歴史観

Category: 多事総論
歴史観

 8月15日は終戦記念日。今年はいつになく戦時の内容を伝えようとする、特集などが多いように感じる。風化させてはいけないというその想いが、静かにしかし確固たる思いが行動になっているように感じる。戦時の体験を話せる人達の高齢化にともない、どのようにして後生に伝えるか?これは震災においても、リアルタイムで難しい問題です。東日本のようにまだ一年半しかたっておらず、メデイアなどの記録媒体が発達した現代においても、風化への加速は止められないのが現状です。ましてや、戦争体験は親の世代でも幼少時だったりするわけで、ましてや記憶に基づいた講話においても、高齢化の影響は避けられません。
第二次世界大戦の日犠牲者は41万人と新聞にでていましたが、日本人だけで、これほどまでに犠牲を払った戦争はもっと我々の世代に引き継いでいかなければいけないはずなのです。
しかし、我々も含めた若者には、歴史のテスト問題としてサラッと流されているだかで、誰もその核心に触れた教育を受けたことがありません。
隣国がこれほどまでに日本に対して憎悪をむき出しにするのは、教育の成せる技です。よく歴史観だの、戦争責任などと言われますが、何のことが当事者意識は全く湧きません。
敗戦国の悲しさかな、隣国に対して常にその歴史観への表記に気を使わなければいけなくなっています。つまり、正当化して書くことはできないし、例え誤解とわかっていても、黙って耐えるしかありません。かといって自らの国や先祖に対して、延々に否定し続けられますか?それは、何処の国でも無理なことです。裁きを受け、謝罪の意を示したならば、いつまでもそのことに拘って前にはすすめません。祖国のために戦った多くの戦員を弔う気持ちさえも奪われたのならば、それは既に民族としての否定にほかなりません。
シベリアに抑留されて強制労働させられた、その史実は可なのでしょうか?
多くの軍人達は口を噤みました。戦争の話は一切しないという時期があったはずです。突き詰めれば、必ず隠したい史実は出てくるでしょう。負けた国は全てが白日のうちに晒される可能性があり、それが全て凶弾の対象になります。確かに人道的に許されない史実があったのでしょう。戦争といなかにおいては、多かれ少なかれ何処の国にでもあります。原爆を落とされたことに対して、我々は全く声をあげるという意識にはならないです。本来ならば、これこそがひどいではないかと声を上げる対象になってもいいはずですが、教育の成せる技です。
アメリカに対しては、敬意さえも持ち合わせています。
 戦勝気分にて行進していた時は、その権力にものを言わせて横暴な振る舞いをしたものと思われます。敗戦国となると、押し付けられていたところから噴き出してくる横行について心当たりがあれば、それはものを言わぬということになります。永久戦犯が裁かれたところをみるにつけ、きっとその関係者はすべてものを言わなくなるのは、自らの身を案じるからです。
 よって、その歴史感と言われても、隣国のように思想教育を受けていないためよくわかりません。他人事かのように羅列されている記述に思い入れができるはずがありません。しかしながら、これほどまでに語り継ごうとする流れが静かに広まってきているさまをうけ、表立ってはできないその立場のむずかしさが察せられます。
 東日本の大震災は戦後の最大の災害と言えます。そのあおりを食ったわけではないとないと思いますが、戦時のz状況を語り継ごうとする気持ちが沸き起こったのかもしれません。語り継がなければ忘れ去られることになり、歴史は繰り返される。津波は江戸時代や明治時代そして昭和初期にも起きているようですが、記録はなくそして記憶にないといった状況でした。巻物に書かれている記録について、信ぴょう性をもって真剣に唱えて震災前に本気で動く人はいなかったことでしょう。
 かたよった歴史感は時として人間を暴走させることを隣国をみていてわかります。しかしながら、まったくその教育を受けていないどころが、知る機会も自由意志に任せられていては知ることもするはずがありません。学校教育にて教わったことでなければ、そのあとは個人の趣味の領域となるのです。
 日本は教育を受けていないという歴史感ということになります。よって歴史の教科書はすべて統一された論調であることが求められる結果、すべて羅列になります。そこに自国の歴史に対する思い入れはできません。歴史を知って、伝統があって、伝承があることを今の日本は取り戻さなければいけないのでしょう。
 戦争では確かにかなりの帝国主義としての教育がされ、間違った方向に進みました。その反省に立って、逆にできるだけ知らせない教育、そして語らない文化が出来上がり、現在においても隠ぺいと奥歯に物が挟まったような物言いばかりが続いています。戦争を知っている世代が政治家に多いので、その負い目を背負っています。黙って相手に塩を送ることが良しとした対応がここまで助長させた結果となっています。
 竹島問題しかり、尖閣諸島問題しかり。尖閣諸島に上陸されてどうするんだと!!ただの民衆が個人的にやっただけだからと・・何をのんきなこと・・一斉に自由に誰かれなく出入りしてどうするんだ!!絶対に上陸させないという強い意志を示せ!!
 一連のサッカーに限らず屈辱と侮辱のみが記憶に残っている戦後世代にとっては、今さらいつまでもタテにとられて恫喝さえることに屈するわけがない。相変わらず人間は、自分優位の脳の使い方しかしない、相手の立場に立てばそんなこと納得するわけもない。人として絶対に曲げられない矜持がある。
 その一連の行動がいずれ何を招くかを、思いもしない奴らはやはり自らの脳をコントロールできていないとしかいいようがない。
 ただ、ここまで何を言われているのかを、新しい世代は改めて自主的に学ばなければいけない。知識レベルでなく、自らの思想にまで昇華させるべく自らの目で耳で学び取らなければいけない。
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