政治感覚

Category: トピックス
グローバルリズムと隣国の関係

 今現在、日本では竹島と尖閣諸島の問題で大揺れに揺れている。その場しのぎの取り繕いが結果的にどのような結果を引き起こすかの想像力の欠如がもたらした結果と言えます。政治のプロとは、その知識の問題ではなく、その組織そのものの動かし方、利権や権力を扱うスキルが不可欠になります。企業が求める人材というテーマにて放送大学のテレビでは、知識はだれでも努力すれば身に付くが、企業がほしい人材は、プラス、人間関係や交渉、リーダーシップのスキルと性格ということだった。スキルと自分を客観視できるような性格などは、どのように育成していくべきかは誰もわかっていない。つまりは、その講師や教員そのものが、その意味と人格を備えていなければ教育にならないということを意味している。
 政治家はどうか?一人一人の政治家には後援会がぶら下がっており、その地元への利害関係が関与している。選挙によって選ばれるということは無所属で無党派層にて圧倒的な支持を得ない限りは、あらゆる利権団体や政党の後援を配しての出馬では既に手足を縛られているようなものだ。明治維新の改革がなぜにできたかは、名もなき志士達であったからだ。しかしながら、明治維新からしばらくすると、利害関係にて政治は混迷を深めていく。つまりは命や血を持って改革したその歴史の上になって、私利私欲や権力闘争に長けた別の人種が台頭してくるのである。自らは維新などに手を染めるわけではなく、傍観していて時代が来ると暗躍してくる知能犯になります。小沢さんみたいな人ですかね。純粋な気持ちだけでは大衆はなかなか動きません。そこに利益供与があるからこそ人は集まることが多々あるのです。
 日本政府は長らくアメリカという傘下にて擁護されてきました。だから近海にて何事も無いかのように平和な世の中で、自らのことだけを考えて生きていけばいい時代をすごしてきました。しかしながら、日米同盟を軽視したような言動や普天間の問題が表面化してくることにより、その隙を待ってましたとばかり進行してきました。その瞬間、友愛の海などという平和ボケの論理では国際社会は安穏とできないことを思い知らされます。政治家も防衛などより福祉にと聞こえのいい主張により、内向きの国民に対しての賛同を得ようとしました。私自身も実は戦争なんておこり様なない、どうせ何も起こりっこないと鷹をくくっていました。その緊急性を知らなかったのか知らされていなかったのか、国民全体がナショナリズムの欠如と平和ボケをしていたことは否めません。そのように誘導されていたのか思わされていたのか、誰かの意図が働いていたのか?洗脳とは自分がそう思っていないからこそ起きていることなので、自分は自分の決めた意志で誰にも先導されないで自らの意思で動いているという思いが、すでに思う壺だったのかもしれません。
 気持では一発ぶち込んでやればという思いはあるでしょう。この個人的感情の行く先が、いつのまにか韓国に対するすべてを指すことに拡大していきがちです。文化や人までもそこに壁と溝ができてきます。すべてを否定と排除に動きくことで、その感情のままに行動すると戦いということなってしまいます。なめられたら思い知らせるという道理でいえば戦いになってしまいます。しかし、今は戦争をして何の得にもならないことを知っています。一時の感情にて勃発したところで、いったい誰が得をするのでしょうか?きっと島の問題はますます遺恨が渦巻き、国交は途絶え何年もかけて築き上げてきたものまで失ってしまいます。ただ日本だけが大人になっていても仕方ありません。ことあるごとに挑発してくる、それも政治だけでなくスポーツの中にまで、当たり前だと言ってのける精神構造が一体なんなのか?知って理解したところで現実には何も変わりませんが、その大衆心理にこそ我々が陥った歴史の過ちのカギが潜んでいます。
 売り言葉に買い言葉。この感情が世論となり、この世論に乗れば指導者は悠々と戦時へと導いていけます。おそらく第二次世界大戦もそのような状況だったのかもしれません。日露戦争においても戦果が少ないことに国民は不満を漏らしたとのことで、中国も韓国もその大衆心理に誘導されていることは間違いありません。そこにブッシュのような個人的な感情が同期すれば、それは戦火の拡大へとつながります。
 個々の付き合いとしては友人も恩恵もあるでしょう。しかし一旦国民感情としてのナショナリズムを触発されると、その感情は一遍します。恐ろしいもので許されざるものではないことは確かですが、それが全ての否定と報復へとつながることが歴史的に正しいかといわれると、それは否です。しかしながら、静観して冷静にという表現は時として自らを守るための、何もしないということにつながります。つまり反射神経の欠如と低下を引き起こすのです。フットワークの鈍さはそのまか状況判断の鈍さともなります。このあたりの思考が前頭葉をアメリカに預けてしまった外交の歴史が今になって噴き出しています。
 判断しない、他人に預けるというその気質。小泉内閣の時はその圧倒的な支持率にて栄華を極めました。しかし、その後の政権は亡霊に取り付かれたように、悲惨な結果の連鎖となっています。バブルに洗脳された、次代の総理が小泉というエネルギーに当てられたように熱中症に冒されて行ったのです。自らの持ち味を失い、そして国民の感覚が劇場型に慣れてしまったその余波を受けたのです。もともとは小泉さんのように変人と呼ばれてわが道を行く政治家はほとんどいないわけです。その跡をついた二世議員達は、もともとは主体性をもって価値観を構築している脳ではないのです。
 大衆の世論に振り回されても仕方がありませんが、その大衆の気持ちを汲まなければうまくいきません。毅然としたメッセージを発しながら、大衆レベルでは交流を独自で継続して模索していく。
 心理戦となってきている外交において、その機敏さと感性が必要となっています。原稿を棒読みして感情がまったく入ってない閣僚たちは既にもぬけの殻です。自らの言葉で自らの気持ちで自らの責任をもって発信していく気概が求められています。

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