脳の神話が崩れるときパート2

はじめに P8〜
「物質のみが存在しうる」

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西洋の科学者はこの仮説をもとにあらゆる事象について研究と論証を重ねて来た。その仮説とは「物質のみが存在しうる」というものだという。
Brain Warsの筆者であるMario Beauregard(以下マリオの略)は神経学者のようで、「世界には物質しか存在しない」という理念を前提にして研究している、いわゆる主流派であるようです。この主流派の神経学達は「人間の思考パターンや精神状態というものは、脳内の電気的インパルスの刺激によるものだ」という前提に立って研究している。
 高名な分子生物学者でありフランシス・クリックは」人、つまり人が感じる喜びや悲しみ、記憶や理想、アイデインティティや自由意志といったものは、無数の神経細胞体と、それに関連した微分子によって引き起こされる作用でしかない」と言い切っている。
 つまりは、思考や精神、感情といったものでさえも、全ては研究の遡上に乗るということだ。
 そこで筆者でありマリオは、「私たちの持つ自我とは、いったいどこから生まれて来たのだろう?」と考えるようになったようだ。我々の意識は全て電気的な信号の成しうるものであり、死後には全て消えてしまうのだろうか?

 実はこの死後の世界については、古来より言い伝えのように論議されてきた節がある。宗教もカルマも輪廻天性も前世も、いわゆる我々がどこから来て、どこに行くのか?という問いに対しての純粋な疑問からきている。そして、誰もが否定も肯定もできない、この生命の神秘について、支配しようとする意識が人間にはある。この生死を解明し支配しなければ、不安で仕方ないからだ。不老不死への憧れや探求は、執着心のある人であればあるほど欲しがるものだ。アンチエイジングもその一つの形かもしれない。現世への執着心とは、現世の価値観における執着心ということになる。

この意識という物を直視したときに、実は本当の意味での意識に焦点をあてていることは少ない。学術としての意識については理解の解明の範疇であるがゆえに研究というロジカルな手法にて論議できる。しかしながら、あくまでこれは人が決めたルールの中で論議することであって、生命という本質に迫る物ではないだろう。

物質主義という価値基準のなかで、全ての存在は物質粒子で構成されているとされる。思考・感情・信念・直感・自我という感覚も、霊的な閃きも・・・
我々は直感という衝動によって、行動の定義付けをされている。その直感や閃きの醸成される土壌はなんなのだろうか?どこかに人智の及ばない力が働いていることを我々は感じている。しかしながら、その人智を越えたものを凌駕して支配するために文明が開花したのかもしれない。
 
精神のコントロールはインパルスであれば、コントロール可能であるはずだ。しかしながら、実際には本番では気持ちのコントロールは容易ではない。あらゆる方法論が出ているがために、絶対的なコントロール下における日も近いのかもしれないが、やはり自分に置き換えても、容易いことではないことがわかる。経験によってコントロールすることができるようになったとしたならば、それはインパルスの成熟?を示すのだろうか?
 脳内ホルモンや血中濃度の変化によって、その精神状態をある程度分析することはできても、結果的にその変化をおこしている背景に精神があるとするならば、その精神の源はなんなのだろうか?ノルアドレナリンやドーパミンなどが出るから精神が変わるのか?しかし緊張しているなどはわかっても、それがポジティブに働いているのか、ネガティブに働いているのかは誰も分からない。

それは果たして脳内のインパルスを分析すればわかるだろうか?どこが働いているのかは分かっても、どのような感情が想起されているかは誰にもわからないのだ。

脳は、意識は時として都合の悪い事象を隠してしまう特徴がある。つまりなかったことにしようと、見ないようにしようとするのだ。これは日常を見ていても、自分の情動を観察していても常に感じることだ。都合の悪いこと、見たくないもの、事実だと思いたくないこと、極力視界から遠ざけようとする。しかしながら、この遠ざけようもないほどの主観的な衝撃はたちが悪い。トラウマとなって輪廻するからだ。そしてその感情は幾重にも瘡蓋が覆っても、またもかぶれてしまのだ。後から覆い被さるその感情というキャベツを取っ払った芯を見つめること、忘れないこと、そしてその芯に基づいて行動することがぶれないということになる。

確かに強く思うことが実現するということの論理もあるが、現実的にはどんなに宝くじがあたると思っていても当たらない。優勝すると誰もが思っていても、優勝するのは1人だ!その優勝というのは人の社会において決めた序列であり、直感とは関係ないものなのだろう。お金もそうだ。しかしながら、そのお金でさえも自らの芯の延長線上にあるであれば、現実となるのだろう。あくまでその根源としての自分がなんであるかを、知らなければならないのだ。

よく太古の人たちは超能力があったというようなことを、実しやかに言われるが、それでは病気や天災には勝てないことも多々合ったはずだ。人はその人智を越えたところに直感という力が働くことを知ってはいるものの、やはり受け入れがたい現実があった。それは理詰めで解決すること、つまり研究と開発によって解決するということ。いつしか、全てはその人間の価値観のなかで、思うがままになると思い込んでいるのだ。

確かに実験心理学という領域に少し触れていたときは、そのロジカルな論法に感心しつつ、いかに制約の多い中でしか立証できないものかと・・・。

どこかで我々は全てが解明されてしまうことを避けているところがあるのかもしれない。全てが解明されてしまうことによる、現実の直視。つまり避けて通れなくなってしまうことで、都合の悪いこと、避けたいことさえも直視しなければいけなくなるからだ。

確立を上げるために人は方程式を沢山見つけてきた。その方程式の数だけ、地球上に埋まっている原理原則を見つけ出し、直感という時に迷うことがあるその情動への関与を下げてきた。しかしながら、どんなに頭で分かっていては、結局はそのスパイラルに巻き込まれていくのである。

歴史から学ぶ、過去からの教訓、四字熟語や標語などは、まさに我々が忘れてしまいがちな、陥りやすい過ち(脳の働きと情動のうつろい)の警鐘を鳴らし続けているはずなのだ。しかしながら、我々は文明という才は秀でてきたものの、果たして精神はより成熟したのだろうか?哲学や思想はそれこそ紀元前のときから変わっていない節もある。

この著書では三つの基本前提が述べられている。これは唯物論の枠組みで行われている研究手法である。エビデンスに今ひとつ違和感を直感的に覚える人は多いはずだ。その自由度のなさもさることながら、唯物論という紐付けに全て帰結することによる直感的な拒否感と言えるだろう。

① 物質主義とは「宇宙に事象とエネルギーしか存在しない」という考え方である。つまり生命・精神・意識といったものは事象とエネルギーが組合わさって生じた副産物でしかない。
② 還元主義とは「事象とは、それを構成する要素、もしくはよりシンプルかつ本質的な要素へと分解することにより、理解できるはずだ」とする観念である。
③ 客観主義では、科学者たちは経験的事象を客観的な視点から、自らの触覚を、そしてあらゆる機器を利用して研究しなければならない。

リハビリの世界では研究とは③になるだろう。また③であっても触覚については、客観的とはいいがたく、自らの科学性をより打ち出すために感覚的な要素を省こうとしている。しかしながら、実際には観察と直感による要素を研究から省くことは、人間の本質から遠ざかるばかりだろう。
臨床においては②が主流だろうか。要素還元主義とは項目に分けて評価を統合して全体性を理解することにある。
その根底には理学療法における①がある。特に医療においてはまだまだ後発といわざるをえない分野であるからこそ、ある程度の地位を得てからでなくては①を脱却することはできない。①が理学療法の前提になってとなると、あまりにも大義が大きすぎる。つまりスケールが大きすぎて、我々の職種には不釣り合いなのだ。
理学療法における東洋医学と語る場合、大概は①〜③を脱却する意味において用いている。しかしながら東洋医学の王道においては、まさに①〜③を主流としなければ認められることはない。よって他分野である理学療法士が東洋医学を語るのは、また東洋医学の専門家の立場とは全く異なるということなのだ。

 何をもって判断するかはエビデンス的手法によって、ルールの中で決めなければ多様な価値観を統合できないからだ。現実的には当てはまらないことが多いのは当たり前のこと。それが臨床において、有効であると実感できないことも多いのは確かだ。しかしながらルールを作らなければ、際限なく拡散してしまい、共通言語にて語れなくなってしまう。よって前提としてのエビデンスを知っていることによって、派生する応用とさらなる科学へと歩を進めることができるのだ。よってエビデンスが完成された科学ではないということを前提としなければ、唯物論では語れない世界への感覚が拒否感を示してしまうのだ。おそらく、この唯物論、既成の当たり前や考え方に虜にされてしまうと、本当の自分とショートを起こしてしまうだろう。

研究という視点が無ければ、そのためのルールを踏まなければ科学というステージにて話すこともできない。それは事実である。よってそのルールのなかに身を置くことを厭わないことだ。私もそろそろ研究という土俵に戻って、論文を執筆することに踏み込まなければならない。

あまり書籍の紹介ができなかったが、少し読むだけであれよ、あれよと、イマジネーションが湧くのである。何かを解き放ってくれるそんなきっかけの書籍となりそうだ。

また続編を期待してください。
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