チャクラと内蔵感覚への考察

チャクラと内蔵感覚への考察

最近、自らを少し客観的にものを見える自分がいる。よく客観的に自らを見る。外から自分をみるようにというようなワークはあるが、その時はそのつもりでやっているのだが実はそうではなかったということがわかる。
 チャクラという概念がヨガなどにあるが、この実態は誰もわかっていない。解剖学的にはどこにも見当たらないからだ。これは経絡でもしかり。実際に体系づけられているのでのこの東洋医学を否定するものは誰もいない。それは、有史以来はるか昔より脈々と受け継がれた系譜だからだ。新興に対しては、科学的論拠は?と問いただされるが、公然と自らが生まれる前から何万人もの人たちで受け継がれた系譜に対しては、敢然と立ち向かう勇気は誰もないからなのだ。ようは大きな力には、簡単には逆らえないというのが前提になる。
 自分自身はここまでの経緯や経過においては、特別別段の何かをやったつもりはない。つまりは、自分のやりたいようにやってきただけのことなので、実は立場は変わっても自分は変わらない。よく芸能人などが自分は変わらないのに周りが変わったということで戸惑いのコメントをすることがありますが、これこそ日々自分の当たり前の価値観による活動や行動が、たまたま現在の価値観に合致して浮かび上がったというだけのことになる。よって時代によっては浮かばれないこともあるし、まさしく時代の寵児とは生まれた時代によってタイミングのようなものなのである。何がプラスに働くか、何がマイナスに働くかは時代が証明してくることになる。人智を尽くして天命を待つ。この意味は天が与えた使命であれば、その時に風が吹くということである。
 しかしながら、もう一つ重要なことはいつのまにかいる立場であったとしても、立場が人を変える、立場が成長させる、立場が使命を与える、ということはあるわけで、その時に同じスタンスではいられなくなる、自ずと指導的な立場になることで与える影響や自覚が必要になる。自覚とは一言で言ってしまえばそれまでだが、実は自覚を実感することはなかった。自覚とは、例えば自分が駆け出しの頃、仰ぎ見ていた先輩の立場に今時分が少なくともいるわけで、これは全ての人に当てはまります。学生ころ成人がものすごく上に見えたり、それこそ大学生のころに既に社会人経験のある24−5の同級生であっても、もの凄く目上に見えたことを思い出します。それこそ30過ぎなどなどというと、全く話にもならないほどの対象でした。しかし既にその年齢をとっくに超えた40代、漫画を読んでいるサラリーマンを見て、驚いていた自分がやっぱり漫画を読んでいる。当時の同級生にあうと、やっぱり変わらないねという話がよくでる。成長していないというわけではないのだが、根本は変わらないということである。
 成長という言葉あるが、これもよくわからないし自覚できない。出来るようになったことは既に特別ではないからだ。出来ない時は知らない時はそのことがとても難しく感じるが、行き着いてしまえば既に過去のことになる。スポーツ選手が栄光の後に既に過去のこととして次に気持ちを切り替えるのは、栄光の余韻というものがあっても、その余韻が自分を成長させてくれるわけではないからだ。
 
 サッカーにおいても例えばC大阪にいる柿谷という選手は同期の選手たちからすると、別格の天才と目されていたようだ。しかしながらこのロンドンオリンピック世代といえる柿谷選手はオリンピックには出ていなかった。上手いということは誇れることであっても、それは既に過去のことであり、今その瞬間に天才であるかどうかは別なのだ。自らが王様でいられる世界はどこにもなく、常にふて腐れること無く、献身的に動かなければ容易に凋落するのである。天才は自分中心になることで、周りが自分に合わせてこないことに不満を抱くことになる。俺を誰だと思っているんだと・・。スポーツのように明らかに結果として表れる、そしてプロであれば自ずと世界基準でジャッジされる世界では、個人の気持ちやキャリアだけでは誰も評価してくれない。マラドーナだけは別格のようですが・・。ところが芸能界などや政治の世界では、その実力というものがおしなべて評価できるスケールがない。権力や支配力といような、本人の努力や実力だけではない、圧力ともいうべきものが存在する。歴史がその愚かさを証明してくれている、その過去の苦い歴史を踏まえて現代は、その時代に逆戻りしないように警報をならし続けている。しかしながら、時代は多かれ少なかれ繰り返されている。それは経験しているわけではない実感というものの欠如。歴史から紙面からだけでは学べない実感ということなのだ。

ファシズム、カルト、宗教、日本人に限らず少なくとも何かそこに警戒感を持つことが常となっていますが、既にこれはDNAに刻み込まれたといってもいいでしょう。だから無宗教で何も信じない、帰属しないという選択肢があり、逆にそれが現代の自分を守る代名詞になもなりつつある。しかし何も信じない、帰属しないということが僅かな人生経験で、自らだけの経験とそのなかで培われた価値観だけで膨大な人類の叡智の積み重ねに比類することができるか?それは無理なのです。よっていつの時代でも自らだけで何かを形成されるわけではなく、団体や家族や先祖代々の家訓などに、そして慣習などに縛られることで行動規範ができるのです。海外に行くとその価値観や習慣の違いに驚くことが当たり前ですが、その価値観の違いに触れることが自らの特性を自覚することにつながるのです。
 その水にいればその水の色も、香りも、味もわからなくなってしまうからです。選択肢の多くなった時代において比較検討しなければ、自らのアイデンティティがわからくなってしまうからなのです。

 チャクラの話から外れましたが、表面の部位としての意識では本来の意味は得られないでしょう。それは空間にあることだからです。筋肉においてもそのランドマークとなる部位を意識しますが、その意識部位が前や後ろなどの面の一部であるということになるので、結局は筋肉という意味合いだけでなくその面の意識ということに支配されるのです。
 そのことは紙面上にこの辺りにチャクラがあるということで意識したのでは、わからないということになるのです。
 空間上の実態のないものとして、イメージの中でのセンターを感じるための指標といえます。そのセンタリングすることの効能を先代の人たちは薄々感じていたものと思われます。経絡もそうですが、そのものが教科書になってしまうことで本来の意味を失ってしまうこともあります。本当は実感するものであり、体系化するものではないのかもしrません。センタリングするポイントとしてのチャクラとしての分化によって、漠然とした一本ではなくて中継ポイントとしてつくることで、その指標とするのです。意識や色に振り分けれてもいますが、本当にそのことを実感したことがある人はいないのでは?と思ってしまいます。その色と用いると教科書に載っているようにこのような感情になり、改善したというような当てはめてみるとその通りだったということはあるにしても、ほんとにチャクラがあって実感しているということとは別になります。

 センタリングは原理原則です。センタリングしなくもいいという発想はまずはありません。歪んでいていいという話もありません。センタリングされて空になった時に、その時の空を維持して意識のポイントはチャクラに移した時に湧き出るエネルギーが感じられます。しかしながら大事なことはそのチャクラであっても部位にとらわれてはいけないということです。局所にとらわれると、そこには固執が生じます。固執とは偏りであり、感情や傾向というのは偏りから生じるものなのです。このチャクラと呼ばれる全てのポイントが均等にそして部位としてではなく、一つのラインとして空になることなのです。空なのでラインというと規定されるので正しくはないですね。
 内蔵もしかりです。内蔵特有の働きはあるもの問題はその存在する部位なのです。五行などでその特性が振り分けられていますが、果たしてその論拠は?というと誰も分かりません。脈々と受け継がれた中での叡智ですので時計学ともいえます。統計は例外があるわけで絶対ではないのです。

 よって自らが東洋医学に興味があって鍼灸マッサージの学校に行ったものの、経絡というものにどうしてもそのまま使う気持ちにはいまだになれないのです。既に伝承として体系づけられているからということで、そのまま鵜呑みにすることはできないということです。経験から裏打ちされて効果もあるから残っている伝統医学としたとしても、実感が伴わないその理論体系は事実であったとしても、自分として自分を形成する根本に関わることなのです。よって頭では理解しても魂のレベルで受け入れに待ったをかけます。人はそれを頑固ともいいますが、それは頑に人の話を聞かない耳を貸さないということではないのです。自らの矜持に従って動いているだけなのです。人の話を聞くということは当たり前のことです。その当たり前のことの実践をすることで、結果的にあなすべき成果に行き着くのか?それならばとっくに誰でも、何かを成し遂げていそうなものです。何かを成し遂げた人がいう一言という書籍が良く出ていますが、別段変わったことは無いはずです。一言一言にうんちくと含蓄があるわけですが、それはその文脈と経過と経験のなかで、そのタイミングにて言われるからこそはまるのです。誰でも当てはまる普遍的なんことは、誰が読んでも参考になるわけではなく、誰もが既に知っていることなのです。しかしながら、ある境遇や追い込まれたりすることで、物事の真理に行き着く瞬間に置いて響く言葉となるのです。よって苦労や追い込まれたりすることが、時として必要と言われるのは、人生の真理に行き着くいわば最もシンプルな原理をつかみ取る瞬間だからです。
 プロ野球のように注目度の高いそして年棒ももらって社会的にも責任のある立場いおいては、毎日がその真理に結びつくべき場面にたちあっているようなものなのです。
 その場面の多さがスポーツが社会生活とは違うスリリングと身震いするような感動と感覚を覚える勝負という世界なのです。勝負においては努力だけでは得られない結果というものがあります。自己満足で出来たと思っていても結果が伴なわない時に、改めて考えるしかありません。それは我々セラピストが日々の臨床にて、どんなに素晴らしい理論や技術をもってしても解決が困難な場面に日々遭遇するということと同じです。
 その技術や知識は過去のものであり現実に目の前で実力が発揮出来るかどうかは別物です。オリンピックでは世界チャンピオンが金メダルをとれいないことが多々あります。その一瞬に人生をかけられた時に往々にして下馬評を覆す結果となるのです。そのいつでも上にいれるわけではないその事実をもって望むことが臨床なのです。


結論として内蔵感覚やチャクラとして経絡などの実態がはっきりしないものは生理学的や科学的な証明もありつつ、その精神世界という脳内のイメージの領域に踏み込んで実感という物差しにて推し量るべきものなのです。
スポンサーサイト

コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0