パーソナルセラピストという新しい考え方④


徒手的アプローチと臨床思考過程

 理学療法士として徒手療法と運動療法を学びながら動きをみてスポーツ現場ではパフォーマンスをみるなかで、自ずとフォームやアライメントの視点が身に付きました。つまり既に部分的な機能障害、整形外科的な視点からパフォーマンスという身体機能全体への入り口です。そして運動連鎖アプローチという観点からの研鑽にて、さらに隣接部位の関連性についてパルペーションによる動作分析という領域へと展開していきました。その時点にてかなりの細かいミクロの見方を手に入れたわけですが、このミクロというのは、それ自体は人間の内在的な営みとして、眼に見えないレベルでその時身体は、脳は何をやっているかということへの取り組みとなります。つまり運動指導であれば、それは治療ではなくあるフォーマットを教えるということの立場であり、それは治療ではありません。治療となるには診断的な要素が不可欠であり、この治療というのは詳細でなければいけません。やってみて効果があるかどうかをいちいち見るというものでは医療にならないのです。この臨床思考過程、PDCAサイクルに見られるスキルこそが理学療法士ならではなのです。外科的な処置ができるわけでもなく投薬も注射もできなというなかにおいて、何をもって治療というのか?私はかねがね、理学療法を治療として表現するのには違和感を感じています。治しているのか?治すというのは、何かを戻すということであり、筋力や可動域を戻すというのは機能であって、その疾病の根治とは少しニュアンスが違うのです。
 よって理学療法において治すという定義を考える必要があります。ストレッチや筋トレが治療であるならば、それは業務独占ではないわけで、類似行為はいくらでもできてしまうのです。理学療法士は医師の指示のもとに、医療補助行為が許されています。この医療補助行為とは、別段業務独占がないわけですので、医師が指示をしたものということでの定義しかないのです。徒手療法も何かしらのテクニックも法律に定義されている医療補助行為というわけではなく、あくまで包括的な指示のもとに、個人の裁量であることを黙認されているということです。よって治すとは痛みをとること・・・がまず頭に浮かびますが、その痛みをとる方法において理学療法ならではという定義ができるのか?関節運動学的、軟部組織に対して、筋肉に対して、脳内に対して、あまりにも非侵襲的なアプローチによって改善するということは、なんだってありということになるのです。その本当の意味での検証は全くされておらず、各々の方法のみがクローズアップされていることで、胡散臭くなってしまうのです。

 つまり明確に業務独占がないということは、何をやってもいいということの解釈もなりたち、シングルケースにて良くなったことを殊更に強調するレベルまでにも落ちていくのです。シングルケーススタディとして臨床思考過程が示されているとするならば、一つの仮説という立場をわきまえれば、まだ可愛げもありそうなものですが、ただ良くなった!の一言で片付けて強調するならば、それは後退の何ものでもありません。こうなってくると医療従事者としての民度の問題です。

臨床思考過程と臨床推論そのものが理学療法の生命線となるのです。侵襲性のアプローチができないということは生体に対する感覚入力によって、後は身体内部における情報処理に委ねられてしまうからです。よって、そこに現象だけではなく、思考が不可欠なのです。何故ならばその思考は研究につながるものであり、常に科学的な視点に転換できるからです。現象を結果として、すり替えてしまっては駄目なのです。結果というのは必ずプロセスがあり、そのプロセスを検証することにより、より良い結果へと結びつけることができるようになり、さらに後世につながっていくのです。
 アートとしての技術や感覚の側面を、今では脳科学や各種の質的な評価指標により、科学へと昇華できる時代が来ていますので、いざその感覚さえも科学者によって何らかの形として表にでてしまったのならば、本来は我々がやるべきことではなかったのか?という地団駄を踏むことになるのです。よっていつまでもテクニカルセミナーにて集客している場合ではないということです。自らが何を読んで、何を思って考えたかということが、そのままアイデアとしてレクチャーできる醍醐味は確かにありますが、その発想とアイデアを具現化させるスキルも不可欠となってきたのです。今までは理学療法での行為は、ほぼ専売特許として他の分野の人たちとは競合してきませんでした。しかしながら、同じく治療家だけでなく体育やスポーツ、そして大学の専門家の人たちが参入してきています。それだけ身体の機能的なメカニズムというのが、一大関心ごとになっているのです。

理学療法という業務独占がないということにおいて、枠は広いのですが、今までは数字にこだわらずに、こだわりの理学療法としてだけでやってこれました。
このこだわりは、別段検証されるわけではないわけで、思い込みというものも当然入ってきます。今までは理学療法士の人数も少なかったので、誰がどのようなことを唱えていて、どこに誰がいるかがある程度つかめていましたので、その考え方などもある程度第一人者によって自然に統制されていたのです。それが、あまりにもPTが多くなって、眼が届かなくなったので、何をどこでやっても眼がまったく届きません。睨みがきかないということです。
もともとは法的な規制があるわけではないので、自然に分裂したり派閥が沢山できることで、各々の影響力は落ちてきます。
 
臨床思考過程や推論は実態がないものであるため、方法として示すことができないというデメリットがあります。わかりにくいのです。その具体的な目に見える方法論が定まっていないことによって、理学療法にないオステオパシーや整体などの分野から引っ張ってきたものが、あたかも素晴らしいかのように錯覚するのです。最初からオステオパシーやカイロプラクティックの世界にいる人は、皆が専門家ですから分別がつきます。皆ができる中でさらにその大御所がやることにおいても、冷静にジャッジすることができるからです。ところがリハビリの業界は大半は20代、さらに1〜3年目はその理学療法とは何か?ということがまったくできていない可能性もあり、あっという間に別のものに染まってしまえます。そこだけをターゲットにしてビジネス展開もできてしまうという恐ろしさ・・・・。

その臨床推論において、研究的な方法では個別性は見えてこないという欠点は確かにあります。論文として対外的な公文書としては、世界的に共通のフォーマットであるというだけだからです。そこに内在的な運動連鎖をみるためのパルペーションテクニックを開発して伝えているのが運動連鎖アプローチということになります。別に自慢しているわけではなく、事実だからです。その事実も全く持って科学的に示していないため、これは片手落ちです。
 それもこれも片手落ちなので、結局はこれをやれば良くなるというような短絡的な方法から入ったほうが、分かりやすいということになってしまうのです。実は評価ができるようになるということは、各種徒手療法の特性と適応を全て頭に入れて使いこなせるようになることが、近道なのです。全てを身につけるのは遠回りのようで、実は理学療法の臨床思考過程を身につける近道なのです。

つまり各種徒手療法やアプローチ方法は、全て人間の恒常性を保つためのシステムとして一元化できるからです。

また徒手療法といえば、どうしてもイメージが胡散臭くというか、職人的なイメージが浮かんでしまい、少し距離をおきたくなってしまいます。つまり徒手療法にて名人と吹聴している人たちは、なんだかとっつきにくいからです。自信があるのは結構ですが、こだわりがありすぎて他を寄せ付けないからです。このような印象をもたれてしまっては、マイナスでしかありません。自分やその代までの優越感で終わってしまい、この時世スターダムにのし上がることができあいでしょう。

またストレッチが徒手療法かと言われれば、ストレッチはストレッチとして独自の世界観を確立しているので、敢えてここに徒手的方法、徒手的アプローチ、徒手的療法と命名します。
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