痛みとは何か

痛みのメカニズムへの考察

 姿勢制御の抗重力能の低下が関節の制限を作る。つまりは四肢関節の運動における冗長性のためには、支持部位も必要となり固定や制限が生じます。脳の働きは不思議です。こちらの思ったように作用していな不一致が多いに生じます。つまりは、本来であれば痛みや外傷があるから固定するという必然性に見舞われるわけですが、この逆も新なりになるわけです。どういうことかというと、廃用や身体の偏った使い方、姿勢にて硬さと不動がもたらされます。当たり前ことを言っているようですが、治癒のための固定という必然性の選択とは別に、不動により固定に近づいてしまうということです。このように、普段目にする当たり前の現象は実は脳が本来持っている、生体の治癒作用の逆転現象ともいえるわけです。つまりは廃用症候群においては痛みの閾値が下がってしまい、容易に痛みを感じやすくなるということなどのその一例です。廃用になると痛みを感じやすくなる。つまりは痛みがあると不動になり廃用になることで不動になる。主語と述語を変えたことが逆説的におこるのです。
 
 理論的には感覚入力が脳にインパルスとして送られ、経験と照らし合わせることで主観的な痛みの尺度が決まって来ます。このように、主観的な感覚というのは、その人による基準であり、よってVASにおいても10が「死ぬほど痛い」という絶対的な尺度?に定義されているのです。しかしながら。そんな経験は誰もしたことがないので、わかりません?となりますよね。受傷時を10だと確かに比較検討ができないことは確かです。しかしながら臨床においては、10段階というと今までの経験の最上値が10となるので、相対的な比較値に近似してくることは確かです。
 
 生体に対する感覚入力において不快なものは、痛みに転換されやすい可能性があります。何故なら、不快な感覚において痛みはどう見ても最上級に位置するからです。
 少し趣向は違いますが、例えば自らの既成概念に無いものが入ってきたとき、大半は拒絶が入ります。何故ならそれは今まで積み上げてきたものを根底から見直さなければいけない可能性があるからです。これは社会的な側面ですが脳からすると、改めて脳のシナブスの再編が求められます。つまりは変化を本来は脳が好むはずなのですが、この変化そのものをチャンスではなく、情動的に違和感として解釈すると、拒絶となります。本当はその新しい何かを咀嚼した再組織化させれば、新たな飛躍につながることになる可能性が高いのです。これらも、全ては脳の変化に対する情動面の表出ということになります。そのメカニズムが世界を動かしているのです。よって理屈通りに世の中が進まないのでは、主観的な脳の働きによる情動への転換の違いによるものだからです。
 
 痛みに戻りますと、よく患者さんを見ていると施術をして改善することは多々あることなのですが、それよりもメカニズムであったり、その機序であったりということを説明して納得して頂いた時にこそ、一番の効果がでることが多いのです。つまりは施術をして、患者さんからの質問などに返答をして、改めて施術をすると効果が倍増するような感じがします。よってやってあげたという施術においては、それはあくまでセラピストの自己満足にすぎないということです。もちろん構築学的な観点から、戻すことでメカニカルストレスとしての作用が解除された時は、他動的な方法による効果が高くなります。外科的な治療がそうであるように、取りきった方が楽になることは沢山ある。その発送で理学療法もメカニカルストレスという観点だけを見るのは良くない。
 実際にメカニカルストレスでは解決できない痛みが沢山あるからだ。その構造的な物理的な観点は計算として成り立つため、ロジックとしては分かりやすく、そしてハマりやすいのだが、生きとし生けるものとしての視点が本来上位にくるべきなのです。科学や工学、経済や政治学もそうだが、そこにヒトの情動という背景に脳の情報処理としての結果、経験と教育と分化と社会状況による修飾が入ってくることを忘れてはならないのです。

 特に痛みとして不思議だと思い出したのは歯痛です。明らかに右の奥歯痛いのに虫歯でも何でもなく、反対側の咬合緩衝が原因であることを一度ならず二度三度経験しているからです。つまりは反対側の歯が当たることで、逆側に顎が変位してしまうのです。しかし、ここまでの説明なら代償によるメカニカルストレスだろうということになりますが、その痛みのある部位にて噛んで痛いわけですから、明らかにその部位に痛みが出ているのです。ところが逆側のあたりを削ると、その局所の噛んだ時の痛みも軽減するのです。これは明らかに脳が作用しているとしか考えられません。負担がかかるということ=痛みが出るんだよ!という警告?なのか。歯は負担がかかると欠けたり抜けたりと、相当なダメージを受けます。その警告として違和感の情報がダイレクトに痛みとなりやすいのが歯のかもしれません。何と言っても歯医者に行った時の痛みは治療を受けたものなら誰もが深く記憶されているはずです。歯科は本当に痛いというイメージが強いですよね。

 不快な刺激においては、めまいや気分が悪くなるという表出も珍しくありません。不快な情報となると、痛みと並んで目眩や気分が悪くなるということになるのでしょう。
 生きることの危機にある時、つまり明日の食べるものがないなどの昔あったであろう、現代では考えられない貧困という境遇。これは目の前の明日生きる物の確保という状況下です。これもある意味不快?な状況であるはずなのですが、この逆光に対しては不屈の力が湧いているから不思議です。人類の歴史は常に飢餓との戦いです。この飢餓に対しては、幾度となく挑みながら克服してきたからこそ、今があると言えます。今は格差の是正ということが盛んに言われていますが、ハングリー精神というのが成長や這い上がる意欲への強いエネルギーになることを考えると、均等化とはその本来人間が培ってきたエネルギーの媒介を失うことになります。根性や野心、我慢や努力などの言葉が形骸化というか死語になりつつある状況において、取って代わっている言葉が夢になります。よってハングリーの延長線上にある、反骨心や嫉妬、コンプレックスというような、ややマイナスのエネルギーによる成り上がりや這い上がって来るという境遇が現代の日本においては似合わなくなっているのかもしれません。

 結果何が起こるかというと、不快というものの排除に乗り出します。格差の是正と均質化、その場しのぎの思考になってきます。口先だけの評論家が多くなるのもこのご時世の特徴です。刹那的に手っ取り早い方法にて有名になろうとする風潮もそうです。メディアの視聴率優先の流れもしかりです。より画面に脳への刺激がどんどん入るように、白黒からカラーにハイビジョンに3Dです。画面にテロップに効果音にと、あらゆる五感に訴えかけます。流石にハイビジョンも見慣れると、その価値が分からなくなります。3Dはやり過ぎでしたね。簡単に視聴者を煽動できる、その媒介への一画面に対する情報量に力点を置くようになってしまったからこそ、お笑い全盛になってくるのです。笑いは確かにヒトを幸せにしますからね。
 しかしながら、その心理学などのカラクリもバレてしまい、また刺激は慣れが出てしまいますので、そのフラッシュのような効果では響かなくなってきます。つまりは飽きてしまうのです。そこで起きるのが、重箱を突くような、けしからん風潮です。寛容さが無くなり、どこか問題や突っつく所は無いかと探しまわっている状況です。そのけしからん状況は、格差であったり自分にはない境遇であったりということになります。その自分サイドではない、待遇や状況に対してやり玉に上がったとしても、あっという間にそのニュースは流れてしまいます。そのけしからんが是正されたとしても、けしからんと訴えていたヒトが幸せになるわけでも満足するわけでもないのです。自分に対する不快は勿論避けますが、敢えて自分に降り掛かった物でもない、対岸の火事においても首を突っ込みだすのです。堅苦しさと自由度が少なくなる結果、特に男性にそのプレッシャーがかかってきます。小さな子供は男の子のほうが手に負えないぐらい暴れると、孫に対して口にするヒトは多いです。そのパワーはいつの時代でも変わらないのに、大人になる頃には草食系とかの表現に取って代わってしまいます。
 不快な物に対する排除と避ける風潮と、女性の社会進出における男女共同意識や男性側の問題として上げられやすいパワハラやセクハラなども、思春期から大人にかけて敏感に男性は感じることで、いつの間にか子供の時のエネルギーが外から出なくなってしまうのです。
 男性社会の弊害としての是正は大いに結構ですが、女性による社会進出への成熟が日本では途上なのだと言えます。
 不快なものへの感情が痛みなどとつながっているため、その不快は全てに向けられてきます。好感度などは正にその最たる物です。見た目は確かに大事ですが、極度にその快への依存が増長すると刹那的な流行廃りのサイクルが早い現代になってきます。政治においては腐敗に繫がってきます。

 脳と痛みという話がいらぬ方向に展開してしまいましたが、AKやOリングなども全く一緒のメカニズムです。この快と不快のシステムを活かして評価に活かしているのです。ただし、その快と不快はいずれ施術者側の主観に支配されやすいという特徴があることも、脳の機能として必ずあるということを理解しておくことです。
 脳は洗脳されやすく、独善的になりやすく、客観視出来ないという特徴を持っています。つまりは自らコントロールは出来ないという最大の特徴があるのです。その歴史的認識に立って、監査があり法律があるのです。
 自分ではどうしようもない脳の調整のために、ボランティアや慈善活動があり、また気分転換としての各種方法、あらゆるグッズやツールが開発されているのです。
 何かの思想教育にて国民や大衆を支配すようとしている方法論を、現代の各国が実践しているのです。でなければ国家として統制がとれないからです。その大衆誘導をする側の驕りや横暴さなどが際立ってくる時に、国民の反感を買うのです。何れにせよ、現代の日本がこれと行って心酔する対象や思想が特別に無いことが、個人の思う所に形成できる良さであり、逆に与えられない分、自分で探さなければいけない辛さに繫がってきます。
 現代の若者が二極化してきているというのは、自ら夢に向かって見つけられる側と、途上期間が長くならざるを得ないことと、挫折による虚脱間も当然あります、最初から何もやらん方がいいわというタイプも当然出てくるのです。これが二極化の根底にあるのです。

 苦しい時こそ生きているという実感を感じられる。マラソンブームもそんな心理と結びついているのかもしれません。Mともよく言われるマラソンは世界的にもですが、日本の流行り方は世界でもかなりのものでしょう。よって、日本により受け入れられやすい土壌としての気質があるものと推察されます。我慢と歯を食いしばって踏ん張る日本人としての持っているものが、きっと我々の根底を作ってるものなのでしょう。思想や国家、宗教に縛られない日本であるかこそ、生命への危機感という試練を自ら作り出すことが、国力を形成することの根本となってくることでしょう。ということで皆さん走りましょう!!
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