変わったと結果とは?

結果至上主義の功罪!

ほら変わったでしょ!

すごい!

患者さんのびっくりした憧れの眼差し!

おーという聴衆の驚き!

続いて感嘆の声!

その瞬間セラピストは満足感と優越感にしばし浸たる!

麻薬のようなものです。

この味を味わったら、やめられなくなるでしょう!

ゴッドハンド、神の手と呼ばれるように、人は奇跡への憧憬があります。

我々は臨床において、ひたすら変えること!を追求!探求!してきました。

それは、かつてではなく、今現在も変わっていません。人を魅了し、ドーパミンを出し続けるからです。

一瞬の変化!古今東西その憧憬は変わりません。

変わった!おー!は、セラピストへの報酬であり、醍醐味でもあります。

やがて、それはセラピストのエゴへと変わり、自らの能力として誇示することになります。

変わった現象のみが、余韻として残り、変わらなかった事象は奥底に埋れてしまいます。

脳がそうしているのです。都合の悪いことは、さっさと忘れることにしているのです。

これは、脳のメカニズムの問題ですので、仕方ありません。

自己顕示欲が強ければ強いほど、その反動は大きくなります。

優越感!

この優越感は学生時代からの、コンプレックスが強ければ強いほど誇大されます。

かつての自分がそうだったからです。

認められた経験や体験は、そう多くはないはずです。ましてや学校の勉強などの成績は、余程出来ないと優越感にも浸れません。

私も学生時代は決してできた方ではなく、今でももっと勉強していれば良かったと思います。

学生時代出来が悪いほど、逆に社会人になって頑張れることもあるので、人はどこから頑張っても本来はいいのでしょう。

スポーツも若くして燃え尽きてしまうよりも、その後に伸びてくる人も沢山います。

野球のドラフトを、見ていても、社会人や大学生は、甲子園にて活躍した選手ほどは知名度も話題にもならないことが多いです。

しかしながら、きっと甲子園にて活躍した選手を見ながら、力を蓄えていったことでしょう。

スポーツのいいところは、どんなにその時に活躍した実績があったとしても、その後の努力がなければあっという間に成績に反映することです。

そして、言動そのものも常に世間にさらされ、非難の対象となるため、常に規範となるべき態度が求められます。

一度名人かのように振舞ってしまえば、誰からも客観的な評価を受けずに、延々とその格が付いて回って、世間に通用してしまうのが治療家の特性でしょう!

自称でいいのですから、こんなに安易な世界はありません。

それも講習会にて参加者が変わればいいんですから、本当に安易です。

高齢化社会になり、患者層が80代以上も当たり前になって、もはや治すという概念にだけ囚われているようでは時代遅れとなります。

つまり病院だけの箱の中では結果がでているかのように見えることも、在宅に行くと意外にもそうでもないことに出くわします。

つまり介護保険により在宅リハビリや介護予防事業が始まったことにより、病院外にて生活を見るようになって目が覚めるのです。

実はその後の効果が持続していなかったり、本当はかえって辛かった、直ぐに戻ってしまうなど、他の治療や健康法を併用していたり、などが判明するのです。

そして外来では、満足度が低い患者は、自然に来なくなるのです。不満をセラピストに直接言うという慣習がないのです。そして、違う施設や治療院にて、その経緯と不満を訴えます。

医師の診察にて、なかなか本音が言えない患者を山ほど見ているでしょう。

それと同じことがリハビリでも、実は起こっているのです。

そして在宅や生活をみる機会が増えたことで、治すという価値観だけが全てではないことに気がついたセラピストも沢山でてきました。

リハビリテーションの本当の理念は何なのか?よりその人らしい生活をおくるために何ができるか?

在宅や地域に出た時に、リハビリテーションの哲学に立ち返ることになります。

リハビリテーションの理念を体現化するために理学療法という一つのツールがあるのです。

治療、予防、産業、スポーツ、介護、地域、そして障害者、肢体不自由児、難病患者、これら全て引っくるめて治す?変える?と言えるでしょうか。

一瞬の変える結果を出しているなどは、昔から延々と繰り返されてきたことであり、自らが最初でもなければ、過去にももっと素晴らしい臨床家は100年前にも沢山います。

所詮はこれで必ず治るなんていうものはないのです。病院や治療そして個人の中で治るという定義はあったとしても、環境や見方を変えると満足度は変わります。痛みが取れればいいと考える価値観、筋肉がほぐれればいいという価値観楽になったと言われることの価値観、患者さんが役割を見つけた時の価値観、地域とのコムュニティができた時の価値観。エビデンスという名の下に、治るとされている概念は定義できますが、それも一つの価値観にすぎません。

臨床のなかでは、思考過程のなかにエビデンスが必要ですが、セパレートしているわけではないのです。

すごいセラピストはいますけどね。素晴らしい臨床家!の響きに見合うセラピストはなかなかいません。

これからは、医療、福祉、保健の折り合いをつけながら、社会に貢献する視点が主流でなくてはいけません。いつまでも変える、結果をだすという曖昧な考え方では、50年前の法律の制定時代から繰り返されたジレンマから抜け出すことはできません。

人間は、一つのこれだ!という考え方を人にも強要しようとする特性があります。間違っているものは否定すべきです。しかしながら、これは正しいとされていることでも、必ず議論が起こるわけですから、多様性のある価値観の中で、どのように折り合いをつけるのかを考えなくてはいけません。

どうしたらいいのか?
ある治療手技やエビデンスにて、全てのセラピストを同じ考え方に出来ると思いますか?
これは無理です!宗教も平和と幸せを目的としていることにおいては、全て共通なはずですが、一つになりますか?

医療であったとしても、その多様性と、しかし目的は良くするということ、その一つ指針としてエビデンスが出来たことは画期的です。宗教にエビデンス論は通用しませんからね。
しかし、だからと言ってエビデンスに従えは、宗教色のある全てのものに対して無理があります。
実は教育そのものが、すでに宗教の原理が働いているのですから。

エビデンスでも、教育の項目としては必要ですが、ガイドラインが先ではなく、研究的な視点を持つことこそが必須なのです。出てきたガイドラインに沿っての絶対は、常に最新の知見が出るのですから、ガイドラインだけでは理学療法は成り立たないのです。別に解剖学的な視点にて説明してもいいのです。説明する時に、どのような表現をするかの分別が出来ていればいいのです。レッドフラッグの鑑別という情報を必ず最初に入れる。一般的なガイドラインではそう言われている。その前段は、スライドのはじめにに出せば充分で、それが研究のメインテーマにはなりません。各々が学んでいる学問と研究や文献が違うのですから、実際の臨床においてはガイドラインは一瞬よぎるだけで、あとの9割5分は最新の知見も盛り込みながらの臨床なのです。

今の時代の視点とは何かを考えながら、適応し、そしてリードしていくことが、我々の社会的な貢献と必要とされる存在になれるのです。
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Re: セミナーテクニックにはウンザリ

山本尚司
松井さんの言う通りですね。

当たり前のことを当たり前として認識できる職能集団になることが、我々がさらに社会に対して貢献できる存在になりうるかどうか決まりますね。

少しでもこの業界がそして社会が良くなるように頑張りましょう!

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