新ボランティア論

Category: 東日本大震災
新ボランティア論

 昨日3月27日火曜日。日帰りの強行軍にて南相馬へといってきました。南相馬への関わりは昨年の4月から丸1年となります。南相馬市というのは原発25キロ圏内にある地域となり、多くの苦難とともに医療現場が奮闘しています。その中で医療社団法人青空会「大町病院」という病院があるのですが、看護部長の藤原さんという方がいらっしゃいます。震災当初より奮闘の連続。多くのお話とこれからの展望などを聞かせていただきました。
 その中で何度も出てきたキーワートは「ボランティアの人たちに教えられた」という言葉でした。ボランティア精神といいますが、まさに全ての日常にこのボランティア精神が宿ることの大切さを悟られたようです。ボランティアの功罪はいろいろいわれていますが、功としてはその意識とモチベーションの高さにあります。何か特別なことをしようとではなく、誰かのためになりたいというその気持ちが最大限に人の能力を引き出すのです。
 どうも日常で名だたる先生方は特別なことをしようと自らの関わったことによる特別を作りたがる人が多分にいるようで、それは迷惑ボランティアということになります。日常と被災地での現場は全く違うことを理解していないんでしょうね。丹念にみていく中で、その隙間を埋めていく。現地の方々の手が届かないところを、さりげなく関わっていくことこそが求められるのです。
 さてボランティアに学ぶこと、それはボランティアが何のために存在するのか?その意義は何か?ということと無関係ではありません。つまり、何故に自分の時間とお金を使って、無償でそこにくるのか?現地の方からするとそこが申し訳ないという思いと謎の部分でもあるようです。ようは、そこに必要とされているから!そこに自分を待っている人がいるから!ということになります。ボランティアとしている自分としては、そこに見返りは考えてもいないし、感謝されることを期待しているわけでもありません。しかしながら、ボランティアを初めて半年あまり経ってくると、その見返りが欲しくなる時期がきます。これだけやっているのにと・・・私も例外ではなく、頭では分かっていても、その葛藤にあったことがあります。例えば集団体操においては出来るだけ多くの方に来ていただきたいと思うあまり、人数にこだわったりなども一例かもしれません。またボランティアを活動しているメンバーの中でも色々な意見が出てきます。やはり、自分のここまでやっているのにという気持ちが渦巻いたこともあります。しかしその昨年末あたりのその葛藤がすぎると、不思議にその懸案となっていたことが気にならなくなりました。もちろんこれからも、同じようなサイクルはあると思いますが、その葛藤を乗り越えるのに、新たなボランティアとしての視点と本当の意義へと辿り着くのに1年という歳月を要したともいえます。もちろん広報の仕方など工夫をすることが大切であり、より効果的な取り組みへの努力は必要です。しかしそこは事業というよりはNPO的な枠組みであるボランティアの特性を考えることです。
 藤原部長がおっしゃっていたのは、人と人とのつながりの大切さ、つまりそこにリハビリが必要かどうかということよりも、そのボランティア精神そのものが新たな息吹となって芽吹いていく。そのことの価値に到達しているjと感じました。まさに高次のという言い方は適切かどうかはわかりませんが、究極のボランティア論です。

「必要とされているという根底にある理念をベースに動いていくことが、流れを呼び込み、有形無形の恩恵をもたらすことになる」
 つまり、ボランティアという精神があらゆる流れを呼び込むということです。足りないマンパワーや資源のためのボランティアから、 誰かのために必要とされているからやるんだという精神そのものがもたらす、いい意味で予想がつかない流れと効能。思えばFTFこここまで活動できたのは、この頭で考えたからではなく一人一人の精神そのものが綴った軌跡なのです。偶然のような出会いと場面が、奇跡のように起こる瞬間を何度も見てきました。奇跡というとまるで映画の世界のイメージですが、実際に奇跡はラッキーではなく、当たり前のように偶然が起こる小さな瞬間の1ページなのです。

「フレームに人が動くのではなく、人がフレームを作っていく」
 枠組みやシステムに人が当てはまること。一見効率がいいようで、そこには人のモチベーションが伴いません。おそらく社会主義はそうだったように、資本主義の弊害が多いにありながら社会平等の理念のもとに構築したシステムは、結果的に破綻しました。ようは人の感情や気持ちというところにおいて、合理的なシステムが合わなかったということがいえます。リハビリにおいては大量に職員を抱えいてる施設では、その存在意義に疑問を抱く人がいます。自分がいなくても回るんではないか?自分が必要とされていないではないか?ただの歯車の一つになっているんでじゃないだろうか?もちろん歯車一つ噛み合なければ回らないのですが、これは歯車のように決まった動きやルーチンを繰り返すことを意味します。人の気持ちや感情そのものが自己表現できる場こそがやりがいということになります。その表現できていることの価値と喜びを見いだすことこそが、やりがいなのです。よってどうしても生活を支えるための仕事というよりも、自らの必要とされていることが感じれる職場を求めて現在は進んでいます。もちろん被災地においては明日の生活ということと直面している、新聞でも沿岸部の瓦礫撤去の仕事が削減されていくことが報じられており、漁業の人たちの生活そのものがさらに逼迫することが懸念されています。方や漁業の復興のために自立を促すためにという大義名分がありつつも、被災者側に立てばどうしようもない実情もあることは確かです。何でもそうですが、絶対必要な人がいる反面、その制度のために自立できないというもたれかかった関係性も指摘されています。ようは適切なタイミングにて自立を図るための具体的なアクションが必要なのです。
 燃え尽き症候群などは異常な状況のなかで我も忘れて取み、自分の中で起こっている心身の危険サインを無視して活動することにより起こる反動といえます。そこで少し休んでということが必要ですが、これが間延びすぎると動けなくなってしまうのです。次の一歩を支えすぎるでのはなく、一人一人の実情と気持ちを鑑みながらタイミングを図っていくことが大切なのです。

新ボランティア論~これから支援活動をしたいと思っている人~
 一年がたった現在においても、FTFでは何かできることは無いかと問い合わせが全国から多くはないですが少なくもない状況が続いています。潜在的には相当の人たちが何か出来ることは?今から初めてだけど何かできないか?そんな感情は誰もが持っています。そんな気持ちを受け止めの場が必要であるし、またその場を提供できる環境も必要です。ボランティアとは受け手側との双方向性の関係性によって初めて成り立ちます。そのボランティア精神そのものが有形無形の何かを作り出すことにつながるのです。そのエネルギーともいえる精神そのものを届ける。それもやってあげるのではなく、ボランティアその人がボランティア精神にて自己表現することなのです。その日常であれば自分でさえも気がつかなかった自己表現により、新たな自分を想像する場にもなるのです。
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