前提

Category: 人生訓
前提とは何故に必要か!

もう一月も前になりましたが、フランスへ医療視察に同行した時に、各病院からの説明時にことあるごとに前提が前段としてありました。

聞く人によってどこに琴線が触れるかは、まちまちですが、私はその前提が印象に残ったのです。

例えば、エビデンス!
前提として、フランスの現状に照らし合わせた時に合うかどうかを必ず吟味する。などです。
当たり前のようで、これが昨今の日本ではややおざなりになっている感が否めません。
前提条件がなければ、アメリアにあるエビデンスが日本にてそのまま適応されるということにも、なりかねません。勿論、論文とはどこの国においても、普遍的な価値としての方法と基準によって成り立っているわけで、現代におけるスタンダードといえます。
基準がなくては、何を持って決定するかは定まらないからです。
しかしながら、我々がやたらそのエビデンスに意を唱えたくなる根底には、いくつかの釈然としない事実に直面することが多いからです。

例えばフランスにて英語にて話さないの?なんてことを口走ろうものなら、フランス語にプライドを持つフランス人は賛同はしないでしょう。

それは日本であっても同じことです。ここまで英語能力が上がらない、現状において小学校から英語だけで話す学校を作ろうなんて話もでるかもしれません。現にそれに近いような話も聞いたように思います。しかしながら、日本語の、語量やわびさびやニュアンスを理解することなく、中途半端に英語を覚えたとしても、果たしてコムュニケーション能力の進歩につながるのでしょうか?
日本語でさえも、上手くプレゼンテーションや表現が、できなくなりつつある現代において、そのまま英語にした瞬間にいきなりコムュニケーションがとれるのか、いささか疑問に感じます。おそらく、海外に出たセラピストや人たちは、英語能力そのもの以上に、自らを表現するコミュニケーション能力の必要性を痛感し、帰ってくるのではないでしょうか?

つまり、前提ということの大切さは、会話する時のベースのようなものなのです。日本の場合は島国ということもあり、移民という概念があまり浸透していません。よって日本の価値観や常識人という枠が前提となって、コミュニケーションが出来上がっています。
よって日本語を最後まではっきりと喋らなくても、なんとなく会話が成り立つのです。うーんと語尾を濁していれば、誰かがフォローを入れてくれます。また黙っていても、尊重される文化でもあります。

話をガラリと変えますが、人はどういった時に力が発揮されるか!それは2通りのパターンが考えられます。
⑴人のために何かをしようとする時
⑵自分のために何かをしようとする時

⑴と⑵は、全くの対局にある考え方ですが、対局にあるからこそモチベーションが上がるのです。
震災の復旧や復興のためにボランティアが駆けつけるのは、前者になります。ビジネスや成功という言葉の包括する先には⑵の、さらに私利私欲という側面があることは明らかでしょう。
私利私欲が全て悪いわけではなく、自らの努力と結果に対する対価として、見合った報酬というふうに考えれば、何ら問題にするものではありません。

しかしながら、⑴のモチベーションは難しいです。⑵の最たる人たちは、自己満足という名の下に⑴を否定します。⑴の人たちは人として尊敬できないという観点にて⑵を否定します。しかし、お金は欲しい!という欲はあります。生活ができる最低限があればいい!という考え方もあるでしょう。しかしながら、ワーキングプアと呼ばれる、生活にさえ困窮する現実を目の当たりにすると、生活が最低限できるということは、努力しなければクリアできないハードルとも言えます。
よく10代で神童、20代でなんたら、30代でただの人、と言われますが、
ただの人のカテゴリーに入るには怠けていてはだめです。
努力して邁進してこその、普通です。
リハビリ業界は、社会的な地位は必ずしも高くはない、しかしながら低くもない、微妙な普通になります。
上を見ればキリがないし、しかし人は下をみて納得することはありません。
基本は上昇志向なのです。これでいいというそのスタンスは、努力をしての維持現状なのです。
よって努力して進化してこその、結果的に普通となります。
このなんとも自らのスキルと知的好奇心を満たすだけの立場は、社会的な認知度と待遇が伴わなければ話になりません。
以前は国に擁護され、高待遇であったとききます。私の時代もそうだったのかもしれませんが、バイトにて一日うん万円という恩恵を受けたことがありませんので、見事にスルーしてしまい実感がありません。
つまり、社会的な認知度は低かったはずですが、国や病院に優遇されていて、満足度が高かったといえます。
当然、職能活動をするまでもなく、毎日飲みに行けばいいのですから。

話がそれましたが、何事も分別じゃよ!ということです。前提は、どちらの功罪も認めながら、分別を心掛けるということです。

国際交流において、共通している原理原則は、自分の起源や矜恃になります。その根底にある考え方の基準がわからなければ、言葉がいくら話せても真意は通じないことになります。日本語がわかるなかでも、なかなか伝わらないこともあるコミュニケーションが、さらに英語になってくると、ニュアンスや語尾による伝わりがなくなります。よって、シンプルに枝葉のとれた内容の剥き出しの本当の意味での自分が出てきます。
そこで、方法論や理論よりも、その前提となる熱意や思いがあってこそ、人が興味を持ち、繋がって行くんだと思います。
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