姿勢制御における頭頸部の役割とは

運動連鎖セミナーin福島報告

 福島駅からほど近い、後藤整形外科にて頭頸部の運動連鎖セミナーが開催されました。先月に山形県にて合宿セミナーを開催していただきましたが、主にパルペーションと上部平衡系のための姿勢制御およびセンタリングについてみっちりと時間を使ったこともあり、頭頸部の内容の詳細を煮詰めるための続編となります。参加者は全て山形合宿からの続きになります。運動連鎖アプローチにおいては、上部平衡系ということで頭頸部および顎関節の連鎖をレクチャーしています。部分と全体を突き詰める中で、常に統合と解釈を繰り返し、全体をさらに全体性への集約としてのコンセプトに修練していっています。


 Q.o.A.A.(キュウオーエーエー)という呼び名はとても変わっていますよね。大文字と小文字とアポストロフィーが混在しているので、なかなか難解です。その語源はHPから引用すると、

Q.o.A.A.(キュウオーエーエー)とはQuality of Adams Apple の略語です。
 意味は禁断の果実を例えに、その時代では非常識であったり一般的ではない考え方も、敢えて咀嚼して取り込む中で新しい創造をしていこうという趣旨です。
また、Q.o.A.A.をコアとも呼称します。Q.o.A.A.(キュウオーエーエー)とはQuality of Adams Apple の略語です。
 意味は禁断の果実を例えに、その時代では非常識であったり一般的ではない考え方も、敢えて咀嚼して取り込む中で新しい創造をしていこうという趣旨です。
また、Q.o.A.A.をコアとも呼称します。

 というとだそうです。その名の通り、主宰者の東海林さんは強烈な理念を有しており、自立した理学療法士としての思考を望んでおられます。その首尾一貫として姿勢が団体の理念として息づいていることがわかります。福島という震災において多大なる負担を抱えながらの日々です。私も少なからず関わりをもっていたこともありますが、その遅々として進まないのは、眼に見えるものだけではなく気持ちが最も顕著ではないでしょうか。


 今回のセミナーでは上部平衡系の頭頸部顎関節などのテーマですが、単にその単元のイメージに留まるのではなく、全身のなかの一つとしてシステムとしてあるということのイメージを伝えることにあります。今はリハビリも心身も含めて全体性をもって身体機能にあたることが常となるなかで、どこからどのような理念にて治療コンセプトを構築するかが問われている時代なのです。
 
 では一緒に論理展開していきましょう。

Vol.1「良くなれば何でも良い」患者さんにとってはまさにその通り。しかしそれが祈祷でもいいのか?医療現場にて祈祷を執り行って良くなる人もいる可能性は否定できないでしょう。しかし、そのことを万人が賞賛して浸透するでしょうか?または我々の専門性として取り上げるでしょうか?
 西洋医学の医師が東洋医学もアーユルヴェーダも全てできればいいか?そのような医師がいてもいいが、生体肝移植ができるようなプロフェッショナルがいなければ、助からない患者さんは山ほどいます。しっかりと手術件数と実績をパブリッシュに出しているからこそ日本中からも探してくるわけで、たまたま来た人を自分の資格とは違う方法にて改善したというのは偶然の産物にしかないのです。たまたま良くなったということです。自らの専門性と技術を見越して来てくれる、そしてそれが理学療法士ということが背景に必ずなければなりません。こだわらなくて良いというのならば、ことあるごとに理学療法士とは使わないことです。全員がこだわらない、全ては自分の裁量にて治療方法を任されるような環境ではないのです。環境があったから自由にできているのか環境を作ったからそのようになったのか?一般的な理学療法士像があって、そこから自分が少し変わったことをするからこそ優越感に浸れているのです。その道の専門家のところに行って、学会に行って、世界に行って、果たして今のように同業者のなかでのスタンスにてやれるか?
 「良くなれば何でも良い」というならば、何をどのような場合に、そして治癒率はどれぐらいなのかを示さなければなりません。臨床ではなかなかそのようなデータを蓄積する習慣がない場合が多いのですが、先だってハンドセラピー学会にて、主に作業療法士がメインで発表しているデータのn数は概ね100を越えているものが少なくありませんでした。それも全て症例についてです。確かにハンドセラピーという特化した学会だからこその蓄積ですね。
 良くなったから、その事例をもって理学療法では無いので、何をやってもいいという論法は果たして業界全体を考えたときに普遍的な考え方になるのか?
 それはどこかで自分を正当化している、優越感を出しているに過ぎません。私は良くなったとしても、「ありがとうございました」と言われても、「偶然だ」と思ってしまいます。偶然だと思うようにしているではなく、そう思うのです。心技体と集中してその原因を解明して手順をもってアプローチすることによって、評価とアプローチが一致したと実感したとき、自信を持って間違いなく改善したと実感しますが、その臨床思考過程は常に全力でなければ成されないのです。片手間で楽勝で良くなると考えることは全くできません。そのような安易な変化は、それこそ臨床家としての挟持に反するのです。

Vol.2「必ず足から見るという方法が正しいか」
 全体を見ていくときに、何か手かがりが必要です。つまりロルフィングのように、何かフォーマットや手順が決まっているわけではない理学療法において、必ずどこからやらなければいけないとは決まっていないので。では何故に決まっていないのか?それは医療だからです。医学も最初からスクリーニングをして、クリティカルパスがあったわけではありません。それこそ、このようなパスの考え方が浸透したのはここ最近では?紀元前から医学があるなかで、ここ10数年にてようやくエビデンスやクリティカルパスといった考え方に行き着いたということなのです。何故ならば、エビデンスに統一できないことが沢山あることは確かですが、何故にエビデンスという考え方に行き着かなければならかったのか?ということです。そのことを想像すると、自称名人や達人が時としてまがい物が出てくる温床となってきたはずです。
 本当に良くなったのかどうかを、世界標準にて定める基準、そして国がより国民の健康を推進するにあたり、効果的であるとする論拠となるべき基準が必要なはずです。例えばある人がごり押しで「この方法を使え」と力を使って入れ込んだとします。それが国民へのルーチンとして推奨されたとしたら、きっととんでもないことがおこる可能性があります。
 では、理学療法において全身を見る場合、足下から積み上げていくという考え方は比較的理にかなっています。何故ならば理学療法は本来、骨格がベースであり、そこから筋肉が駆動のために働いているということが比較的理解を得られやすいロジックとなります。そこから筋連結や筋膜などの流れに、少しずつではありますが加わってきました。またバイオメカニクスも測定機器がビデオから入ったこともあり、足下の撮影がやりやすかったのです。よって足の過回内が上行性にアライメントに影響してくるという考え方も、建物や構造として考えたときには至極当然ということになります。現に、足のアプローチによって多くの機能障害が改善する可能性が高いからです。しかしながら、口腔外科領域においては、咬合治療によってこれまた多くの不定愁訴が改善することが証明されています。もちろん咬合だけではなく、歯医者さんの領域ではいわゆる身体を整える整体を重視しており、足や骨盤や背骨など、特別足だけにこだわるわけではなく、もっと全身的に考えます。このことは、人間の適応という過程において、多面的な要因が考えられるということです。そこで必ず足からみると、ある手技で見ると、その多くのテクニカルな考え方があるなかで、とっかかりとしての見方が必要であることは否定しません。先ずは切り口として一つのルーチンを決めておいて、そこから展開していくと。しかしながら体幹というもう一つの王道が表れたことで、体幹そのものが身体機能に占める割合がかなりあることも分かってきます。つまり、何かを一つターゲットをしぼってアプローチすると、もう一つというわけにはいかなくなるのです。しかし西洋はその辺りはシステムとしての考え方、合理的ということですね。全身のルーチンを決めてしまって、その工程を全て一周すれば網羅できるではないか?ということになります。そしてその一工程にて改善がまだであれば、もう一工程をと今度は二周目になります。しかしながら、理学療法はクリニカルリーズニングという考え方があるように、ある程度は徒手療法にてアプローチすると決めていたとしても、その施術する加減や部位そして手順は臨床思考過程において決定していくということです。おもむろに凝りがあるから解すとか押すとかいった文化は、医療としての理学療法の主流にはなりにくいということです。
 確かに足からアプローチすることは間違いではないけれど、その部位をその考え方で、その方法を用いなければならないという理由はなんなのか?そこが我々も専門性なのです。特別効果的な方法を身につけることは、手段であり目的ではないということです。よってその手段を目的化してしまっては、本来の我々の一番大切にしなければいけない思考過程が失われてしまうのです。

Vol.3「理学療法における全身へのアプローチとは」
さて前振りがかなり重くなりましたが、では王道は何なのか?
先ずは、一つ一つをバラバラに別々にアプローチしていけば、全身を網羅できるという考え方を捨てなければいけません。同じアプローチをしていても、その前提となるセラピスト側が一番大事なのです。つまり、たとえ一部分の感覚入力であっても、必ず身体のどこかに変化が波及しているということなのです。部分のアプローチによって何が変わるのか?それは足部の回内によって膝が内側に入るといった構造的な傾きではなく、生体が眼に見えないレベルにて変化を起こすということです。それは、方程式のようにバイオメカニクス的な考え方ではなく、感覚入力によって脳にインパルスが入り、皮膚・筋膜・筋肉・骨・呼吸循環・情動・ホルモン・脳内物質など、おそらく何百何千というシステムlが賦活され変化を起こすのです。その微細な変化を逃さない、評価手段を持っていることが治療家としての真骨頂になるのです。部分的なアプローチによる、その時の部分的な変化ではなく、そのことによるクライアントの感想といった主観的なものによってのみ満足感に浸るのではなく、何が変化して何が変わっていないのかを見極めることです。
 

 前の記事でも足の細分化が自由度と汎用性のある姿勢制御をもたらし、そしてそれには体幹の自由度が不可欠であると言いました。そこに上部平衡系としての肩甲骨がさらに大きなオプショナルとして存在するのです。その肩甲骨が頭頸部との連鎖が密接であり、結果的に上位頸椎という局所のアプローチそのものであっても上部平衡系のメインストリームに躍り出てくるということです。この肩甲骨は伸び縮みが必要であり、胸郭の上での滑りが必要となります。これは肩甲骨の可動性がということではなく、胸郭の上で呼吸によって肩甲骨が相対的に動くということが姿勢制御には必要条件となるのです。
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