働く意義問い直す

Category: 多事総論
働く意義・問い直す

 本日の読売新聞に上記のテーマにて記事がでていました。震災後にものの価値観が大きく転換してきたことが記されています。社会貢献を目的に職場や仕事を替えた人が増えているとのことです。自分の仕事と社会との関わりを考えるようになり、NPOを目指す人の裾野が広がった。とのことです。社会貢献という観点に立てば、全ての職業や人は何らかの社会に帰属しており、社会生活のいい意味での歯車となって役割を担っています。歯車と言えば、ただ当てはめられているというイメージが付きまといますが、その歯車がひとつ欠ければ回らないということなのです。
 しかしながら、昨今の若者の風潮として自らの働いている意義が感じられるかどうかということがとても重要なようです。私自身も被災地活動を通じて、そして独立をして一歩世間に出ている身として、もっと理学療法士が社会に出るべきだとは思っていますし、そのように啓蒙もしてきました。
 しかし、被災地活動を通じて別の考え方も生まれてきました。それは病院にいること自体がとても貢献できているということです。こんなことは改めて言うまでもないかもしれませんが、現在の病院での勤務はさながら雑務と会議と決めごとに縛られた、身動きがとりにくい、または自由に自分のやりたいことができない環境であるかもしれません。
 義務としてやらなければいけないことが多くなっている病院での勤務において、つまりは自分の意志や気持ちをどれだけ押さえて任務を遂行できるかということがメインになってくると私のようにB型は厳しいかもしれません。まだ、そこにある程度の決定権が与えられている立場であれば、それなりにやりがいもあるでしょう。思ったことをすぐに具現化できるという、その日常の積み重ねがやりがいの差になってくるのです。
 被災地活動を通じて再認識できたことは、困っているという観点に立てば程度の差はあるにせよ同じだということです。困っている、リハビリでいえば治りたいと思っているクライアントの気持ちです。確かに当初は被災地ということで特別な気持にて臨んでいました。痛みを例にとるとわかりやすいのですが、最も痛みのある場所が治れば、二番目に痛い部位が気になりだします。それは最初に比べれば倉だということで、頭では納得しようとするのですが、やはりその二番目が現在では一番目なので治りたいと思う気持ちは変わらないのです。贅沢な悩みと言えばそれまでかもしれませんが、治ってしまえば途端に困っていた時のことは忘れ、最初は普通であることのありがたみを噛みしめますが、そのうちいろんな欲がもたげてくるのです。健康であればそれだけで十分とは言えなくなるのです。被災地支援から学んだことは、被災地に行くことが支援ということではなく、日常の役割をしっかりと担っていくことが支援になるということです。被災地に行けば隣近所の人たちの安否も含め、何か役に立てることはないかと声をかけます。実はそのような活動や取り組みは日常化させることが、結果的にいつおこるかわからない天災に対しての備えとなり、リハビリ的な予防となるのです。普段から挨拶をして、隣近所に目配せをしていくこと。もちろん困った時は手を取り合うことになるでしょう。しかし日常からリハビリという文化をしっかりと火啓蒙しておくことがとても大切なのです。東北に限らず、同じような少子高齢化の地域は実は大半です。都市型の震災が注目はされていますが、辺境の地にて起こることによる医療過疎の問題はどこでも起こりうることなのです。住んでいる地域を守ることは被災者となっては、自らの心身が傷ついた中ではとても難しいことです。このことは東北にて学びました。その中の極一部の稀な?バイタリティーを発揮できる人たちが先頭に立って頑張っていますが、大半は無理なのです。被災地に里帰りにて復興支援をしようという人はほとんどいません。または現地に留まって活動すると決めることそのものが、物凄く大きな葛藤な中での決断になります。
 もし自分の故郷が何らかの災害にあった場合、飛んで帰ってその復興に尽力できるか?それは外部からみたらそうすべきだ!と言えますが、当事者は自らの人生との天秤になります。はやり自分が故郷に帰るということは、そこで骨を埋めるということです。都会にいて病院を転々とするというわけにはいきません。嫌になったから辞める、そして他のキャリアを目指していくということとは程遠い世界になります。
 日本生産性本部が今年度の新入社員の就職先の選択基準を調査したところ、自分の能力、個性がいかせる」を挙げた人が36.8%と最多だったようです。他の60%はなんだったのかは気になるところですが、「企業への期待感や帰属意識が薄れ、仕事の内容に関心が移った」と分析しているようです。終身雇用によって会社に守ってもらう、人生を支えてもらうという意識は確かにないかもしれません。松下幸之助の時代は、それこそ家族経営といってもいいぐらいの社員の帰属意識の高さと一緒に会社を作っていこうという意識があったように感じます。ともに目標を達成して共に喜び分かち合う。現在は目標というよりも、義務と言っていいノルマになります。ノルマというのは達成して当たり前の世界です。また達成したからといって別段、喜びもないというか下回らなくて良かったという守りの気持ちです。昔は貧乏な家庭の子供たちも多く、工員として雇ってもらっている。そして家族を支えているという意識があったように思います。貧しさゆえの耐え忍ぶ、そして帰属意識。だからこそ結果的に得られる満足感と達成感。ある程度の制約や不自由さの中で目標を達成することの充実感。それは自分のやりがいを最初から求めていては得られないことなのかもしれません。箱根駅伝で東洋大学が圧勝しましたが、速さではなく強さ、勝負強さ、そこが明らかに速さを前面に出した大学との差になっていました。自分のためにというスタンスより、チームのために、それが言葉だけでなく本当に産みの苦しみで突き詰めて、時としてぶつかり涙しながら辿りついたチームのために。明治もエース鎧坂選手を最終区に回しての戦いでしたが、チームに鎧坂さんに今まで頼ってきたから、いなくてもしっかりと走ろうと逆にまとまったといいます。それが最初からエースに依存したチームであれば、それはできなかったでしょう。今年の東海大学がまさにエース依存チームであったように思います。
 エースがいるから大丈夫。エースがいるから自分たちも速くなったように錯覚してしまう。これはリハビリの世界でもよくみられることです。偉い先生がいるから理学療法士としての自分も安心してしまう。そして依存することで自らの力で這い上がることの努力が足りなくなる。なぜならその先生がいることで、近くにいることでステイタスを感じれてしまうからです。集団であっても頼らない。個として自立していること。そして自らの厳しさの上に立って、チームのために考える。そこには個の甘えや自分勝手な私心は無くなります。そこがチームとしての力になります。ともすれば言葉だけで指摘する評論家が多くなった団体は枯渇します。
 さて話を戻しますと、働く幸せを実感できる仕事選びということになります。「社会かや人から感謝される仕事がしたい」が96.4%という驚異的なデータがでています。個人主義を突き詰めた果てにある、この時代。震災を契機に絆や人とのつながりなどに気付かされた若者は、長期雇用が前提ではない働く意味を問いなしている。この意欲をどのように導いていくかが、今後の日本の未来を担ってくるものを思われます。
現在、被災地支援はがれき撤去などのマンパワーから、いかに雇用を創出するか?そこに視点は移っています。社会貢献と、そして人に寄り添うテーマにて被災地に寄与できる、そんな活動がキーワードとなってきています。
スポンサーサイト

コメント:0

コメントの投稿

トラックバック:0