心と体の深い繋がり

心と脳をつなぐ情報伝達プロセス

fc2blog_201403092210272d1.jpg


感情が病気を治す。
やや誇張した表現であり、時に誤解を招くことになるこの言い切り。

正しくもあり、しかしながら絶対でもない。病は気からという諺があるように、その事実が実証されつつある中で、病気の本質はどこにあるのか?

再生医療や移植手術なとが必要な患者は山程いるわけで、気持ちだけではどうしようもない。

しかしながら、回復の過程において、その人のキャラクターなのか、心持ちなのか、立証はできないものの影響を受けているであろう事例に出くわすことがある。

私の経験では、猛烈型の人は確かに一生懸命リハビリも頑張るが、回数指定を強調しなければ、何百回も繰り返し練習をしてしまう。
交通外傷の被害者はこの被害者意識から、脱却できなければなかなか治療に乗ってこないことがある。
それを全て気持ちの問題と一蹴するつもりはないが、全ての人に対して、疾患ではなく、人間対象にしなければリハビリの軌道に乗らないことは確かだ。

特に交通外傷の患者が多く訪れる救急の病院にいたこともあり、よくそんな経験をした。

周りからはどこが悪いの?的な見方をされる。

加害者が謝罪に来ない。

保険会社から打ち切りの話がでる。

このような出来事や感情に支配されていると、自らが主体的に治そうという気持ちになりにくいようだ。

大概、保険会社と会った日には調子は決まって良くない。

聞くでもなく諭すわけでもなく…

昨日は3.11でしたが、直後は頑張らなくていい…頑張ってか禁句のように連呼されていた。

当然、被害者意識がある時は『頑張ろう』は当事者にとっては酷な言葉だ。

頑張ろうは人から言われるものではなく
、自らの意思で湧き出るものなのだ。

しかしながら、周りは言葉に表さなければ、前に進めない。つまりは当事者ではない取り巻きは、頑張ろうという言葉による効能を、意欲への直結を自分のために発しているのだ。

日常であれば、そうだろう。頑張ろうの準備ができているレディ状態ならば尚更だ。

しかしながら、受験やスポーツの試合時に頑張れという掛け声は、上の空にしか聞こえない。

それどころではないというのが、正直なところだ。周りは当事者ではないので、自らに響く言葉を、実は当事者にかけているのだ。

自らが元気になれない言葉かけは、やはりしないし出来ないのだ。

私は、こころのタイムラインと呼んでいましたが、何が媒介しているのかはわかりませんが、被災地では、うねりのような感情のエネルギーを感じることがありました。

被害者意識の患者さんの話に戻しますと、のらりくらりと緩やかな変化を起こしていきます。

それはこちらが指摘するのではなく、気がついたら楽になっているという「あれっ!」という気づきです。

さりげなくがキーワードになります。

ただ触っているだけなのに、なんだか楽になっている・・・

このときのキーワードはあまり侵襲性の高いアプローチは少し控えめにします。

強く押したりストレッチしたりではなく、緩やかに変化をです。

愁訴は毎回変わってきます。特に交通外傷はむち打ち損傷であることが大半ですので、

毎回あちことに愁訴が顕在化してくるのです。

時に不平不満を延々と聞かされることもありますが、同調と共感しすぎることは御法度です。

しかしながら相づちは打ち続けます。そして、時にその人のポジティブなエネルギーの兆しのある瞬間のみ耳を傾けるようにします。

ポジティブなエネルギーの判断は、エネルギーにチャンネルを合わしておきます。よって言葉尻を追わないことです。そしてポジティブな口調や感じを、エネルギーとして感じることで、断片的につないでいくことで、能動性を自然に誘導していくのです。

そして、その能動性をわずかな身体的な感覚の変化にて気づいてもらうことで、さらに後押しします。
その結果、「・・・ということなんですね」と自らが気づきを表現してくれるようになります。そのときの観察ポイントとして、目がキラっと光るような見開くような瞬目が観察されます。それまではどよんと淀んだようなうつろな目と表情とネガティブな口調ですが、そのターニングポイントを待つのです。

そのためには、毎回でてくる新たな愁訴をしらみつぶしに改善していくということも求められます。何を訴えても、すぐに対処して改善のための道筋を示してくれる。そのことが、周りから理解されないわかってもらえないというスパイラルから抜け出す一本の希望を見いだすことになるのです。やはり話を聞いてもらうことによる効能もありますが、治療家ですので自らのできることを発揮しなければいけません。

笑うことで健康になる、認知症を予防できる、改善できるというような取り組みや、話題になったりということが珍しくなくなりました。

我々も治癒まではしなくても、ポジティブな方向に導いてくれるであろうことは、当たり前として認識するまでになっています。

免疫力が上がったり、がん細胞が減少したりという噂も耳にすることもあります。

「こころと身体は密接につながっている」その前提にて、リハビリの場を作っていきます。つまりリハビリというのは、このような測定したら+の効果があったというような事象を積み重ねる事で、可能性を高めていく作業を繰り返していくことを信条としていくしかないのです。そして、それは科学という解明によって、唯物論のなかで実は説明つくことが多くなっていくかのように世間の風潮は流れていく。しかしながら、治療薬として確立されたものであっても、効かないことも多々ある。しかしながら、認証されているとうことは、社会的な手続きを踏んだかどうかによるわけで、それが本当に効能が出るかどうかはまた別問題なのです。

世の中に認められるということと、目の前の事象に対する具体的な解決とは、切り離して考えなければならないのだ。

医療のおいては診断がつかなかったり、よくわからない不定愁訴に対して時にリハビリの力で改善をもたらすこともある。動きが改善したり痛みが消失したりということが、その一つである。しかしながら、このような事象はいくつも経験はしているものの、医学として主流になることはない。何故なら痛みの改善には注射や点滴そして薬、動きの改善にはあらゆる運動療法やアプローチによって改善することが多々あるからです。

これでなければ良くならないというふうに言い切る事ができない、一対一のエビデンスがないからなのです。

医学は手術しなければいけないという、絶対の病体が存在する事は明らかです。また予防接種の効果があることも間違いありません。いや予防接種なんかしなくても、免疫力を上げれば必要ないよ・・・それも真理でしょうが、果たしてその論法で日本中のインフルエンザの発症をゼロに抑えることはできるでしょうか?そこまで責任を持てる人はだれもいないでしょう。予防接種をするという前提にて、代替療法などにて免疫力を上げるということの合わせ技となるはずです。

またインフルエンザになったとしても、出勤してもいいとはならないでしょう。ノロなどでも、患者を隔離する必要があります。これは、今では当たり前の対処方法ですが、何故なら言わずもがな常識であり科学的にはエビデンスに該当するからです。


良くできる。。。と吹聴したとしても、リハビリテーション医学をみても、どんどん研究を重ね、痛みに対しても麻痺に対しても、科学がイニシアチブを握っている事は間違いありません。CRPSや繊維性筋痛性、疲労性脳脊髄炎、などの定義やガイドラインを作るのは医師です。我々は何か世間に国民に啓蒙するような取り組みをしなけばいけません。認識を促し、広く病体におけるメカニズムを理解してもらうのです。それによって、理由がわからなかった不安から少しばかり解き放たれ、その解決の道筋を提示してくれる専門家のところへ行くことで、より多くの救われる人が出てくるのです。
 これが一人の達人というレベルに全てのセラピストが達せれば、それも理想ですが、それは日本中からそのセラピストを目指してきてくれる来院するというレベルを指すのです。来てくれる人を良くするということは、あらゆる身体機能のあらゆる法則を使って改善することができるため、その人でなければいけないということはほとんどないのです。目の前の人が良くなったという事実は確かですが、自分でなければ駄目だったか?良く出来なかったのか?ということの問いです。
 
 あとは確立の問題です。天皇陛下の執刀医となった天野篤教授は、成功率が90何パーセントだかのものすごい確立での成功と、そして症例数を診ています。その中では当然、難症例であったりよりベストな治療方法の選択であったりと、フォーマット通りではない臨機応変な治療選択ができているはずです。~法という一つの方法をベースに診るというのは、リハビリにおいても本来は無い訳で、何がベストの組み合わせかということの域に達することが目標のはずです。

それを、あたかも個人のセラピストの自信をつけてもらうという名目にて、一つの方法のみを教えて腕が良くなる治せるセラピスト、結果が出せるというロジカルにて売り出すのは、まさに自己啓発のための手段の何者でもありません。セラピスト側の行動変容のための手段であって、それがあたかも最終的なゴールであるかのように示していることもあります。
 つまり、教える側がそこまでのツールしか持っていなければ、それ以上の拡がりはないのです。結果、教える側の器のなかで、終わってしまいます。それが、ビジネスという手法と目的が実は潜んでいたとするならば、それは治療ではなく講座に参加してもらうことそのものが目的となってしまいます。セミナーを開催している側も最初は大義名分で始めるのですが、それに乗じていつの間にか目的が変わってしまっているものも目にします。ビジネスモデルの一つになってしまうのです。

心臓外科医である天野篤教授の神の手は、ビジネスモデルでしょうか?いや、本当の意味での本物でしょう。噂だけ無く、しっかりと実績を示すことの積み重ねが無ければ、天皇陛下の執刀医に抜擢されることはないでしょう。その理念は売名のための成功でしょうか?そんなことが矜持であれば、執刀医に選ばれることはなかったでしょう。自らを自らのことをできると吹聴しているでしょうか?既にその領域を超えており、必要もありません。
 一症例一症例の改善例をいちいち誇示していくことも、個別性あるリハビリ対象患者においてはシングルケースとして有用でしょうが、どこかで実証するための手順を踏まなければいけません。
ビジネスモデルのテクニックの弊害と違和感ばかりが突出していますが、それは仕方ありません。導入するにはあまりにも歴史が無く、本当にどのようなモデルがリハビリ業界に適してるのかが成熟していないからです。しかし真理として導きだされたモデルであるロジックと、医学・医療と社会貢献という理念のバランスがとれた新しい理学療法士像を創造しなければいけないのです。

東日本大震災からはや3年・・・・
24万人の避難者という現実、体調を崩すのはお年寄りだけでなく、子供のこころの問題もクローズアップされています。生活不活発病ということが当初から言われていたにもかかわらず、そして多くの尽力が続いているにもかかわらず、その実態はむしろ悪化の一途を辿っているような状態にも聞き取れます。おそらく、多くの人たちの尽力により、支えられている人も沢山いると思いますので、あくまでそれでも丹念に見ていくことで問題点を抽出して、さらなる改善を促そうとしている結果としての報告なのだと思いたいです。現状に満足しない、さらに何が問題なのかを考え続けるその姿勢が、次ぎなる進歩へとつながっていけるのです。

 果たしてもっと大量のボランティアや人的投入があることで、その健康問題は好転していたのか?もちろん比例することもあるでしょうし、十分とは言えないことは確かですが、ではどれぐらいつぎ込めば良かったのか?どこの時点にてもっとこうしていればという方策があったのか?と言われるとそれは難しい問題なのです。
 一つ一つ緩やかに変化していくことしかないのです。劇的に良くなることを時に期待したり、望んでしまうのですが、それは実際問題無理だといえます。上手い話には裏があると言われるように、ポッと得するような錯覚を覚えるものに飛びつきたくなる衝動はいつでもあります。宝くじが当たらないかなと買いますが、一向に当たる気配がありません。おそらく既にその宝くじを当てようとする心が問題なんでしょうね~。と自戒ですね。

 地道ではなく、どこかで誰かが変えてくれないかなという願望がカリスマを作り出す温床なのでしょう。苦しい時代であればあるほどメシアを求める声が大きくなり、時としてそのような指導者がでてくる背景となります。

「笑いと治癒力」岩波書店、という書籍があるようですが、そこでは「生きる意思と正の感情は健康に、そして治癒力に、大きな影響を与えてくれるものだ」と、回復への道のりを振り返っている。

現代医学の説明のつかない回復を果たして事例についての報告は多くあるようで、それが我々の治療家としての希望と可能性をつないでいるのかもしれない。それでも世の中の話題ち注目は最先端医学であり、そのことの事実から目を背けては行けない。個人レベルではなく医学として無い得るための無理矢理のエビデンスベースでも本当の自分たちのキャラからの乖離をしてしまう。その乖離が時としてエビデンスへの非難となっているのです。

Crinical Predicltion Rules このような試みをしようとする、気持ちは分からないではないが、残念ながらそこに唯物論が前提となっている。心脳問題に対しての見解が抜けているのである。その心の問題ということがあると認めていたとしても、それは唯物論の延長線上の理論展開になっている。そのため、それは解決しようがない問題として印象づけられてしまっている。どういうことかというと心脳同一説、消去主義、メンタリズムなどが最たるものだそうだ。
心脳同一説とは「心で起こることは脳によって作り出されており、脳で起こることと同一のものだ」とする説である。つまり「気分壮快」という気分を、「脳からエンドルフィンが分泌されているからだ」といった理解になる。つまり私たちの持つ感情は、全て脳内の電気インパルスや化学反応でしかないということである。
消去主義は「精神機能や心的現象といったものは存在せず、すべては脳の状態なのだ」とする、さらに急進的なものになります。メンタリズムとは「心的現象とは脳から切り離されて起こるものではない」という主張になります。確かに身体表象におては、明らかにロジカルに要素還元的に積み上げていくことが出来、それが脳卒中の麻痺の回復につながっているであろう事象を眼にすることが出来る。また機能的な身体運動においても、その身体表象が身体の気づきによってもたらされることを選手の主観的な記述により明らかにされている。

脳内における伝導的な生理学的な生化学的な要素は当然あるのですが、情動(エモーション)は果たしてその限りであろうか?おそらくその情動への理解と考え方によって、エネルギーであったり東洋医学的の説明にも、そして我々のリハビリという治療のベースとなっている機序を説明するためのメインストリームに躍り出てくる可能性を秘めていると考えます。

そして心の問題として被災地にてクローズアップされていることに対して、リハビリ関係者がカウンセラーではなく、セラピストとして取り組める貢献できる礎となりうるであろう。
スポンサーサイト

コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0