自由診療の可否

Category: 多事総論
適応と順応

自由診療にて開院していることが、あたかも素晴らしいかのような言い回しがされていることを耳にしますが、これにはあらゆるトラップがあります。

その一つ一つについて解説して行きたいと思います。
その1
自由診療にて開業することが果たして凄いことか?
 答えは否です。誰もやっていないことをするという勇気からすると、それはすごいことと言われるでしょう。病院勤務が常である業界において、今までも多くのイベントがありました。

第一の凄い
病院勤務から夜間の大学や鍼灸の学校に通う。私が理学療法士になったときはそんな時代でした。働くだけでも大変なのに、尚且つプラス学校に行くというのは並大抵のことではありません。しかしながら当時から理学療法士の業界において、大学や鍼灸柔整の流れがあったということは、そこには学士志向と開業独立という機運が当時からあったということです。やったことがないものからいうと学費も時間も労力もかかる、働きながらの進学というのは大変です。しかしながらそのような空気が最初から脈々と流れているとすると、自然に後押しをもらえるのです。このメカニズムがサラブレッドとよばれる環境に育った子供が、親を間近で見ているが故にできる精神的な壁の払拭ということになります。
誰もそのような流れをもっていないとしたら、それは凄いとなりますが、先輩から脈々と受け継ぎ、そのノウハウがあるとするならば、そのハードルは低くなります。

第二の凄い 
学会発表 研究発表
 皆さんも経験があると思いますが、学会や研究発表はやったことがないときは本当に大変です。この業界では学会発表が義務とされていることもあり、だれもが通らなければいけないと覚悟します。やらざるを得ない空気ですね。その是非は説いている暇はありません。医学において医療において学術的な活動と後世に残していくことの義務があるからです。何故故に医学がリハビリが治療技術がここまで受け継がれているか?それは先人たちが何かしら書物や研修会や論文にて残してくれているからです。その恩恵を受けていることを自覚しなければいけませんん。学生がなんで将来役に立たない勉強をしなければいけないのか?一度は言い訳のように思います。愚痴の一つですね。大変だからこそ、自分がやりたいことでもないこの受験勉強は関門としてあることは、世界共通であり、学歴が全く関係ないということはやはり言えないのです。


何が煽動に駆り立てるのか

 理学療法士においても免許がなくても腕があればいいということにはならないでしょう。つまりは、義務として決められたことはやるべきなのです。それを腕があれば技術があればというような偏重した主張を繰り返す輩に限って、一切学術や歴史や業界の常識というものに言及することはありません。つまりは都合の悪いところや、言及できないこと、わからないことは述べられないということです。ある一点だけを細く高く述べることで、その深層心理の奥底にあるものをクローズアップすることで、他の選択肢を一切消してしまうのです。消してしまうというよりも、隅に追いやって目に触れないように蓋をしてしまうのです。
 これは洗脳の原理です。脇を通ってもゴミ箱は開けないように、避けて通ることを無意識にて選択します。開ける選択肢は、琴線に触れたと誤解したその主張に揉み消され、目は常にその光の方向から背けられなくなるからです。
 ネットや車の運転にて本性が暴露されることは多々あります。人間は日常においては多くの常識とルールによって縛られています。それらは当たり前ではなく、長い歴の中で作られたルールなのです。よって大衆の合意によって、作られていくそのルールは全ての人にとっての合意ではありません。そう決まっているからという本当の意味では納得できていないこと、理解できていないことが多いのです。頭でわかっていても本当のところはわかっていないということを聞きますが、まさに暗記として覚えていることも、体験と実感がなければそれは知識になりません。知識と暗記は違うということです。
 実体験のないところに、頭の奥底に実は眠っていた感情が呼び起されると、一気に心酔することになります。そこに個人的な不満や認められていないという思いや、疎外感、劣等感などが加わり、一途の光を見るのです。その言葉やフレーズは、ただ耳から入っただけであって本来は体験していないことです。しかしながら、そこはあたかも正しい道であるかのような錯覚が芽生えます。本当のところは何故にそこに賛同してかは説明できないことのほうが多いのです。しかしながら自分を取り巻く環境や状況が後押しして、魔がさすという現象が起こるのです。
 車でトラブルになると、キレマくることがあります。ちょっと煽られたや、一本道で鉢合わせになってどちらが譲るかといった場面において、びっくりするぐらいの本性がでることがあります。車やネットどの画面においては、非常に深層にためた感情が出やすくなるのです。運転やパソコンは情報量としては多いはずで、刺激も多いのですがほとんど身体を動かさないという特徴があります。つまりは多くの情報処理をしているようで、それは体性感覚ではなく脳内での活動がメインになります。知りえた環境や職場、そして人であればそれは抑制がかかります。しかしながらネットや車においては、見ず知らずの不特定多数の人たちが対象になります。そこに生活の延長線ではない、むき出しの自分と対峙することになります。また抑圧されている要因が無いわけですので、さらに自己判断にてすべてがコントロールできる環境下ということになります。
 例えば何かしらルールを守っているのは人の目や、罰則、そして警察がいるからという面は大きいと思います。もし何かしらの原因で無法地帯となった時に、既存のルールが成り立つでしょうか?本来はモラルという形の無い何かで人は基準を持つことになります。これが民度と呼ばれるものです。
 しかしながら、貧困やお金に困ったなどの逼迫した状況においては、そんな当たり前と言えるような平時のモラルは一機に吹っ飛んでしまいます。よく危機的状況の時にその人の価値が出るといいますが、これははっきり言って難しすぎます。よくニュースにて報告が遅いとか、連絡が何でこんなに時間がかかったんだというようなことが問題になりますが、これは当事者としては当たり前の反応なのです。人は自らの危機的状況において、避ける逃げるという逃避行動をとります。一昔前なら揉み消すといったことが、今よりも多かったであろうということです。権力と地位によって、待遇や扱いが違うことに現在ではネットという媒体を通して、だれもが非難を発信できます。長らく特別待遇やひいきといった立場になったことが無い人にとっては当然けしからんになります。つまり、現在の世の中は、まーそれぐらいは仕方がないというような実は思える人が多い事項においても、正論と言えるものが確かに正しいのですが、それはと言ってもそうだよな~という体験のある人が思っても、やはりそういった体験のない人が第三者的に見ればけしからんとなるのです。そしてそのけしからんもすべての人のけしからんではないので、よってそうでない人も正論という流れに反対することができないので、結果的になんとなく堅苦しい世の中になってしまうのです。ルールは不正を防ぐものでありながら、幸せとは直結するものはないことも多く、しかしながら不幸を防ぐことにはなりえます。悪質な飲酒運転が事件となるにつけ、それは一切許さないとう流れは致し方ないところです。しかしながら、それによってどこかの教師が申し立てしていましたが、懲戒免職は厳罰すぎるといったようなことです。いら懲戒免職だろうと言われれば確かに文句は言えませんが、しかしながら一切失敗の許されない世の中ということも言えます。品行方正に永遠にまっとうできれば世界平和になるのかもしれませんが、果たして人間はそのようにできているのでしょうか?
 体罰の問題は同じような傾向があります。確かにわたしの時代には体罰などは日常茶飯事で別にそれによって恨んでいるということは個人的にはありません。しかしながら、それが時として大きな問題になっていることも埋もれてしまっていたとしたら、正義という名のもとに葬られた不幸ということになります。体罰については大義名分として振りかざしていて、教育という名のもとに横行し続けてる現状は是正が必要でしょう。私自身はコンディショニングスポーツの陸上競技出身ですから、球技系の体罰当たり前の現状は私が見ても異常に映ります。愛情のある体罰という基準は難しく、しかしながらタイミングと時と場合によっては有りと言えます。そのうち親が子供に叱るときにも体罰として罰せられることにもなるのでしょうか?きっとそのような聖域ではないですが、踏み込むことにいずれなるのでしょう。

第三のすごい
話が大分それてしまいましたが、第三のすごいは講師活動です。人前で自分の考え方を述べるのは勇気もいります。最近では一年目や二年目のセラピストが人前で講師として話しているを目にします。持論は誰もが話せるレベルだからです。しかしながら持論があたかも正論のように、それも講師として話せてしまうというのはいささか問題です。学問でなくてはいけないとは言いませんが、経験と検証とそして業界にとっての常識とタブーとの不文律があるのですが、それはやはり10年ぐらいしなければわからないところもあります。正しいと話してしまう、つまりこれが効く有効だと、それが良くなるまで一足飛びに飛躍しています。いつから、これで全て良くなる、効果が出る、ということまで言及するのはただの誇張です。これは既にポピュリズムのこれで痩せますというショッピングと何ら変わりないレベルです。
 病院の診察レベルで医師に説明できるか?診断として耐えうるものか?つまりこれは行き過ぎです。商売やビジネスとしての商品を売るというノウハウの見すぎです。
 講師活動も学会発表と似ていますが、自分の蓄積したものを表現するという点でとても意味があります。その考え方は人にとってどのように映るのか、果たして賛同は非難は否定は?そのすべてを受け入れることが、発表の意味なのです。ところが講師となる教えるという立場、聞く人は学ぶという立場です。これは賛否両論という本当に必要な手順を全く省いてしまって、その人の成長に不可欠な要素が欠けてしまうのです。そこが若手の暴走という点につながっています。
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