、自らの自尊心や論拠のないプライド、コンプレックスや妬み僻み、その解消のための手段として、理学療法という立場を利用しようとするならば、そこには理念も誇りもなく、軸のないハリボテのような仮面に成り下がります。
これは、どのような職業や立場においても陥る罠であり、エリートか凋落していく過程にも当てはまります。エリートに対するコンプレックスから生まれることもあります。前に進み続けなければ、生きてはいけない、またいい意味での前に進まないのであれば、狡猾にずる賢く生きることを選択する人もいます。時に野心があることによる、作為的な思考が、明確な着地点と目的を与えてくれるからです。
何れにせよ一生懸命に取り組んで、それでいてぶれないで継続すること以上の尊さはありません。結局は人に比べて比較検討ばかりしたり、ネットのコメントやSNSに反応ばかりしているよりも、実直に取り組んでいることのほうが何倍も価値があるのです。
栄枯盛衰というように、一度脚光を浴びたり、成功という立場に立ったとしても、ゴールとして永遠に保証されているわけではないことを、あらゆる分野の事象をみていると明らかです。あたかも、その時点での結果にて、永遠であるかのように論じることの薄っぺらさ。その時点にて成長は止まり、奈落への道を辿ります。栄華は永くは続かない。この当たり前の原理への気付きは、若くしては、また理学療法という社会においては、縁遠いものになるのです。
運動連鎖道場福岡の参加者約20名、それぞれに所属も配属も職業も違います。柔道整復師・理学療法士・作業療法士、急性期・回復期・一般病棟・デイサービス・訪問リハビリ・スポーツ分野・クリニック、一年目から15年超まで、運動連鎖アプローチという内容をお届けするにあたっても対象者が目的が違えば伝え方も変わってきます。
 私自身も今年から環境が大きく変わり、回復期や一般病棟に関わるようになり、そして新しいクリニックにて、ボディーワークができるスタジオにてクライアントをみるようになりました。いわゆる一般のクリニックだと白衣の理学療法士というイメージそのもので、徒手療法などマニアックな領域が前面にでるなど、治療というイメージが大きいですが、ボディワークのコンセプトをふんだんに活用しています。つまり、もともともっている能力や知識だったとしても、環境が変わればアレンジして適応しなければなりません。本田選手がロシアリーグからセリアAに入って、スタメンどころかチームそのものにフィットしないないように、明らかに国際試合や代表では強豪チームから得点を入れているという事実をもってしても、一クラブチームでは活躍できないという現実。持っている能力そのものを、三顧の礼をもってむかい入れてくれるわけではありません。やはり、勢いやいい意味での洗脳は大切かもしれませんが、気持ちだけで現在の能力を最大限に発揮できるということはできても、能力以上のものが急激に増えるわけではありません。そんなに毎日右肩上がりに能力が上がり、能力が上がったとしても立場が急に変わってサクセスストーリーになるわけがありません。しかしながら、その時は脳がインスパイアーされて、ドーパミンがドバっとでて恍惚とした感覚により、何者でもなれるように感じてしまうのです。
 他人がそのような言動をしていると、おいおいそれは無理だろう・・・・と客観的に言えますが、自分のことになると見えなくなるのです。そこで失敗なり挫折することにより、初めて学ぶことになります。よって挫折と失敗はいい意味で必須ということになります。その失敗や挫折をもって、次のステップに進むことができるのですが、その結果が過去の清算や過去の自分に対するリベンジなどになると、周りに感謝して周りに支えられているという視点が抜けてしまいます。
 
 立場が違うあらゆる地域から病院から年代からの参加者で構成された道場において、足と膝というテーマを身体の原理原則という観点から、その原理原則は抗重力能であり姿勢を保つための制御であるということです。その制御が足と膝がどのようにかかわってくるかということなのです。
 たとえば前額面のストラテジー。内反捻挫をした人は、外側に荷重することが怖くなります。つまり不安定性がでることで捻りやすくなっているからです。そうすると十分な治療をせずに生活に復帰してしまうと、内側にかけようとする意識が強くなり、結果的に外反が強制されてしまいます。しかしながらかえってそれは捻る要因となるのです。内側にかけると姿勢制御として重心は外側に寄っていくのです。重心が外側なので、小さな段差を踏んでもコロッと捻ってしまうのです。
 しかしながら股関節の中臀筋跛行とされるトレンデレンブルク兆候は、実は内転筋を効かせると動きの改善がみられるという現象があります。確かに両腿にて枕などを挟むと患側への傾きは抑制できるのは当たり前と言えば当たり前かもしれません。これはおそらく階段おり動作と同じく、動きの機能不全、運動連鎖の破綻が原因だと察せられます。つまり単純に中殿筋だけの問題ではないということです。筋力をつければ跛行が改善するということと相関はあるものの、そればかりではないということです。つまり股関節疾患を有していない人は中殿筋跛行はおきない、しかしながら何故にpositiveとnegativeの中殿筋跛行が存在するのかという答えにはなっていません。現象としては患側への荷重に伴う遊脚側の骨盤の下制と、逆に荷重時に患側への体幹の傾きという真逆になります。純粋の中殿筋が支持脚において支えられないということで、骨盤が下制するというのはわかりますが、何故にnegativeがでるのか?それは中殿筋が強化されれば自然に消失するのか?
 私は以前、膝関節疾患における階段のおり動作を研究テーマとしていた時があり、その時に降り動作は膝の機能とは必ずしも一致しないということを見いだしました。つまり膝の痛みや可動性や筋力と比例するものではなく、動きの障害として存在するということです。
 おそらくこのnegativeな兆候においては、同様の仮説が考えら、それは荷重時における足部の回内外と骨盤の前額面上での移動ということです。不思議なもので人の動きの組み合わせというのは、感覚のレベルでつながりが必要で、単独での筋力発揮と動きの連鎖性とは一致しないことがあるのです。
つまり、連動性と単一機能という違いです。これはボトムアップに一つ一つの機能が寄せ集められればいいというこではなく、最初から群としての調和が必要だということです。それはある一つの機能障害がきっかけとなり、連動性が失われることで、単一機能としては条件が揃っていても、連鎖しないということなのです。
 このような事例こそが、フィジカルだけでなく脳内におけるネットワークも含めた身体の使い方ということになるのでしょう。

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