脳の神話が崩れるとき パート3

「唯物論と心脳問題」
緩やかな変化に気がつくこと


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ペンフィールドの功績
 ご存知、ペンフィールドは脳皮質の働きをマップ化する仕事をしたことで湯名である。脳に電極にて刺激をして、その間は患者は麻酔をかけられることもなく意識を覚醒させたままである。脳組織には感覚を持たないため、痛みを感じない。

中世ヨーロッパでは、科学はうさんくさい練金術と同然に扱われていた。つまり宗教的な観念が科学を上回っていた時代といってもいい。つまり心が心臓のなかにある、感情が情動がどこになるかは、まだダーツを投げるようなものだったのだろう。心が痛むというときには心臓がきゅんとなるため、そこに心の座があると思うことも分からないではない。
しかしながら15世紀〜16世紀のルネッサンス時代に突入すると、科学が再び隆盛を取り戻していく。
フランスの哲学者であるルネ・デカルトの心身二元論。私の解釈では心と身体は別々のものであるという現代の西洋医学の哲学となっている記憶している。つまり、人間は物質と非物質の融合体であり、肉体とは物理法則に則って機能する機会だが、精神は物質ではないから機会論的には成り立たない。精神は自由意志を持ち、肉体上に働くものだとも言っている。
 
私が理学療法士になったころの20数年前は、まさに心身二元論のまっただ中にあった。理学療法は前にも述べたが後発としてでききた医学であるがために、先進的な考え方をリードする立場にはない。つまり人間とは命とは?という命題はイニシアチブを握っている医師であり法学者でありといった専門家の領域なのだ。別にリハビリにて、心とは何か?を語ってはいけないといっているわけではない。昨今の認知神経科学の隆盛により、その心という問題へのアクセスが、身体表象というゲートからつながってきている。ただ、あくまで神経生理学や脳科学といった、どのように脳が可塑性をもって回復していくか?という治療の観点の範疇であって、そこに生命観や宇宙観といったところまでは不相応なのだ。つまり医師がホメオパシーや東洋医学、代替療法に傾倒してもそれは発展的として受け入れられる。もちろん同業からは白い眼でみられるのが常だが、少なくとも医師が推奨しているということで、代替療法の分野の人たちは大概歓迎する。医師がやっている、医師に認められたということの社会的保証が、自らの信じてやっていることの価値につながるからだ。

よって深く原理原則に入る前に、表立って分かりやすい唯物論を基礎として積み上げていくことによって、医師にも周りにも平均的に理解されることをもって職能的立場を作り上げていくという方法を無意識にとっていたのだろう。

例えば理学療法が法制化されたと同時に、いきなりカイロプラクティックや整体、オステオパシーや東洋医学を推奨しててんで勝手にやりだしたら、今の立場はあっただろうか?
「理学療法は何も無いでしょう」私が24〜25歳のころにオステオパシーのセミナーに参加したときに、山口県から参加していた理学療法士が私に言った一言が如実に理学療法の現状を表している。確かに昔から、理学療法では良くならないといいうふうに思っていた人たちは少なくはなかっただろう。何故ならば刹那的に変化をおこす、変える、良くするというテクニカルを教える場ではなかったからだ。何故ならば医学教育の縮小版としてのカリキュラムと、医師の元にて動くという法律によって、そのアイデンティティは、医師の顔色をうかがいながら形成していしかなかった。今では、自由にやらせてもらっている職場も少なくないようで、理学療法士がやることに寛容な風潮もあり、その温床をもとに自由に他の分野のテクニックを持ってくる若手も多くなった。

何度もいうが先人の先輩達が手をこまねいていたわけではない。もし理学療法士一期生であったならば、きっと自分のテクニカルな分野や良くなればなんでもいいという風潮にはならないだろう。まずは自分は何者であるか、ということを明らかにしなければならないからだ。愚直に理学療法というものをテクニカル偏重ではなく、学術主導にて「考えながら試行錯誤する」「全てをうたがってかかれ」「学会発表をする」という歴史と伝統を作っていただいたのだ。

ただしクリニックが単独にてできるようになって、新人理学療法士の苦悩がはじまることにある。何故なら学校教育で教わった動作分析や評価が直接に治療結果に結びつかないということに直面するからだ。揉んだ方が早いですからね。
満足度を上げるのならば。つまり、寝かして按摩マッサージ指圧をすれば、日本人は気持ちいいことを知っていて、満足度が高くなることを知っているからだ。またマッサージに期待をする患者心理もあり、そのニーズに新人であれば応えてしまうのだ。つまり、治療効果以上にやってもらった感が治療には大きなウエイトを占めているのです。
 針や整体などのバキッというスラストが満足度が高いのは、まさにやってもらった感なのだ。治療時間に比例しないアプローチは、商業主義と結びついて稼げるためのシステムという側面も含んでいることを忘れてはならない。いいことを何でもやってあげようとする理学療法士の治療は2〜3単位はほしがるものだ。しかしながらカイロプラクティックや整体では5分というシステムのところもある。また手キネシオテーピングが流行ったときには、一日200人近く患者を見ていたという柔道整復師とも合ったことがある。貼りまくったということです。効果があるという触れ込みにおいて、患者は価値があると思い込んでくるので、それに乗じれば例え5分であっても、満足度が上がるのだ。あの先生にやってもらったから・・という憧憬にも近い感情は商売において大きな力を発揮する。

ボディーワークのインストラクターの容姿や生き方の格好良さによって、クライアントがつくのはそのような理由なのです。例えばヨガの大きな祭典では、Shihoさんというモデルが担当するクラスはあっという間にチケットレスになるようです。もちろん実力が無ければ話にならないのかもしれませんが、かなりの部分でブランディング力が影響することは間違いありません。

良くなるのではなく、良くなりそうな雰囲気があること・・・そこに人は引きつけられるのです。マルチ商法もそうですが、もともと治療技術があったりお金がある人よりも、まだ腕が無い人、お金が無い人のほうが虜に出来るのです。もちろんマルチ商法にて大金をはたいてしまう人も後を断ちませんが、それはもっと簡単に増やしたいという安易な気持ちに乗じていることになります。

心脳問題においては、デカルトの心身二元論は現代においては、そのまま肯定する人はいないだろう。緩やかな変化に気がつかなければならないのです。つまり20年間までは心身二元論であったものが、心の問題としてこれほどまでにケアーが当たり前のようにスポットが当たっているのは偶然ではなく、時代の流れなのです。心と身体の相互作用、ストレスやうつ病などが当たり前のように公的に市民権を得て、擁護されるようになったのです。
 
宗教的な観念が吹き飛ばされていく中で、我々は脳と個々とでさえもコントロール可能であるかのように錯覚する。つまり直接の脳科学や心の歴史に造形が深くない理学療法士が文献や書物にて得た、体験と熟成の時間が伴わない知識が妄信という現象を生みます。本当に歴史やその専門分野にて第一線で活動していれば言えないことも、そばから引用して解釈をして信じて用いている理学療法士はあたかもそれが先進であり絶対であるかのように脳を支配するのです。
そんな状況を山ほどみてきました。台頭する新治療といったとことでしょうか。その新治療も既にあるものであっても、自分にとっては初めての出来事になりますので、発見したかのように心理状態になるのです。

文字が並ぶ文脈によって支配された脳科学ではなく、真理を見つめながら考えていけるようなそんなスケールが求められる時代になってきたのです。
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