観察

理学療法士の原点

 10月1日 フランスにてお世話になったフランスの理学療法士の立花氏を海老名にお迎えして、運動連鎖アプローチ研究所を見学していただきました。先月の9月にフランスの医療機関に視察に行った時に、病院や観光にあらゆるコーディネートをしていただき、そのおもてなし!の精神に答える番です。

 
 今は実家にプライベートに帰国しての滞在ですが、そこは周りがほっとかないというか、あちこちに呼ばれて忙しく日仏の交流に勤しんでいます。日本の学生の受け入れを担当されていたりと、これからは卒後ももちろんですが、卒然教育にいかに取り組むかという視点が重要となってきます。

卒然教育という視点
 働きだしたらどうしてもその組織や枠組みの中出に取り込まれていきます。社会人としての自覚や順応が否応なく求められた結果、適応と順応そして社会人としての生活に大半の時間とエネルギーは費やされます。
 しかしながら、学生はお金はないかもしれませんが、時間はあります。ある意味、社会人よりも発想も自由であり、その可能性という点では学生ほど埋蔵量の多い時代はありません。
 ともすれば、我々の業界は学生というと未熟という視点となります。また新人や若い新人療法士に対しても同じような子供を見る視点になりがちです。若い新人というくくりは、敬称は確かに間違っていないのですが、その意味するところのニュアンスが、最近の若者は、学生は、とあたかも自らは違うカテゴリーに入っているという前提にて話します。人は常に劣っているであろうもの、下に見れるであろうものに対して基準や目線を向け、そして崇高な理念にて邁進している先方には目を向けない傾向があります。それは、そうだ!そうだ!と急先鋒として時代を開拓していると自負しているビジネスパーソンにも当てはまります。自らが特別である、周りとは違うというはかない優越感に浸っている、二言目にはビジネスを吹聴するその言葉には、既にビジネスそのものの言葉の意味を貶めており、価値を下げていることに気がつかないのです。
 ~法と呼ばれる治療法においても同じです。既に中身や変遷や現在がどうのではなく、その言葉自身の印象と連想するイメージに反射的に嫌悪感を拒否感を感じるのです。ビジネスや成功という言葉そのものが悪いわけではありません。それを使う側の人間によって、拒否のシンボルとして記号として固まってしまうのです。
 話が飛びましたが、学生のその意識と勢いを活かさない手はありません。その揚々たる前途に対して、どうせ働きだしたらと一緒だよと、鼻を折るような、自らの領域に引き込もうとするそのスタンスは置いておいて、多いなら大海を見せて世界に羽ばたくセラピストを育成しなければなりません。
 もはや国内では何をやっても、誇りを改めて感じる瞬間を見つけることは困難です。だからビジネスなりに走る道があることも事実です。しかしながら、暫く眺めている中では、時期と手法と方法の機が熟していません。レクチャーしているひとそのものが、まだ未熟なのです。そして反発を買っているようでは、未来はありません。延々に敵視した中で正当性を相対的に比較することしか自らの目立つ道はありません。いずれ協会や業界全体が大きく国への発言権が増すことで、認められる瞬間が来た時に、アンチテーゼのみで成り立っている団体は行き場を失い、やがて保身のために迷走します。ビジネスのネタとクライアントを失うと商売にならないからです。業界の地位向上はその連中にとってはマイナスであり、常にこの業界があやふやな混迷が深まっていたほうが都合がいいからです。よってリハビリを良くしたいといいつつ、自らの価値が感じれる場面でのみキラキラして、目立てない状況では協力しようともしません。つまり蚊帳の外に追いやられることを極端に恐れるのです。
 それぞれは自負があり、理学療法のために頑張っている人は沢山あるものの、具体的に実感できる事実が必要な時期にきているのです。その突破口が国際化です。特に一セラピストができて、実感できて、今出来ることは、国外に目を向けることです。国内を蔑ろにしろということではなく、今現在必要な時期とやるべきことという意味です。これが当たり前になったら、今度はより国内に融合させて輸出していく発信していく、さらに交流が深まることで国外から研修にくる学生やセラピストが増えるという具合です。
 学生諸君!新人セラピストが何かをまとまって発案したり行動することは、かえって先ずは仕事を社会人としてやってからと叩かれてしまうでしょう。しかし学生運動という時代があったように、学生だからこその主張が社会を変えていくことは、いい意味ので発言や主張ができるのです。

観察という視点
 理学療法は観察が大切だ!!よく考えたら当たり前のことですが、久しぶりに出会った懐かしさを感じてしまいます。つまりは現在はあまりにも多くの視点と考え方があり、本来持っていた観点が埋没してしまっているのです。生活、地域、活動、コミュニティ、街づくり、最近のキーワードとして目にするのもに、変遷していってしまうのです。機能に特化した連想をさせてしまう、観察や動きなどはICIDHの反省というか、むしろ機能偏重の時代に浮かばれない、そして面白くないと思っていなセラピストも多かったはずです。一部の名人と称する人たちが幅を利かせた世界は、ある意味発展性はありません。もちろんそれが真の業界の発展に寄与していきたことも間違いないと思いますが、現在の望むべきスタンスではないことも確かです。今なら時代を変えてくれると思わせる理学療法士は山口かずゆき氏といっても過言ではないでしょう。誰も肯定はしなくても否定はできないはずです。つかり、政治家とは言いませんが普遍的な見方ができる、社会性と若手の活動しやすい環境づくりができる指導者としての素養です。私は石巻にてそのような指導的立場に立つ人たちとの出会いにがありました。改めて次代を担う人たちは決して表には派手にはでていないですが、じわっと滲みてくる昆布のような存在なのだなと感じます。派手にアドバルーンを上げようと言うフレーズは聞こえが良く、若者にはたまらない魅力があるでしょう。それは20代、30代は仕方有りません。世間でもその世代がいい意味でも調子にのって、それでいて華やかに見える人は沢山いるからです。
 観察!このキーワードの大切さと奥深さは、全ての場面に考え方に共通した視点だからです。このような言葉は原理原則となり理念となります。生活の場面ではコミュニティにおいても、セラピストの目利きつまりは観察力ということになるのではないでしょうか!観察して洞察する能力を養っている職業といってもいいでしょう。
 立花氏と一緒に患者さんを見る中で、患者さんのちょっとして体位変換や動作の瞬間に対する指摘とコメントには、さりげなくスラッと言えることのプロとしての振る舞いを感じます。「観察ですよね」誇張することなく、言えるそのスタンスにプロの矜持を感じるのです。少し上げ過ぎですかね~
 元来、我々が機能重視の発展をした中で、見る診る視る観るということが最重視されてきました。先に述べたように時代の変遷と多様な考え方と概念が出てくる中で、技術的な手法や方法ではなく、リハビリの包括する考え方としての活動や参加といった、より地域や社会との接点を連想させるキーワードに魅力を感じた人は多いでしょう。特に作業療法士や女性ならではの視点として、男性優位な機能重視な観点は一部の特権のように扱われたが故に衰退しつつあるようにも見えます。少なくとも発展しているようには見えないです。停滞もしてなければ埋没といった見方が正しいかもしれません。機能重視の視点は、生活や活動といった視点には疎いので、機能が価値としての最上級であった時代からは、流石に別の価値観や視点に広げることは難しいのです。一度は天下をとったものが下野することの難しさに似ています。
 
日本国内では認められない?エビデンスが取りざたされていますが、確かにNの数が大切ですが、海外からみたら日本でも十分み通用する研究は沢山あるものの、それ以上の発展がなく自己満足で終っているもったいない現状がみられるようです。海外も全てエビデンスというわけではなく、一応アメリカの文献は引用しつつも実際はそれほどエビデンスベースにて観ているわけではないということです。医師や研究機関がもの凄い規模の研究結果にて発表しているのを見るにつけ我々もそうでなくてはいけないのでは?と思い込んでいる節が有ります。エビデンスと言っても一体どれほどの結果が実際の臨床に応用されているのでしょうか?医療経済効果としての研究結果が医療改正において引用されるぐらいで、本来の我々が最も価値を置いている質的な効果においては、蔑ろになっているのが現状です。ことあるごとにエビデンスは?その効果は?といいつつ、実のところこのエビデンスというのは都合のよい隠れ蓑の使われていることもあります。知らない分からないことに関してはエビデンスは?と言えば、知らないことに対する知らなくてもいい口実になります。もちろん自らの価値観の範疇を越えるものを受け入れるほど、人は物わかりが良くできていませんので、それはそれで仕方有りません。
 ただ何かを言うためにはエビデンスが必要であることは確かでありますが、自分の持っているデータに対してどのうよに活用するか?本来、何処の国においても研究は臨床中心の環境においてはやらないできないのが当たり前です。開業中心のフランスにおいて、研究することのメリットは限りなく小さくなります。
 時間と労力とを使って、自らの経営を犠牲にできないと思うのではごく自然なことです。私もカイロプラクティック徒手医学会に所属していて、開業しているカイロの先生方が研究発表するその姿勢は素晴らしいと思います。何かを発見し新たな進化と進歩をするべく、尽力するその姿勢は独立しようとするセラピストにおいては是非念頭に置いて欲しい姿勢です。
 逆に海外との比較においてあ、本当に自らの視点やデータが劣っているのか、いや意外にも価値が認められる可能性があるのです。日本は昔から国内では価値が認められない風潮があります。それは職人的な気質であるが故のものなのかは定かではありませんが、職人ということは他人を認めることとは一線を画す意識があるからだとも言えます。
 さらに高見を目指すその姿勢は素晴らしいです。問題はその価値をどのようにプレゼンテーションしてくかという視点なのです。誇張はいけません。テクニカルに走るだけでも駄目です。そのテクニックが前面にでたものが、胡散臭くなるのです。我々が何となく胡散臭く感じる団体や表現があるとするならば、そのテクニッックが際立ち、実は薄っぺらい裏付けと材料しか持ち合わせていないからなのです。よってことさら大げさに誇張することによって、1を10にも100にも見せることになるので胡散臭くなるのです。これが胡散臭さの法則であり、簡単に何かを得られそうな美味しい甘美な味わいも赤信号です。美味しい話ってありますよね。腹が浮くような。その話に乗ったら上手いこと美味しいものにありつける、その過程において自らは何の努力も存在しない。そこに乗るかそるかの決断によって変わることもあるでしょうが、それは身の丈に合っていないのです。身の丈にあった背伸びの仕方をしなければいけません。目がおかしくなったり、何かに取り付かれたような顔貌になっていく人も、周りが見えなくなっています。自らが正しいんだ!と、それは生きる支えなのでおいそれとは抜けられないでしょう。 
 本当の意味での、自らの努力と姿勢が普通に認知され、社会の変革に当たり前のように関われることが大切です。またその場面に慣れることです。私が自ら先頭を切って、でなくてもいいので皆さんと一緒に新しい光を、あまちゃんのエンディングのようにつかみましょう。
スポンサーサイト

コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0