あの日

Category: 東日本大震災
あの日~回想~

 NHKの朝ドラのあまちゃんにて震災が場面設定としてありました。震災を取り上げてのドラマはおそらく初めてではないだろうか?ということでちょっとした話題となっていました。どのようにドラマで取り上げるのか?当事者意識に立てば、まだまだ時期尚早というところでしょう。最近になって戦時の特集が多く組まれているのは、戦争体験が鮮明にのこっている世代が90歳にもなろうかとしていることも無関係ではないでしょう。
 しかしながら、たったの2年半しかたたないこの時期においても、記憶の中での風化は避けられないことは明らかです。何気ない日常に突如訪れる災害。それは甚大な被害であればあるほど、そして当事者が多ければ多いほど、報道の時間が長くなればなるほど心のどこかにトラウマとなって残っていきます。風化は年月とともにチリが積もるように埋れて行きますが、風か吹くとまだ簡単におもてに出てくる時期なのです。

パソコンの中にある写真の整理をしていて、2011年3月11日のその時からの撮影したものが出てきました。あまちゃんでも触発されたこともあってか、当時の記憶と気持ちがリアルに甦ってきます。

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14時46分 私は橋本駅のみずほ銀行の窓口にいました。窓口の職員の方と何やらお話をしていたとおもいきや、その最中にぐらぐらと、いつもより大きく長く、これはこれ以上揺れたら危ないな「建物が倒壊する」という感覚を覚えています。しかしながらカウンターを把持しながら、窓口の女性職員もたんたんとお話をすすめるのには、いやはやプロ意識というのか、それとも何も起こらないという前提の振る舞いなのか?いずれにせよ、何も起こらなかったからこその冷静な振る舞いともいえますが、倒壊していたらそこはマイナスになります。臆病で動けなくなったから助かることもあり、逆に逃げ遅れることも有るでしょう。全ては五分五分の確立なのです。だからこそ想定にとらわれず、最前を尽くすしかないのです。
 職員の方がヘルメットをお客さんに配って、どれぐらいの時間だかわかりませんが、しばらくすると収まりました。屋外にでると街は騒然とした空気のなかで、建物から皆飛び出ていました。それがこの写真です。

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帰途につきながら、振り返っての撮影。なんとも言えない空気が伝わるでしょうか?

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そして何故だか自分の足元を撮りました。何故撮ったのか良く覚えていませんが、地に足がついているか、その足跡を確かめたかったのか、記憶に留めておこうとしたのかもしれません。

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途中の信号は全て点滅で、それでも交差点では譲り合いながら暗黙の了解にて事故の起きないようにドライバーが運転しています。誰に言われるわけでもなく秩序を保つその行動に、このあたりは日本人として流石だなと感じたことを覚えています。

「家族」まずはそこに頭がいきます。電車はどうせ動かないだろう。そう判断した私は徒歩にて隣駅まで移動することにします。電話もあっという間につながらなくなったような。。。駅一つ分であれば、ものの30分もあれば帰宅できます。冷静とは到底いえない精神状態であったと思いますが、食料の確保!が先決であろうと思い、途中の大型ショッピングモールのMrMAXに立ち寄ります。

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瀬戸物は壊れます。

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陳列も散乱です。他にも照明が上から落ちてガラスが散乱していました。

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裏の入り口から入ったのですが、実は既に誘導にてお客さんは表に避難していました。ざわざわざわざわ、既にこの時点で興奮状態なんでしょうね。自らは気がつきませんが。今でこそ平時の論理で初動を語られますが、実際のところは訓練を何度も積んでいなければ不可能でしょう。

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とにかく学校です。連絡はつかないので直接迎えにいこう。

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いち早く迎えにいったであろう親御さんも多かったようです。途中のコンビニでお弁当を買って、学校に向かいます。

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実はこのとき、住まいからほど近い大型ショッピングセンターのスロープが崩れ落ちて、被害が出ていたのです。都内では九段会館とこの店舗にて人身被害が起きていたのです。当事者目線で考えれば、やはり載せるべきか迷う所です。あまちゃんでも、視覚的にはジオラマのみで、一切の映像は使っていませんでした。

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ぞくぞくと防災頭巾をかぶったお子さんが、集団下校していきます。
迎えにいきましたが、既に友達と一緒に帰ったとのこと。無事であることは状況的にわかっていても、実際に顔を見ないと安心できない。この時の感情が、後のボランティア団体の名称である「face to face」につながっていきます。

自宅に戻って、その日は停電、電池は売り切れ、ロウソクを使うしかありません。東北が震源地とのこと。何時にテレビがつくようになったのかは忘れましたが、眼前にて広がるその光景に目を奪われました。
直ぐに仙台の知り合いに電話を入れて、その時はつながりました。
半端じゃない状況が伝わってきます。しばらく車の中で寝泊まりすると。しかしながら、その後は数日は不通でつながらなくなってしまいました。
メールも数日分がまとまって届くなど、ほとんど役に立たず、事後内容が届いてもといった感じでした。
twitterを活用しだしたのも、この頃です。

この時から頭は現地に入ろうということだけでした。
実は3.11は金曜日この日の飲み会は当然キャンセル、翌日土曜日には山口県にて運動連鎖道場があり、移動しなければいけません。果たして電車は?新幹線は?というよりも、そのような状況のなかで家を空けることは果たして・・・。
いろんな思いもありましたが、翌日早朝に移動。横浜線は単線状態になっていて、目の前の下り電車が折り返してくるまで待たなければいけないのか・・そして徐行です。
列車運行情報もネットなど全く役に立ちません。出ていないのですから。この時から被災地の情報と現状が、ニュースやメディアでは追いつかないことに気がつきました。情報が正しく伝わってきていない。だからこそ情報をとってくることが個人で活動をする人の役割ではないだろうか?その伝わっていない情報を発信することが、広範で甚大な被害状況を少しでも好転させる力になるのでは?
 今までは、どうみてもメディアの情報発進力に対して、個人によって何かが変わるようなことはないというのが根底にありました。個人が何かをしたところで何も変わらないと・・・。しかしながら、今回ばかりは、脚で動くこと、この原始的な方法が必要であると直感したのです。

 山口県は西ですので、関東で受けたショックはありません。よって、当事者意識は薄いと感じました。何事も無かったかのように時は進んでいきます。

 日曜には帰京しましたが、余震もあったこともあり、月曜には新幹線は不通になりました。まさに隙間に移動したことになります。JRや営団線ともに相当の線が不通になり、ガソリンもありません。水がお店から無くなり、自動販売機にも赤の点滅です。

 そして3月18日には、翌日からの沖縄ボディーワークの催しのために移動しなければいけません。まずは羽田まで何が何でも着かなければいけません。通常なら二時間かからない行程ですが、4時間前には移動をして空港に相当早くついたことを覚えています。一緒に移動するメンバーの中には空港に6時間前に到着したというものもいました。空港カウンターでもこの時ばかりは乗り遅れても、無料にて振替てくれるサービスをしていました。全てが非常事態であったということです。

 沖縄についたら、流石に影響はほとんど感じません。電池を関東では手に入らないので、沖縄ならと思いましたが、目につく所全て売り切れです。実はこの沖縄にも震災の影響はわずかですがあったということです。自らがというよりも、知り合いのために買いそろえて送るために皆さん買っているようです。

沖縄にいっても、本来ならば心から開放感にといったところでしょうが、とてもそんな気持ちにはなれません。土日でイベントが終って、本来ならば翌日月曜日の便でゆっくり帰るところでしたが、改めてチケットを買って同日の便で帰京しました。なんとなく、気持ちがざわついて、じっとしていられなかったというのが現状です。同じように東京から来たメンバーは早めに帰ったものもいました。


現地に入ろうにも災害派遣以外は車両通行できず、新幹線も仙台駅の修復待ちです。3月26日には神奈川県横浜市にてボランティア説明会が開催されるとのことで参加しました。http://ksvn.jp 神奈川東日本大震災ボランティアステーション。
 説明会では情報ボランティアや避難者を受け入れるボランティアなど、その人のできることを振り分けていって組織作りから始めるようでした。多種多様な能力のある人たちが集まっての、組織作りは活動場所として直ぐにではありませんでしたが、後々の活動を見ていくとボランティアバスやイベントを立ち上げて、定期便のように発進していくなど発展していきます。
 個人は確かに即時的に動ける強味はあるものの、長期にわたる継続性といったことを考えると、やはり団体の強味がでるように感じました。しかしながら団体での運営は、最初は自分の時間を捻出してボランティアとして運営に携わりますが、そこは組織として活動を維持するためには資金が必要となってきます。そう言った意味においてどこかで期限を決める必要があります。逆に個人はいろんな意味での体力というところで限界がありますが、継続するならば意思一つですので、なんとか継続できる可能性もあります。

 その後も海老名市でのボランティア説明会にも参加しましたが、まだ何も具体的が活動場所も内容も決まっていないようで、受け入れもこれからということでした。直ぐに活動できる様子ではありませんでした。しかしながら、これほどまでに何かをしたいと思う人たちが大勢いることに心を打たれました。

 そんなこんなで、ガソリンも給油が開始され、26日に一般車両が通行解除になったことを受けて、結局3月30日にプリウスにて単身仙台に飛ぶことになるのです。プリウスは燃費がよく、往復で仙台なら現地にて給油しなくても帰って来れるであろうことなども要因でした。
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