理学療法士の意識改革

Category: 多事総論
今必要な意識改革とは何か?

理学療法士の意識が問題となることが多くなっているような時節がら、では具体的に何をどうすればいいのか?

意識の低さなど、指摘されていることは事実だとしても、それは個人の問題に回帰するのか、それとも学校教育や社会情勢なども含めて、結果的におきていいることなのか?

時代、時代に、最近の若者は…と嘆くオウム返しが繰り返されていることを考えると、今の時代が、特別問題視されるような状況ではないのかもしれません。このまま行くとマズイよ!といった危機感を、常に持ち続けていることそのものが、セーフティネットになっているのかもしれません。

確かに、栄枯盛衰といいますか、10年単位にて見てみると、業界そのものの浮き沈みが見えてきます。一年単位ぐらいだと、よく見えないことも、10年という歳月は、組織の弱体化など明らかな停滞を顕在化させます。

調子が良い時や、右肩上がりの時には
個人主義に走りがちです。
楽しくて仕方がないからです。
そんな時に、組織のために自己犠牲するような風潮にならないのです。

バブル時代に、他利は似合わないのと同じです。つまりはバブルが弾けるような、大ショックに見舞われると、生き方も含めて見つめ直すことになります。

では、今の理学療法も含めたリハビリを取り巻く情勢の、何が問題となっていて、どのような意識性が根底にあるのかを、少しずつ明らかにしていきたいと思います。

つまりは、この根底にある前提をクリアにしなければ、一つ一つの政策が烏合の衆になってしまい、道が見えてこないのです。一つ一つの政策は、よく吟味されて素晴らしいものであっても、あくまでそれは乗組員であって、船頭の舵取りを間違うと路頭に迷ってしまうのです。
先行きの見えないことほど、不安なことはありません。
その場でお金を落とされても、その先の道が見えなければ不安なのです。
つまりは、応急的な一時金など、義援金も有難いですが、其れよりも仕事を紹介してもらうほうが有難いはずです。仕事があれば、日々の生活の糧が得られ、将来に対するビジョンも描けるからです。

棚ぼたではなく、自ら獲得することに意味があるのです。何故ならば、それは自らの努力と労力に対する対価でもあるからです。身の丈に合わない報酬や待遇は、自らの対価とのバランスがとれていないと感じるはずです。どことなく居心地が悪いというか、脇が甘くなるというか…それが、不安に直結するのです。そして、守りに入り、人が信じられなくなります。つまりは、疑心暗鬼に陥るのです。

さてと、本論に入りますが、今ぐらい理学療法士の自立が求められている時代はなかったでしょう。戦える組織作りを某表とする協会において、ゆとり教育のみんなで仲良くやりましょう!という一昔前の理念とは、そぐわなくなっています。
戦うとは、自らが切り開いて勝ち取るということであり、今だに引きずっている、よしよし良い子になるための教育の延長線上にある価値観や世界観とは別世界となります。

しかしながら、今の時代、どこの業界でも叩き上げの逞しさをもって、育てようというスタンスは逆効果を生むことがあります。つまり、怒ったり叱ったりして育てるより、褒めて持ち上げて育てるという流れです。
自分のタイプは、厳しく育てられることでなければ、怠け者なので駄目だったことは確かですが、その論理を他者に若者に当てはめても合わないでしょう。
だからこそ、今の時代は夢を持って、夢を語れる土俵作りがキーワードになるのです。 閉塞から拡がりへ!抑圧から解放へ!停滞から未来への歩みへ!

また現在の学生事情は、ある程度、勝ち抜いてきた人達を集めることが目的である受験などの競争であるはずが、全入時代を迎えたリハビリ業界においては、その意義を失いその煽りを受けることになります。厳しい受験を経て、理学療法士になる意味が薄れているからです。極端な話をすると、ハーバード大学は誰でも入れるレベルの大学ではありません。何故にそこに向けて必死に頑張るかというと、未来と将来への可能性が拡がるからです。
もちろん学歴だけが、未来への扉ではありませんが、今も昔も、でなければ就けない職業や立場は燦然と存在します。

壁を乗り越えた経験と、その勝ち取った自信が、その後の職業観にも、影響を及ぼすのです。

平等という名のもとに、全ての職業を均等に誰にでも開放することは、必ずそうあるべきだという論調は出てくるものの、現実的に容認されることはないでしょう。

しかしながら、今現在問題になっているのは、今時の若者は…という問題だけではないのです。昔からその温床はあったわけで、今の時代の若者に焦点を当てるだけでは、根本的な問題解決にならないのです。

ある程度、経験を積んで人の上に立つ立場を経験するからこそ、得られた境地はたくさんあるはずです。そして、その道を経て至った境地からモノを言い出すと、近頃の若者は…というフレーズが出てきます。
人は不思議なもので、昨日得た情報や気付きでさえも、最初から持っていたかのように振る舞うのです。

若かりし頃の若気の至りは誰もがあったはずで、そこに寛容な社会が存在したのです。今現在は、即戦力が求められています。その即戦力という意味は、組織にとって業務を遂行してくれるということです。理学療法士としての知識や技術はいつの時代においても大切ですが、昔ほどそのことが引き立つことはありません。

明らかに適応と順応が求められており、レボリューションやイノベーションを、若者がやりにくい空気が充満しています。

例えば、昔から指導的立場にあった理学療法士は、治療場面そのもので勝負していました。業務や運営やマネージメントはそれほど重要視されておらず、価値観のほとんどは臨床です。その臨床も対外的なものではなく、どちらかというと自らの臨床だったのです。研究活動も盛んで、臨床と研究という二つのことにまい進できる幸せな環境であったといえます。個人の知的好奇心を持って、価値が完結する!そんな時代であったからこそ、仕事が終われば飲んだくれても良かったのです。

しかしながら、昨今はメカニカルな観点での価値観だけでは、まかない切れなくなっています。臨床ももちろんですが、運営も、マネージメントも、社会とのつながりも、そして未来へのビジョンも含めたトータルなリハビリテーションセラピストとも言うべき新たな指導者像が求められています。昔、病院にて活躍した有名どころのセラピストは、既に学校教育の中に活躍の場を移した人が沢山います。
 臨床家として多くの後輩をけん引してきたその偉人たちは、今でも素晴らしい業績は色褪せることはありません。しかしながら、現在進行形という観点から考えると、必ずしも臨床や研究中心の先導者では、何かが足りなかったと言わざるをえません。結果的に、時代の変化に翻弄され、病院内での安穏とした空気が一変しました。臨床!臨床!と言う前に業務をこなしてくれよ!というのが、現場の本音です。時に講釈も大事ですが、構っている余裕は現場にはありません。多くの先駆者達が臨床だけでは奉られなくなったのです。リアルタイムに苦悩を繰り返すことになる、激動の医療改正という現場への臨場感とは無縁の指導者達が、理想論にて若者たちは…という言動は、その取り巻く環境への理解と、指導者として管理者としての同世代への反省に立たなければ、世代に問題を先送りする政治の常套手段と何ら変わりがありません。
つまりは、我々が変えられなかったという事実があるのです。我々は、凄いと呼ばれる理学療法士の先輩方を、世界一ではないかと思ったことは一度ではありません。しかしながら、そのスゴイは結局何も変えていないのではないか?特に職能といった観点では、広報といった観点からの認知度と専門性の確立と、世間の認識度の低さはどうしようもありません。
 世界を変えると言っている人で、結局は技術偏向の論点は変わっていません。今も昔もこのタイプの理学療法士が、結果的に目立っているようですが、この繰り返しにて50年間経たことを考えると、自分があくまで優位に立っているという自負のもとに、全ての解釈と、こんなに凄いんだという過程さえもアピールする昨今のアイドル事情と変わりがありません。そこにはネタを全部出してしまい、最終的には無いネタさえも誇張することになる危険性をはらんでいます。
今必要な理学療法士としてのキャラクターは、やりたいことに邁進するだけではなく、プラス今求められていることを機敏に察知し、変化と順応をいとわない、そんな臨機応変、変幻自在の柔軟性ではないでしょうか。
 
 医師と理学療法士の意識の違いは、思ったことが形になるということです。医師に限らず政治家もそうですし、メディア関係の人もそうかもしれません。人に影響力を与えるであろう立場の人は、イメージがリアルタイムに具現化していく実感を有しています。私も最近まではそんな感覚はわかりませんでしたが、それこそ今年の秋口より、その空気を少し感じるようになりました。
 思ったことが形になるという、その世界は本当に違います。おそらく大半の理学療法士はその感覚がないわけで、自分の歩んでいる道そのものが不安となります。刻々と決断と選択を繰り返しながら、またその自由度が認められる社会的地位が医師にはあります。もちろん勘違いしてしまうと、ドクハラとなってしまいます。また、世間を変えていくという視点ならいいのですが、自分のために権力を使いだすと、おかしなことになります。そこはあくまで自分の感情であり、気持ちであり、考えであり、自分の解釈と都合が入ってしまうのです。ご都合主義がいつの間にか、通ってしまうようになると、地位を傘にして、周りが近付きたくないオーラを発散するようになります。パブリックな威厳ではなく、近寄りがたい威厳を放っている人は大半はこの手のものです。
テレビで見ても、理学療法士の表情やしぐさなど目力が足りないというか、どことなく居心地が悪そうです。自信ですね。アウェーに立つことで、初めて分かることがあります。結局我々の業界は、はっきりとした物言いをする機会が余りにも少なく、言動と行動と成果と社会的影響、認知度のダイレクトな変化を肌で実感できる立場の人が少ないのです。
キーワードは中ではなく外です。理学療法の中でいくら吠えたところで、外には聞こえていないのです。
 今こそ歩んできた道を、表現できる術を手に入れる段階にきています。自分という表現は、何かを変えている変わっているんだという実感になります。
それは研修会の開催であったりセミナー事業ということも一つの流れとなっています。病院では昔のように臨床!臨床!と連呼しても、現在はもっと幅広い視点が求められています。しかしながら、回復期を代表とする、リハビリ時期に分けた分業制は、かえって自由という裁量が失われ、コストとタイムスケジュールに追われるノルマとなっています。それは扁桃体を通してのストレスになるわけで、だからこそ病院外にて自己実現をしようという流れが爆発的に起こっているのです。
 SNSで発信するのもその一つの手段です。次ぎの段階に上がるためには、自分がという思考から社会へとステージを上げていくことです。社会と一体化している実感を持ちながら、自らの目の前の課題にこなしていくということです。街づくりやコミュニティづくりに、目覚めたセラピストも沢山います。その視点がとても大切なのです。さらに自らの特性や個性、そして理学療法士としての人格を、パブリックに波長を合わせながら改変しながら進んでいきましょう。
業界のアンチテーゼを背景に、目立っている人は沢山いますが、実は彼らが時代を変えることは不可能です。既に歴史が証明しているからです。
新しい人格を持った理学療法士が産まれる土壌は既に熟しており、すでに次代を担う人材が山程います。
言葉の重みを知っているからゆえに、目立っていないかもしれませんが、信じて歩んできた地力と理学療法士愛こそが、結束力となるのです。
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