運動連鎖道場ゼミコーススタート

初!運動連鎖道場ゼミコース 本日より半年コースがスタートしました

 念願のというか待望の運動連鎖ゼミコースがスタートしました。もとよりテクニカルなマニアック部門と見られがちなサイドばかりでは、これは医学とは言いません。民間療法が悪いとはいいませんが、理学療法士として医学を担う専門家としては、襟を正さなければいけません。節操もなくマジシャンのように変えられるということに陶酔している場合ではありません。研究と臨床というのは常に両輪として回っていかなければいけません。歴史があり脈々と引き継いだ系譜、このことを忘れて自らが一から作り上げたかのような思考は、おごりとしか言いようがありません。都合の良いものを何でも節操なく取り込むことが問題なのです。リスペクトの上にたって、その先代の歴史の重みを感じながら、進んでいくべきなのです。人ひとりでなし得ることはごく僅かです。歴史によって我々は成り立っているのです。
 演説と討論!かの福沢諭吉はディベートの必要性を説いています。ゼミコースでは、まさに論理的思考に立って、世の中の流れと世相を機敏に察する能力を身に着け、そして自らの歩む道の羅針盤を作ることです。知識と技術だけでは、その教育は成り立たないのです。まずは変えられえるという気持ちです。変えられるが自らの利益や権威などに寄らない、時代と次代への担い手としての人材です。支配し主体性を奪ったのでは、それは指導でも先導でもありません。多くの場合は、この現状を憂いて啓発を啓蒙すべきを論じるのは、実は初めから上目線からの視点であるのです。人前で人に囲まれて人の視線を浴びることの心地よさに浸ることで、その地位から降りたくないという意識が芽生えます。人前で啓蒙している人は、自らが優位に立っているという前提に立っています。
 よって、建前は啓発に牽引ですが、実際には自らの自尊心の充足であることことも深層にはあるのです。深層真理のレベルでとどまっていればいいのですが、それを自覚し顕在化するとたちが悪くなります。それは確信犯となるからです。意図的に人の気持ちを扇動する、もてあそぶことになります。そして驕りと過信が時代の運から見放され、凋落へとつながります。今でも政治の世界でよく見られる状況です。

 さて本論に戻りますが、人材育成とはおこがましいかもしれませんが、人とは違う道を歩んで生きたからこそわかることもあります。そのことは伝達してそして引き継いでいくことが必要です。人生の半分を折り返したことを自覚し後世に残すための時期になってきました。これはできるだけ早いほうがいいのです。
 主体性と自らの考えで表現をする。そしてその論理と発言がディベートとして成立していることです。一人一人が世間の風を感じて、世間の流れに沿って社会の一員として活動をすること、行動すること、考えらえること。
縦割りの組織の弊害が日本には延々と続いています。どうやらその流れは戦時中から戦前からのようです。日本の理学療法は長らくその縦割りの状況が続いています。50年間に発足したPT協会は最初から少数派の人達によって、牽引されてきました。そのまま10年20年と経ちます。結果的にピラミッドのすそ野がフレアーのように広がっていました。常に希少価値にて最前線に立ち続ける先人、そしてすそ野広がりの末端には年齢格差のために伝わらなくなったのが現在です。伝わらなくなったエンドユーザーにおいては、主体性と先見性が失われます。そのもの言わぬ若者に対してある特定の人たちだけが甘い汁を吸います。その食い物にする状況を商売にすることの鞍替えがおきています。縦割りの弊害における情報共有の欠如と、そして世代間格差、その天井が閉塞感となって圧迫と先行きの不安感となっています。しかしながら天井の人達はわかりません。それが天井だから圧迫感はないからです。その圧迫感の解放と次代への力を出せるようにすることがゼミの目的でもあります。

 今回は文献を持ち寄り、その要約と説明、つまりその読み込み方のトレーニングです。何故なら、繰り返さなければ進化しないからです。そしてfasciaの英文抄読です。英語も教養の一つです。この国際社会においてむしろこの海外の情報を自ら読み解く力は後退しています。これほどまでに勉強と情報がある状況においても、みずからが獲得するための努力と力が落ちているのは、理学療法においてもマイナスの何物でもありません。
 都合のよい記事や文字をそして書籍を文献を、都合よく解釈して自らのやっていることの正当性を誇示することが常套となっています。おそらく研究から論文にする作業が標準化されていないからだと思われます。間違いなく教育レベルの向上、つまり教育を最低4年生から6年生に変えることが必要です。教養の問題です。レベルとは手に技をもって誇示することでも何でもありません。熱い気持ちを述べることも悪いことではありませんが、その主張がディベートに耐えうるものであろうか?自ら述べることはしても、その反証や反論や他の論理に耳を傾けることができるのだろうか?
 運動連鎖アプローチのテクニカルの部門は確かにあり、その部門がなければ説得力はないことは確かです。そいかしながらテクニカルな職人というだけでは、医療にならないのです。IPSの山中さんがノーベル賞を受賞されても、なおウィットに富んだ振る舞いを感じるのは流石です。少し治療にてできるといって、そのかけた時間と達した努力の期間、そして客観的な査読や評価を経ないで、独自に作られ形成された思考と理論は、一体どれほどのものになるのか?その思い込みと自己評価の高さは思い知るべきだろう。
 ということで月一の半年コースが開催されていきます。そしてさらに道場性による臨床応用シリーズも計画していますのでご期待ください。
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