上手さと強さとは?

新しいセラピストの創造

リカバリーとコンディショニングスキルを有したセラピスト!
一つのテクニカルや専門性に特化したセラピストではなく、幅広い健康に対する知識の生活習慣への提言ができる、そして実践できるセラピストへの創造。

 もちろん専門性とはジェネラリストではなくスペシャリストであるべきだろう。しかしながら、昨今ほどあらゆるバランス感覚を求められる時代もない。昔なら若気の至りという諺もあるように、寛容に世間が受け止めてくれる面もありそうなものだが、現代は例え未成年であっても、人の前に立つ人間には、規範となる人格と行動が求められるようになった。自分が同い年の時には、恥ずかしくて比べようもないような青二才であったことを考えると、本当に若いスポーツ選手などの姿勢は素晴らしいの一言です。
 人生ですから、これからも苦難に直面することは多々あるかと思いますので、現時点でのということになりますが、それでも現時点において特筆するべき存在になり得ている選手をみます。
単に記録やパフォーマンスが優れているということではなく、課題遂行能力と課題を見つけて克服する力。新たな課題を見つけて、その課題を創意工夫すること。何も光も見えないなかでも我慢強く希望を信じる強さ。その力こそが強さになるのです。上手い選手でなく、強い選手とは与えられた環境ではなく、環境さえも引き込んでくる気持ちと信念。克服する力こそが強さとなるのです。
 小さな大ジャンパー高梨沙羅選手の特集が昨日NHKでやっていました。天才と呼ばれるサッカー選手がどうしても伸び悩むのか?そして期待したような成長を遂げられないのか?その原因と要因を考えてきましたが、まさに上記の挑む力と課題を見つけて克服する力、創意工夫する力、そして多くの力や情報、そしてアドバイスから自らの力に引き込む力、その差になります。日本でメジャースポーツである野球とサッカーは、少なくとも多くの人達から認められる環境にあります。よって、取り巻く環境や取り巻きの人達からおのずとちやほやされることになります。マイナースポーツであれば、一流となってもさらにその競技スポーツを普及させるための意識が必要になり、それは自分ではなくパブリックな意識となります。あくまで自分ということが中心で、日本という環境であればそれは今までの現在有している才能で十分にやれる、また周りも合わせてくれるということになります。それはピッチのなかだけでなく、ピッチ外でも心配はありません。野球やサッカーにおいても、メジャーやヨーロッパにおいては、ピッチに入る前の関門が沢山あります。サッカー選手が野球選手よりも、すこしばかり今風?な感じですが、そのあたりにも競技特性と歴史が息づいているのだと思います。
 野球選手がメジャーに行くに当たっては代理人や奥さんがアナウンサーであったりと、環境を整えることにおいてはサッカーよりも内助の功などがクローズアップされやすいと思われます。
 またサッカーにおいてはボールを持てば才能が発揮されるわけですが、野球はバットにボールが当たらなければヒットになりませんし、投げてはストライクが入らなければゲームになりませんので、そのあたりも競技特性として天才という言葉がサッカーには当てはまりますが、野球には使われにくい風潮があります。
 
 奇をてらう戦法は、その時は注目を浴びますが長くは続きません。根底がぶれているので長い目でみると何をやりたいのかわからないからです。信じる力!これは一番難しいことです。信じるその先に光があるとわかっているわけではないからです。それならば具体的に見えているものや、目標のほうが挑みやすいからです。初代が立ち上げた創業は、二代目そして三代目になると難しくなると言われています。それは、与えられた環境にて業務をこなすだけでも大変であることは間違いありません。日々の忙しい業務をこなしつつ、時代の流れを読んで新しい取り組みをしなければいけません。一日一日の業務の繰り返しはいずれマンネリを生み、いつのまにか効率よくできるようにもなりますが、それは固定化することによる停滞と減退を招きます。克服する力と挑む力と、維持管理する労力ではそのエネルギーのかけ方に大きな差がでるからです。

 課題を設定して取り組み、自分を信じて歩んでいく、その姿勢は年齢には関係ないようです。小さなときからその習慣と心掛けがあるとおのずと10代であっても、普遍的な姿勢として通用するのです。
 高梨選手はテレマーク、そして新しいジャンプ台への適応という課題を一年一年クリアしてきています。当然その歩みは簡単ではありません。記録が伴う競技ではないサッカーにおいては、その課題の設定能力が、天才と言われ続けた選手においては身についていないのかもしれません。既にもっている能力にてやれてしまうからです。そして周りもその先入観において、気を使ってそのように思ってしまうので、一つやられると「あいつはやっぱり天才だ」と改めて認めてしまう連鎖が井の中の蛙を作ってしまうのでしょう。
 浅田選手がスケーティングから見直して、トリプルアクセルの新しく作り直した三年間であったりと、既に天才と呼ばれる選手がさらに努力してこその世界一に挑む権利を得るのだと思います。世界一を目指すからこそ、2位や3位になるのであって、そこに満足感はありません。選手は年齢や衰え、そして怪我という間違いなく訪れる壁が来ます。その時には課題を克服するための能力が試されます。小さなときは、無我夢中や楽しくでやっていることで才能が開花し自然に到達することがあります。いずれやりたくないこと、直面したくないこと、小さなときに自然にできていたことを理詰めにて考えなければいけない時も訪れます。
 
 オリンピックやスポーツに人が熱狂するのは、そのような極限を求めるその姿の先に見られるパフォーマンスがあるからです。世界一を目指すその力はエネルギーは、誰もが理想とするものです。しかしながら、自分の弱さや境遇により、その対象となるものが見つからないこともあります。
 選手が現役を引退したら、おそらく取り組めるエネルギーは落ちる可能性があります。松岡修三のようにいつも全力であれば、それは普遍的な応用がきくのでしょう。よって名選手が名監督にならないというのは、選手としての努力と同じだけの取り組みを、自分でなくて周りに対してできるかということになるからでしょう。そしてハングリー精神や縁の下の力持ちとなれるか、そして選手として大成できなかったなどの挫折が、次のキャリアに生きてくることもあります。課題を克服する過程が選手時代にあれば、それは指導に生きてきます。
 やはりその取り組みエネルギーを他にも転換できること、そのことが必要とされてくるのです。我々はそのようなスポーツをみることで、明日への仕事に対してエネルギーをもらうことになるのです。
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