災害リハビリテーションがもたらす社会的恩恵

災害リハビリテーションがもたらす理学療法士の未来

災害リハビリテーションの重要性は東日本大震災にて明らかになり、DMATやJMATなどの緊急性のある活動への参画の重要性が説かれている。既に1年8ヶ月が経過した中でクローズアップされていることは、要介護者の増大である。これは事前に危惧されたことではあるが、生活不活発の予防ができていないということになる。ではそこに関わる職種は何なのか?というと明らかにリハビリテーション職であり理学療法士や作業療法士ということになる。先日の12月7日も余震とおぼしきM7.3の地震がおきた。津波警報が発令され、迅速な避難行動に危機感の強さが伺えた。忘れかけていた訳ではないが、まだまだ予断は許さないんだということを改めて認識したと同時に、原発の問題もさらに深刻さをもって受け止められたようだ。この避難行動の時に、当然高台に逃げなければ行けない。勾配を昇るということは、それはご高齢の方や障碍者にとってはかなりの労作を伴う。このような場面を見るたびに、理学療法士はもっとなんとかならないものか?もっと効果的な介助方法があるのにという思い出眺めているものだ。つまり共通して見える視点というところが我々だからこそできる社会に対しての提言であり、いわゆる欠けている視点なのだ。いいことがわかっているものの、実際には実現されていないということ、それは思っているだけではなく行動に移すべき事項となる。
さらにSNSを覗いてみると、避難や転倒についてのツイートがリハビリ関係者によってなされている。やはり我々はリハビリテーションという視点にて、社会をみることができる特異性が備わっていることを自覚するべきなのだ。
 その特異性を発揮しなければ、それは何もしていないのと同じである。しかしながら病院勤務というなかで、もたれかかって指示待ちをすることに慣れてしまっていると、その発想と労力とを敢えて使おうとは思わないのだ。病院のなかでの役割だけで十分に大変ななかでさらに、社会という視点にて活動するには、余りにも自立教育がなされていないのだ。自立教育がなされていないというよりも、自立しての行動を控えるように教育された職能集団なのだ。
 今回の震災というのは多くのリハビリ関係者が行動をおこしました。一団体ができることはごく一部の範囲であり、この広範は被害のなかにおいては、その知見も部分的なものとなってしまう。通常であれば一協会がまとめあげた報告書がほぼ全ての知見といえるが、今回に関してはそれが通用しない。つまり協会としてなし得たこと、そしてその実績とノウハウは多くの中の一部といえるのだ。それこそ、今回は心を動かされた人は多かった。その歯がゆい思いがあったからこそ、独自に動いたセラピストが多く居たのだ。そこに誰が責任をとるのとか、誰の指示で活動しているのかという文言は今となっては死語に近い。目の前の人としてできることをしなければ、行けない状況において専門家も素人もないのだ。目の前の家族や自身が被災して避難所に避難したとしたら、その環境においてリハビリ専門家として気がついたことを提案しないわけにはいかないだろう。その時にもし何か合ったらなどを考えるだろうか?結果的には医師と一緒だとしても、実際は誰が責任をとるのか?保険は?と考えると、実は何もないのである。実際に避難所にて医師が動かずに、指を加えて見ている中で痺れを切らして、これは治療ではなく指導だという定義にて結局は自主的に動居たという話をきいた。単に自らを納得させる落としどころを理由を見つけただけで、実際には自主的に行動したということなのだ。仕方なかったという理由において、しかしながら使命感に動かされた平時では決してしない決意のもとに一人一人が動いたことで、自らの理学療法士としての自立性を教育しなくても実地にて学んだのだ。この経験は大きい。その経験を一人や二人ではなく、多くのセラピストがその機会をもったのだ。つまりどのように教育しようという視点は、これは擁護の中での温室培養になる。どのように育てるではなく、どのような機会を与えるかなのだ。そしてその中では裁量権と自由度を与えることだ。結局は当初の心配は杞憂に終っただろう。経験年数や立場などはほとんど関係ないというのが事実だったのだ。覚悟と人としての研ぎすまされた感性にて、例え一年目であっても出来ることは山ほどあったのだ。その熱意を若いうちに経験させてあげることが最も大切な機会なのだ。むしろ経験年数に比例しないのが災害リハビリということになる
 いま、これほどまでに被災者の不活発に対する認識と、リハビリに対する必要性が高まっている時は無いという空気を千載一遇のチャンスであると考えなければ行けない。その必要性が奇しくも東日本大震災にて明らかになったのだ。そして協会が主導でやったということは一部であるということであり、他にも多くのセラピストの経験値と、そして今後も起こりうるである南海トラフト地震や首都直下型の地震における備えという意味で、日本全国の士会が何らかの対策を講じているのだ。情報についても刻々と変わる情報において、現場にて掘り出してきて繋いでくることが大切となる。活動の形態を刻々と変化させながら、幅をもって取り組むことなのだ。災害リハビリなのか医療過疎に対するリハビリなのかはこの際は考えないことだ。情報も含めて自由度と機動力が必要となる。窓口に入ってくる情報も現地において混乱のなかで誰かがこれまた確信のない中でもたらしているものだからだ。その情報のルーツにおいてTwitterやFBにてネットワークを構築し、常に共有できるトレーニングが必要となる。アナログ、テレビ、電話、メール、SNS。そして現地の空気をじかに見て感じることを総合的に判断して下すことができる組織と指示者が必要となる。これは急に任命されてできるものではなく、普段からの備えとトレーニングがあってできるのだ。急ごしらえで出来ることではなく、そのためのノウハウはマニュアルでは役に立たないことが多いのだ。じっくりと読んでいる暇がないということと、その緊迫感のなかで即座に決断することが不可欠だからだ。
 また医師や看護師とは違うのは、いまだに生活不活発において機能低下を起こしている住人の方々の現実です。神戸淡路の震災や中越地震においは、あまりクローズアップされなかった長きにわたる、数万人という単位の被災者の累計によって、その深刻さが明らかとなっている。これは事実でありエビデンスでもあるのだ。エビデンスに基づいた医療が不可欠というならば、この不活発による要介護者の増加に対して新たに理学療法士が取り組むということは当然の行為となる。調査において全国規模での累計がなされているのは、PT協会主動ではない。そのデータを出してもらっているのであれば、そのデータをもとに取り組むべき職能は理学療法士だと手を上げるべきなのだ。
 つまり震災直後の急性期における災害医療活動ではなく、その後も長きにわたり対策と活動lができる職業は我々しか無いのだ。次にまた大きな災害が起きて、またも大量の要介護者が増えたとしたら、一体その間に何をしていたのか?ということになる。問題意識とその目の前に我々の専門性を発揮する場面があることを、もっと自覚するべきである。全国的に災害に対してリハビリ専門家としての組織と取り組みを既におこすことが、真の公益的活動であり我々の地位と専門性を自ずと高めて行くことになるのだ。
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