新たな道へ

Category: 人生訓
参議院選挙を終えて

山口和之氏の当選は、悲願であったことは確かですが、いざ当選をみると、その偉業を改めて感じました。当然ではなく、国政の選挙にて、そして投票によって当選を勝ち取るというのは、途方も無く遠い道に思えたからです。

民主の逆風から、みんなの党に移籍しての選択。あらゆる選択肢の中から結果的に収まったこの立ち位置は、結果的にベストであったといえます。この先に何が起こるかをわかっての決断は、決断とは言わないわけで、かけに近いのです。この決断の源は、あらゆる情勢分析や個人的な感情も含めた因子があるため、一瞬先は闇です。誰もがうまくいくと考え、決断をするわけですが、結果的に結末としてどのようになるかは、わからないのです。

今回の選挙結果は新たなステージにリハビリ業界が理学療法業界が立つことを意味します。
我々の個人の矜持はぶれやすいものです。言葉巧みに誘い出されれば、簡単に寄って行くのが我々です。そんなに強いヒトはいないのです。どんなヒトではお金が無くなれば、うろたえます。そのどん底の時に真理をみることで、本当の意味での矜持を身につけるのかもしれません。本当に何が一番必要なのかは、とことんまで削ぎ落した思考状態においてわかるのかもしれません。

 その行き着く先は、時代に寄らない、普遍性と一貫性となり、哲学や理念となります。その時代において色あせない物を原理原則といいます。

今後、理学療法士を取り巻く環境が、山口氏の選出により180度といっていいぐらい変わってきます。それほど変わることを実感できないかもしれませんが、本当に変わるのです。今までは、遅々として変わらない世の中にリハビリ業界に、そして個人において悶々として、それでも個人レベルで頑張るしか無いと踏ん切って歩む物もいたでしょう。

 それは、理学療法士としての矜持がそうさせる物であれば、今回の選挙結果をもって収束していくことでしょう。もともと個人にて出ているヒトは、何かしら行動力や信念が形になっているわけで、しかしながらその力をどこに集約するべきかが無かったのです。よって個人レベルの勉強会やセミナー事業といったところに、踊らされた文言にさらに踊り狂いのような様相を呈してきていました。

しかしながら、これは仕方が無いことなのです。理学療法士を取り巻く環境が悪化するなかで、夢と希望が無くなれば、それはいくら上から理想を振りかざしても、現実は何も変わらないからです。信じられる何かを具体的に示す必要があって、それはあらゆる方策にて協会も手を打ってきたわけです。
しかしながら、選挙という対外的な、内向きではない、むしろ世間的にはほとんど知名度のない理解されてない現状に置いて、組織力が試される場となったのです。

 結果的に組織率が高い理学療法士は、今回においてはプラスに働いたように思います。個人で自立してという考え方の新鮮さはありますが、それは組織率が高いという中において、ともすればぬるま湯の揶揄される環境における対比なのです。

 学術において今まで、パラダイムシフトが起きたとき、それは全く予想だにしない状況において登場してきます。急にでてきたスター、大谷選手みたな感じでしょうか。確かに星の元に生まれてきたようなスターを求めていることは確かです。職人的な地道に積み上げることとともに、大衆にいかに還元できるかという両立がとても求められる難しい時代です。ポピュリズムに走れば、それは視聴率だけを追い求めるがゆえの、本来のメディアの役割が失われてきます。そしてその価値観はやがて、大衆の意図とは全く違う方向に向いて、やがて離れて行くのです。
しかしながら、その段階では当事者は、どこかのステークホルダーに対して立てているわけで、当の本人にとっては、世間の声は聞こえません。

しかしながら、世間の声とはどこか基準なのか?誰がどこが正しいのか?政党のカラーが全く違うように、それぞれに受け皿があるのです。それを考えると、今現在時代の流れが来ている〜と行ってそれが未来永劫続く物ではないことは確かです。移り変わりとは、身体の恒常性の中の適応のようなもので、主動作筋が働いている裏には拮抗筋があるわけで、同じ場所ばかりを使っていると疲労していしまいます。時には野党も頑張ってもらわないとということになるのですが、3年3ヶ月の審判は結果的に拮抗筋になり得なかったということになります。
決められない政治といわれているように、個々の毎日の行動は当たり前のように24時間しかないわけで、業務で謀殺されます。よってその業務によって何かをやっていると個人レベルにて満足してしまうのですが、それは国政という立場にたつと、何かをやったのだろうか?と国民からは見えてしまいます。つまり対外的な見え方と内向きな政策とは、乖離している部分は否めません。

それでは、今後どのような変遷を辿るのだろうか?歴史をひも解きながら考察していきたい。


理学療法士の変遷①
 臨床において、学術的な観点からパラダイムシフトを起こした、絶対的なセラピストに牽引され、自己啓発を受ける時代から、爆発的な数の増加により、メジャーからインディー化、SNSによる多様性により、世の中にアピールできる基準が低くなってきた。
つまり、実績とは、本来は学術だったのだが、話したい人が話すことにより、いつの間にか活躍していることになっている。つまりは、こうだ。最初は自分なんかが話していいのだろうか、しかしながら同僚の中で話しているうちに、だんだんと慣れてきて、それがいつの間にか実績と解釈される風潮が有ります。それは新たな流れであり、必然でもあるのすが、そこから拡大解釈されてくると、自らのなし得た業績でなくても、集客できるテーマがあればヒット商品としてコンテンツ化してしまうということです。
既に目的は何なのか?手段になってしまうのです。

現在は、そこにビジネス的な手法の巧という、新たなスキルが加わっています。
個のレベルでの台頭は、時として斬新であり、行きすぎると歯止めがきかなくなる。
自らが基準になると、それは価値観の違いにより、一定の見解はなくなってしまいます。
個人の判断は徐々に気がつかないうちに、ある垣根を越えて、自分が思う以上に違う場所に行ってしまうのです。
そうすると、周りとの乖離に対して、自己保守の意識が芽生え、周りが全て敵対しているかのように錯覚していくのです。マイナスの要因ばかりを取り上げて、あたかも自らの正当性を訴えるということです。
学会等にいくとこんなにも頑張っている理学療法士がいることがわかるのですが、ビジネス的にはこの業界は大問題ですというようなネガティブキャンペーンです。ビジネス偏重の輩は、そのような学術の場には眼を向けることはしないのです。崇高なエネルギーの場では、かすんでしまうからです。


②個から公への意識
 理学療法士として個人の学術レベルを上げることを旨とした、歴史を踏まえ、その先導者に引っ張れてきた歴史の初でした。しかしながら、そこに理学療法の原理原則としての矜持が無ければ、手先の技術や理論の学習だけに留まり、実は歴史として、伝統として残って行かないのです。
まさに、学術団体から個人レベルの主張という新たなステージにあります。しかしながら、その主張はいつしか個人の利益のために使われるようになり、やがて団体としての統率力の低下につながります、理学療法士は考えること、突き詰めることを旨とした文化があります。しかしながら、その文化をアピールする術を知らなかったとも言えます。その現実は皆が気がついており、よって、言われっぱなしの現状に釈然としない気持ちで見ていた人たちも多いと言えます。これほどまでに誇りと価値がある職業としての自分たちを愚弄するとは、といった感じです。
 しかしながら、今回の選挙はこの我々の力を示す場となりました。結集して一つの結果を出すための意思を示したのです。国政に送るという、途方も無い大きな結果を残したのです。
 我々が本来やるべき理念を体現化するための、新たな正規軍ともいうべき新たな層が立ち上がってくることになるでしょう。
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